ワカヤマ 1
ボートが波を割る音。櫂が水を叩く音。ぎりぎりと櫂の軋む音。それらが、半音ずれたソナタのように私の耳に響いてきました。上から照り付けてくる太陽が、意外なほど私たちを苦しめます。日射病になってはいけないと外套を頭からかぶっていますが、潮風の運ぶ熱気がこもり尚更暑い。
汗だくになる私の目の前には、やはり汗だくの彼が。彼が櫂を懸命に漕ぎ続けてくれているおかげで、岸へと少しずつ近づいています。しかし岸辺はごつごつとした黒い岩でいっぱいで、上陸は難しそうでした。
「あとどれくらい?」
岸辺に背を向けている彼に問われ、私は距離を測ろうと目を細めました。
「あと、五百メートルくらいかな?結構近づいてきたよ」
その目測に全く自信はありませんでしたが、とにかく近づいていたのは確かでした。彼が安心したように微笑みます。
「よかった。岸に着くのが先か、ボートが沈むのが先か不安だったけど、どうにかなりそうだ」
そう言う彼の頬を汗が伝い、ボートに落ちて新しい染みを作りました。そこに、跳ねた波が入り込んできて、染みを分からなくしてしまいました。私は手を椀の形にして、入ってきた水を外へちまちま返します。
ボートに乗っているのが私と彼だけならよかったのですが、リュックが思いのほか重く、ボートはかなり沈んでいました。その結果、押し寄せてきた波がしばしばボートの中に入り込んできて、時折こうして外に出さないといけないのでした。
「交代しなくて大丈夫?デト君、かなり疲れてるみたいだよ?」
彼に声をかけると、彼は心配いらないと首を振りました。
「大丈夫だよ。それにこれ、コノハにはちょっと大変だと思うから」
「そう?」
どうにか彼の役に立ちたいと思って出される私の問いですが、何度訊いたところで彼からの答えは同じでした。そして、そんな会話をする間にもボートはぐんぐん陸へ近づいていたのでした。
そうして、さらに三十分くらい経った頃。
私たちはようやく陸へとたどり着きました。しかし上陸できたわけではなく、私たちの目の前にはそびえ立つ岩の壁が。
「どうする?これ、デト君でも登るの難しいよね」
そう声をかけると、彼はうーん、と唸って言いました。
「そうだなあ。高さは大体、十メートルくらいか」
すると彼は、私の方をじっと見て、何かを考え始めました。嫌な予感がした私は、知らないふりをしようと空を見上げました。
が、そんな努力虚しく、彼からの声がかかりました。
「コノハ、悪いけど能力使っていいかな」
なんとなく予感が的中したような気がして、私は思わず身構えました。
「それはいいけど、何するの?」
「いい方法を思いついたんだ」
それを聞いて思い出したのは、トーキョーから逃げ出した時のこと。彼が提案してきたのは、トーキョーの壁を乗り越えるという無謀なことでした。今回も何となくそんなことだろうと私の直感が告げていました。
私は、恐る恐る尋ねました。
「えっと······どんなの?」
「君とリュックを一緒に投げるから、上でうまいこと着地して。その後俺が跳んで追いつく」
「えっと、投げる?」
「そう、投げる」
「え、えええぇぇぇぇぇぇ······」
私の声が空へ消えていきました。そんな私の様子に気づいているのかいないのか、彼は早く早くと迫ってきました。抵抗したところで何かが変わる訳でもないので、諦めて私はおとなしく腕を差し出しました。
「ちょっと我慢してね」
どうやっているのかは分かりませんが、彼が私の手首に爪を立て、さっと引くと、私の手首から血が滲んできました。そこに彼が口をつけ、血を口に含むと、たちまち彼の目が赤みを帯びました。
「よし、来て」
彼が大きく手を広げて、私の前に立ちました。これから起こることへの不安と彼に抱っこされることへの嬉しさで複雑な心境になりながら、私は彼に身を委ねます。
彼は私をお姫様だっこすると、私の体の上にリュックを置きました。それなりに重かったので、うっ、と声が漏れました。
波の上で不安定なはずのボートの上で、彼が見事体を安定させ、足を曲げました。
「せーのっ!」
そして彼が腕を上に挙げた瞬間、私の体が宙に浮きました。ふわり、どころではなく、重力が臓器に直接かかってくるような感覚が押し寄せてきて、顔の皮がとんでもないことになっているのを感じました。上から見たらきっと千人のうち千人が笑ったでしょう。
私の体が最高点に達した後、始まるのは当然落下。
「(うまいこと着地って言ったてええええ!!!)」
声にならない声を発し、今度は臓物が浮く気持ち悪さを体感しました。そこでつい、じたばたと暴れかけ、体が半回転しました。結果、リュックが私の下に。
みるみるうちに岩が迫ってきます。思わず目を瞑りました。
そしてやってきた衝撃。しかしそれは、リュックが見事吸収してくれました。
「むふうぅ······」
リュックがしぼみ、それに呼応するように私の体から緊張が抜けていきました。
その後、陽が翳ったかと思うと、彼が空から落ちてきました。私から少し離れたところに着地します。その手には、食糧袋が。
「ごめんごめん、加減が分からなくって、思ったより強く投げちゃった。怪我ない?」
「怖かったよおおお」
ぷくう、と頬を膨らませた私の頭を撫でる彼。それだけで機嫌が直ってしまう私は、本当に単純です。
「じゃあ、ちょっと休憩したら行こうか」
そう言った彼の視線の先、はるか遠くには、大きく広がる森の姿が臨めました。




