ワカヤマ 8
夜が明け、朝を迎えた私たち。その日、珍しく彼も寝坊して、私たちは遅めの朝食をとっていました。
嬉しくないことに、その日空は曇天模様で、陽を見ることが叶いませんでした。そのせいで、普段から薄暗い家の中が余計に暗く、夕暮れ時と変わらない明るさです。
どこかに竹林があるらしく、彼がこっそり買ってきたタケノコのスープで私たちは体を温めていました。
「デト君、私そろそろお肉食べたーい」
「そうだなあ。確か、鶏肉が売ってたと思うから、晩飯用に買ってくるよ」
「ほんと?ありがとう!」
そんな感じで、いつもの軽口を叩き合いながら食事を楽しむ私たち。しかし、そろそろ慣れ始めてきたあの忌まわしい時間が、またしてもやってきたのです。
突然、通りが騒がしくなってきました。確認のため、彼が席を立ち、窓から外を覗き見ます。
「ああ、やっぱり」
彼の呟いた言葉だけで、私はやはり研究所の人間が来たのだと理解しました。彼も私も、表情が暗くなります。
「毎日毎日、偉いねー」
皮肉交じりに言うと、彼も頷いて賛同しました。どうやら彼もほとほと嫌気がさしてきているようでした。
聞こえてくる叫び声、呼び子、時折鳴る殴打の音。どうやら今日はいつもより一段と激しいようです。彼がやれやれ、と首を振って席に着き、またスープをたしなみ始めました。
しかし、その日はどうも様子が違いました。突然通りが静かになったのです。
もちろん、静かになったのは助かります。しかし、その突然の静けさは何か妙で、不気味さを孕んでいたのです。
沈黙の帳が落ち、数秒経って、私たちはその異変に気づきました。
「おかしいな。静かすぎる」
そう言うと、彼は再び席を立ちました。カーテンの隙間からさっと外を覗き見ると、すぐに彼は顔を離し私の方へ向けました。その怪訝な顔は、どこか不安そうでもありました。
「どうしたの?」
そう尋ねると、彼は重い口調で答えました。
「奇妙なんだ。全員妙に笑ってる。狂ったみたいに笑みを浮かべて家に帰ってるんだ」
やはりおかしい。そう思いました。ここに住んでいる人たちが狂ったようなのは今に始まったことではないので、今更驚いたりしません。それよりも、いつもとは言いませんが冷静で落ち着いた彼が、改めてそんなことを言ったことでした。それはつまり、それだけ彼の見た光景が異常だったということでした。
そして間もなく、いつもと同じように家の扉が叩かれました。いつものように彼が出て、研究員を適当にあしらい、帰らせる。しかし、先ほどのことがあるとそれはあまりにいつも通りすぎるような気がしました。
席へ戻ってきた彼はサングラスをテーブルに置くと、私の顔をじっと見つめて言いました。
「今日は特に警戒しておいた方がいいかもしれない。何か嫌な予感がする」
私は黙って頷きます。来てほしくなかった何か、やってくることが約束されていた悪い未来。そんなものが迫ってきている、そんな気がしたのです。
しかし、そんな思いとは裏腹に時間はただただ過ぎていきました。そして、太陽は昇りきり、お腹の鳴るお昼時となりました。
「今のとこ、何もないね」
「うーん、気のせいだったか?」
首をかしげる私たち。私がパスタを茹でている間に、彼が手際よく赤、緑、黄色の様々な野菜を切り刻んでいきます。
「まあ、気のせいならそれはそれでいいんだけどね」
「そだね。そっちの方がいいな」
そんな会話の間にも、あっという間に料理ができていきます。あっという間に、湯気の立ち昇る白いパスタと色とりどりのサラダが出来上がりました。
そのおいしそうな匂いに食欲をそそられ、私たちは急いで皿をテーブルへ運びます。
「それじゃ、いただきます!」
手を合わせるや否や、木製のフォークをパスタへとやる私たち。一口目を口にしたかと思えば、手はすでに二口目を取ろうとパスタの方へ向いています。
「んー、やっぱりコノハは料理うまいよ。このパスタすごくおいしい」
「パスタなんて誰が造っても一緒だよー」
そんな会話が、まるで調味料のように料理をおいしくしているように感じました。やはり彼がいるから、こんなにもおいしいと思えるのでしょうか。だとしたら、私は今、確かに幸せなのでしょう。いつの間に、彼はこんなにも私の特別になったのでしょうか。
さて、そんな時間にも終わりがやってきます。私はサラダの最後の一口を飲み込み、昼食を終えました。
先に食べ終わっていた彼が、私の皿を台所へ運んで行ってくれます。もう少し余韻に浸っていたかった気がしないでもない私ですが、彼の親切にまずは感謝しました。
そうして、昼食を終え次に何をしようかと考え始めた矢先のことでした。
突然、扉がトントンと叩かれました。まったく予想だにしていなかった来客に、私は思わず体を固くします。
コノハはそこにいて、と私を手で制し、彼が対応しに行きました。彼はドアノブに手をかけると、おそらく少し顔を覗かせるだけのつもりだったのでしょう、僅かに扉を開きました。
しかし、そうしてできた隙間に外から指がねじ込まれました。それも一人だけではなく何人ものです。
突然のことに驚いて彼も抵抗できなかったようで、扉はなされるがまま、外側へ勢いよく開きました。
そして、彼を押しのけるようにして十数ものの人たちがちっぽけな家の中に入り込んできたのです。それは、目が虚ろな、それなのに奇妙に笑った外国人居留区の人たちでした。心なしか、彼らの吐く息は少し紫がかって見えました。




