トーキョー 1
灰色の雲が広がり、朝からの雨が降り続く中、私は一人暗い路地裏で座り込んでいました。もう夏が近いというのに、ひどく寒い日でした。いや、本当はかなり暑い日だったのかもしれません。でも私は、体の芯からすっかり凍えてしまっていたのです。その日が最悪の日であることは、間違いようもありませんでした。
私の太ももに空いた穴。流れ出す血は、鮮紅の水たまりを作っていました。意識は朦朧とし、伸びきった手足の感覚は失われつつあります。ここで死んでしまうのかな、なんてぼんやりと考えました。
パンを盗みそこなって逃げ出した際、太ももを撃たれてしまったのです。それでもどうにかここまできましたが、血を止めることもできず数時間、もはや痛みすら感じなくなりました。逃げることにはかなり自信があったのですが、きっと盗もうとした罰が当たったのでしょう。
『研究所』から逃げ出したのはもう何年も前のこと。以来ただひたすらに逃げてきました。私に生きてほしいというのは両親の遺志であり、私の決意でもありました。逃亡を初めてすぐのころは、確かにその決意は胸に滾り、復讐の誓いが心にあったのです。でも今はもう、何のために生きているのか分からなくなっていました。
虚ろな頭でただうなだれます。研究所は世界最大の勢力。研究所が世界を安定させたと誰もが信じています。そんな組織から逃げ続けるためには、普通の生活なんて望むべくもありません。盗みなんて慣れっこで、何も食べられない日なんて当たり前にありました。そんな生活に、もう疲れてしまったのかもしれません。流れ出た血の生温かさの中に、生きる決意は静かに溶けていきました。
何時間、あるいは何秒。一体どれだけそうしていたのでしょう。視界がぼやけ始めた頃、私は意識の遠く向こう側で、確かに足音を聞きました。足音の主は、どうやら私を見つけ駆け寄ってきたようでした。足音の主が私を助けてくれる、なんて淡い期待は抱きませんでした。しかし、私を見つけてくれたのには変わりありません。せめてその人の顔だけでも見ようと思って、私は頭を少し動かし、誰かの方に向けました。
そこで私は思わずひっ、と声を上げてしまいました。その誰か―どうやら男のようでした―の目は、爛々と真紅の輝きを放っていたのです。ぼんやり霞んだ私の視界でも、男の目の赤いことは確認できました。そして、赤い目は私にとって恐怖そのものだったのです。
人造人間、というものがいます。世間一般には知られていませんし、信じてもらうのは難しい。でも、確かに存在しています。人造人間とは、研究所によって造られた、研究所のためだけに生きるモルモットのようなもので、逃亡中私は何度も彼らに襲われました。人造人間のほとんどは、研究所に反抗しないよう必要以上の知性は与えられないのだと両親から聞きました。だから、研究所の命令に何の違和感も抱かない。その上、彼らは身体能力が高く、彼らから逃げるのは至難の業でした。
そんな彼らの特徴として挙げられるのが、目が赤いということ。薄闇の中で不気味に輝く彼らの瞳は、私をたちまちのうちに恐怖の只中に陥れたのです。
その紅の眼が面前にありながら、しかし、私は逃げることができません。手を動かそうにも、足で立とうとしても、もはや感覚がないのですから。
いよいよ、人造人間が目の前に迫り、私に手を伸ばしました。その手を払おうとしたことは覚えています。でも、そうすることは叶わず、腕はだらりと垂れ下がったままでした。
なんとなく、人造人間に抱きかかえられたのが分かりました。抵抗しようにも、体の自由が利かないのでどうしようもありません。一旦は死を覚悟した私ですが、研究所の連中に殺されるのは嫌でした。だから、せめて何か言ってやろうと思って、どうにでもなれと、
「殺したいなら殺せばいい」
と、確かそんなことを言った気がします。結局声が掠れてしまい、何を言ったのかは分からなかったのでしょう。でも、そんなことはどうでもよかった。というより、気にする余裕がなかったのです。もう体が限界でした。私は、気を失ったのでした。
それから一体何日経ったのか。私にはさっぱり分かりませんでした。意識を取り戻した後まず感じたのは、ベッドの温かさと暖かい陽の香り。私は少しの間、目も開けずにただ臥せていました。
突然。
気を失う直前のことが思い起こされ、ガバッと上半身を起こしました。私の上にかかっていた毛布がはらりと落ちます。たちまち速くなる拍動、滲み出る汗。
「あっ·····あ、はっ·····」
漏れ出す息に乗って、声が宙で揺らぎます。
雨が降りしきる路地裏にいたはずの私は、自分が簡素な作りの家の中にいることにパニックを起こしました。
「ああああああああああぁぁぁぁ!!!」
意味のない言葉を叫びながら腕を振り回す私。するとすぐに、誰かが駆け寄ってきました。そして、私の肩を掴み、顔を覗き込んで言ったのです。
「落ち着いて!君を傷つけたりはしないから!」
触れられた瞬間に反射で殴ってしまいそうになったのですが、男の必死さが伝わってきたからでしょうか、私は少し落ち着きを取り戻しました。息を切らしながらも、私はどうやらこの人が私を救ってくれたらしいと理解したのです。私は男の顔を見ました。途端、またパニックが起きかけました。
男の瞳は、赤かったのです。
それでも、一旦は冷静になっていた私は、どうにかその場から逃げ出そうとしました。それは、ベッドの外に足を放り出すまでは確かに成功しました。しかし、まだ体が治っていなかったからでしょう。立ち上がることもできずに、床に倒れ伏しました。ですが諦められず、這ってでも逃げようとした私に、男から言葉が投げかけられました。
「待って。俺は君を殺したりしないよ。絶対に。とにかく今は安静にしてるんだ」
その言葉が私を混乱させたのは確かです。しかし彼の声は、何故か妙に私を安心させました。一人で逃げ続けてきた私の不安が、一瞬で溶かされたのです。
そうやって安心したからでしょうか。私を抱きかかえ、再び私をベッドの上に運んでくれた彼の服にしがみつき、私は子供のように大泣きしました。本当に、自分でも何故あんなに子供じみたことができたのかは分かりません。でも、涙が頬を伝う度、私の心は穏やかになっていくのでした。
泣き疲れたのか、私はいつの間にか眠ってしまったようでした。私が目覚めた時、家に差し込んでいるのは月明かりで、辺りはすっかり夜の装いでした。横を見れば、彼が隣の木椅子で静かに寝息を立てていました。その横顔を見てほっとした私は、また眠りにつきました。
とにもかくにも、これが私と彼―零村デトラとの出会いでした。