船旅 5
誰も予想していなかった暴風雨。天井が、床が、窓が、キイキイと嫌な音を立てます。波に飲まれ、窓が何度も海中を映し。この世の終わりとさえ思えるような、そんな不安な夜。
どこかで、ゴンッと鈍い音がしました。しかし誰も気に留めている暇がないのでしょう、誰かが甲板から下りてくる足音は一向に聞こえてきません。
突然視界が真っ白になりました。その後遅れてくる雷の音。私は悲鳴を出すこともできず、ひっ、と声を上げました。そこにいるのは、ただ怯えているだけの無力な少女。
しかし突然の不幸は去るのも突然でした。空が白み始めた頃、雨は小降りになり、風もほとんど吹かなくなりました。不気味な真っ黒の雲は、猛々しい見た目はそのままに、いつの間にか遠くに行っていました。
そうしてすっかりいつもの平静に戻っても、私はしばらく動かないでいました。怯えることに疲れたのか、不安の末に無気力になったのかは分かりません。とにかく私の体は、頭は、まったく動こうとしなかったのです。
唐突に、部屋の扉がコンコンと叩かれました。ハッと我に返った私。一瞬混乱してどうすればよいのか分からなくなったのですが、体は対処法を覚えていたのか、自然と返事が口から出ました。
「はい、どうぞ」
彼が帰ってきたのかな、と期待する私。静かに扉が開きます。しかし、そこに立っていたのは船長でした。
「集会だ。ついてこい。兄ちゃんもそこにいる」
拒否する訳にもいかず、ただ頷きます。その反応を見て、船長は部屋を出ていきました。私には船長の顔が、なんとなく物憂げなように感ぜられました。
船長の後を追いかけ、通路に出た私は、通路の暗さに驚かされました。思い返せば、初日の夜以来私は一度も部屋から出ていません。役立たず、という言葉が、私の頭に浮かびました。
甲板へと上がる階段にさしかかった時、私は足下に広がる血だまりに気づきました。甲板から漏れる光を受けてどす黒く床を浸すそれは私に、昨夜の不幸が確かにあったのだという事実を思い知らせました。
甲板へ上がると、マストの下で、乗組員たちが待っていました。そのうちの何人かに憎しみのこもった目で見つめられます。その中には、あの赤毛の船乗りもいました。理由の分からない憎悪が恐ろしくなって目をそむけたその先に、彼を見つけました。すると昨日の恐怖が心の中に蘇ってきて、私は思わず彼のもとへ駆けました。
全員が揃ったのを確認し、船長は私たちの前に立ちました。全員の目が自分の方に向いたのを確認すると、船長はいかにも気が進まないといった様子で口を開きました。
「昨日の嵐は、お前たちの働きでどうにか乗り越えられた。まずはそれに対し、最大の賛辞と感謝を贈りたい。こうして俺がお前たちと話せるのを嬉しく思う。だが、悪い知らせもある」
そして船長は口をつぐみました。悲しみに暮れる素振りをちらりと見せ、それをすぐにかき消した船長。その様子に、ただならぬことが起きたのだと、私は初めて理解しました。
「昨日の嵐で、船員が一人海に放り出された。あの嵐だ、助からないだろう。それから、足を滑らせ頭を打った奴が一人、骨を折った奴が二人だ。それで一人当たりの仕事の負担が増えちまった上に、陸から少し離された。まあそれでも一日あればワカヤマには着くだろう。そうなりゃちょっとの間休める。とにかく今は、一人の冥福と三人の完治を祈りたい」
船長の言葉に賛同するように全員が頷きました。船長の指示で、私たちは黙祷を捧げます。
十秒、二十秒、三十秒経ってようやく、私たちは祈りをやめました。皆暗い顔をしていました。
「話は終わりだ。全員持ち場につけ」
そう言って話を切り上げようとした船長。しかし、それに水を差した人間がいました。それはあの赤髪の男でした。
「待てよ船長。こうなった原因に責任問わなくてもいいのかよ」
「原因だと?」
不審な顔をする船長。それもそのはず、これは不幸だったとしか言いようがないはずで、その原因、ましてや責任など誰に問えるはずもなかったからです。
そんな船長に構わず、赤髪の男は嬉々として語ります。
「そうだよ。俺は出港の日に行ったよな?あいつを乗せるのはやめようとさ。しかしあんたは強引に乗せちまった。その結果がこれだ」
「あいつってのはお嬢ちゃんのことか?まさかお前、迷信の類でものを言ってんじゃねえだろうな」
「迷信じゃねえ!女を船に乗せたら災いが起きる。あいつを乗せたから嵐が起きたんだ!嵐が来るなんて予測されてなかっただろう!」
「天候なんてそんなものだろうが!船乗りが今更何言ってる!俺は持ち場につけと言ったんだ!」
とうとう船長が怒鳴り声を上げました。しかし赤髪の男は止まりません。
「おいおい船長、別に俺だけの意見じゃねえんだぜ、これは。あんた随分威張ってるが、俺たちが反乱を起こすとは考えねえのか?」
その言葉に、船長の動きが止まりました。その顔が、苦々しく歪められます。船長は、私たちの方をちらりと見てから言葉を発しました。
「何がしたいんだ、お前は」
すると赤髪の男は、待ってましたとばかりに声を弾ませました。
「船長、俺は別にあんたに恨みはねえ。あんたは乗せろと言われた奴を乗せただけだ。だからあんたがどうこうする必要はねえ」
そして突然、赤髪の男が私たちの方をびしりと指さしました。
「だがあいつらは別だ!俺はあいつらをここで船から降ろすことを要求する」
「なんだと?」
「別に海に放り出せって言ってる訳じゃねえ。ボートに乗せて食糧持たせりゃ死にはしねえよ」
そこで彼がつかつかと船長たちの方に歩み寄りました。慌てて私も後を追います。
「待ってくれ。後一日でワカヤマには着くんだろう?頼むから降ろさないでくれ」
「てめえは黙ってろ。船長の判断が全てだ」
「しかし!」
「黙ってろって言ってるだろう!」
赤髪の男の迫力に、思わず彼は言葉を呑みました。赤髪の男が満足気に笑います。
そこでついに、それまでかなり悩んでいる様子だった船長が重々しく口を開きました。
「お二人さん。すまないが、船を降りてくれ。食糧は十分に用意する」
「船長、しかし」
「俺は船長だ。商会からこの船を任せられている。俺はこの船を守らないといけない。こいつらに奪われる訳にはいかないんだ。分かってくれ」
その嘆願にも近い口調で発せられた言葉は、彼を閉口させるのに十分でした。彼は目を瞑り、静かに頷きました。
「デト君······」
「諦めようコノハ。この船に乗っている方が危なそうだ」
彼にそう言われてしまえば、納得しない訳にいきません。私も頷きました。
そこからは一瞬でした。
縄梯子が下ろされ、ボートが海面に浮かび、ボートに乗り込み、食糧が投げ込まれ。
大きな商船は、あっという間に小さくなりました。嵐の後の快晴の下、大海原の上。私たちだけが、ぽつねんと取り残されました。
ボートの中にあるのは、食糧の入った袋とオール、そして私と彼。たったそれだけ。
私は、不安の波にただ揺られていることしかできませんでした。




