船旅 3
翌日。
前日の夜のことが嘘のように元気になった彼は、船の仕事を手伝うと言って朝から部屋を出ていきました。残された私はというと、朝食後は何もすることがなく、船窓をぼんやりと眺めていました。
窓から見えるのは、遠くに霞む陸の様子。カナガワを囲む森は海岸沿いに薄く広がり、空の清々しい青色と海の深い藍色の間でその緑はとても映えました。鮮やかな美しい景色に、うっとりと見とれます。
上から聞こえてくる、靴が木の板を踏み鳴らす音と船乗りたちの喧噪を子守歌に、私は窓べりでまどろみました。ベッドの上で窓の縁にもたれ、陽の光に包まれます。そうしていると、幸せな退屈を感じられました。
そんな中で考えてしまうのは、やっぱり彼のこと。今一度、私の中での彼の存在の大きさを知りました。
カナガワ滞在の際に初めて気づいたことですが、彼は私の姿が見えないとひどく不安になるようでした。ほんの一瞬私が部屋を出てすぐに戻っても、彼は私を見つけるとひどく安堵するというようなことがありました。もちろん、彼は私を守ろうとして私と共にいます。彼の呪いの存在意義は私を守ることであることも関係しているのでしょう。しかし私は、彼が私のためだけに一緒にいてくれているわけではないような気がしました。まるで、自分のためでもあるかのように。
そこで、私は昨夜、夕食後に尋ねたのでした。デト君が一緒にいてくれているのは、私のためだけなのかと。もしかしたら、結局は他人であるはずの、知り合ってからまだ半年も経っていないはずの彼が私を守ってくれることの確かな理由を、私は欲していたのかもしれません。その理由を知ることで、自分を安心させようとしたのかもしれません。彼が私の許を離れないことを信じられる根拠が、欲しかったのです。
彼は応えることをためらう素振りを見せたものの、ぽつりぽつりと話してくれました。
「実はね」
彼は一度息を吸い、諦めたように始めました。
「俺は、忘れられるのが怖いんだ。
研究所は俺を造った。でも、奴らは実験体として、データとしての俺しか知らない。俺はたくさんの人と出会ったけど、その人たちの特別な人にはなれていない。俺は普通の人間としてありたいんだ。データのためだけに生まれてきた人造人間じゃあ、俺の人生に価値は無いような気がしてね。価値を見出したい俺は、誰かの特別になりたかった。忘れられない存在になりたかった。誰か一人でいいんだ。俺はその一人を求めてた。
そこにコノハが現れたんだ。そして今、コノハは俺にとっての特別になってる。だからこそ、コノハには俺を忘れてほしくない。俺を一緒にいさせてくれるコノハを死なせたくない。俺が君を守るのは、そういう打算的な考えからだよ。失望した?」
彼に問われ、私はゆっくりと首を振りました。もしかすると、親の顔も知らないかもしれない彼。ずっと孤独を感じていたのかもしれません。私にとって彼がかけがえのない存在であるのと同じで、彼にとっても私の存在が並大抵のものではないことを知りました。
「失望なんて、する訳ない。私は絶対にデト君を忘れないよ。死んだって忘れるもんか」
「死んじゃあ駄目だよ」
そう言って、彼はふふ、と笑いました。その笑みはとても悲しげで。私は思わずベッドに座る彼を抱きしめました。びくりとする彼の体。しかし彼の体はすぐに緊張を解き、私の頭を優しく撫でてくれました。
ところがそこで再度吐き気を催したのか、う、と彼が呻いたのを聞いて、私はすかさず彼から離れました。昨夜は、そんな夜でした。
そんなことがあったので、私はつい彼の孤独について思いを馳せてしまうのでした。そして、私は彼を忘れないためにいるのかなあ、とぼんやりと思います。そう、それはまさに存在意義······。
そこまで考えて、私ははっとなりました。このまま考え続けて、存在意義を確立してしまったら、呪いが発現するんではないか。そんなことを思ったのでした。幸い、彼が呪いにかかった時のような兆候は見られなかったので、呪いの発現には至らなかったようです。
頭が冴えた結果、逆に考えることが見当たらず、私はまたぼんやりと座っていました。何分か経ち、ふと私は思い出しました。
「裁縫道具あったよね」
ベッドを降り、傍らの彼のリュックを開けます。中には大量の服、裁縫道具、そしてコノハナサクヤ。よくよく考えれば、彼は常にサクヤちゃんを身に着けた状態で歩き回っていた訳です。私は改めて彼の身体能力に驚かされました。が、今回はサクヤちゃんが目当てではありません。私は裁縫道具と彼の黒いTシャツを取り出しました。
「さあ、どうしよっかな」
私は自分が悪戯っぽく笑ってしまうのを自覚しました。彼の質素なTシャツに勝手に模様をつけるのが、私のお気に入りの、ささやかな悪戯なのでした。
「早く帰ってこないかなあ」
ベッドに座り、私はぽつりと呟きました。当然、返事はありません。よし、と一息入れて私は刺繍を始めました。
いつの間にか遠くに臨む陸には緑はなく、赤黒く広がる砂漠が青いキャンパスの中で淀んで見えていました。




