船旅 1
ずんずんと歩いていく船長。その後ろを、悪いことをした後の目立たないように気を配る子供のように、私たちがしずしずとついていきます。
船長は、甲板中央の床にある格子まで行くと、腰を下ろしました。船長の分厚くごつごつとした毛むくじゃらの手が格子を掴みます。格子は、いとも簡単に持ち上がってしまいました。格子の下にあったのは、段の幅の狭い階段。格子を横にどけて、船長が下に降りてゆきます。続いて、彼が階段に足をかけました。
当然私も降りようと、彼の背中を見ながら待っていました。そこでふと、誰かに見られているような気がして、顔を上げました。すると、マストによじ登り、帆の縄をいじっている赤髪の男と目が合いました。私の乗船をよく思っていない男。その憎々しげな眼に、私は思わずすくんでしまいました。
「どうしたの?」
彼の声に、私は我に返りました。彼もとうに下で待っていました。
「ごめん!ぼんやりしてた」
慌てて駆け降りた私ですが、勢い余って段を踏み外しました。後ろに倒れかける私。その腕を、彼がとっさに掴みました。それでどうにか、体勢を直すことができました。
「そんなに焦らなくても大丈夫だよ、コノハ」
「ごめんなさい······」
「そんなんじゃ不安だぜ、お嬢さん」
優しく声をかけてくれる彼と違って、船長は責めるように言いました。しかし、対照的に船長の顔は怒っているという様子ではなく、むしろ安堵しているよう。
「出港の指示を出さなきゃならねえんだ。あまり手間かけさせんじゃねえ」
「わかりました、すみません」
彼が爽やかに返すと、船長は、分かったならそれでいいんだと再び歩きだしました。階段の先には通路があり、その横に向かい合うように扉が並んでいました。扉についた丸い窓からしか日の差さないそこは、さながら洞窟のようでした。
そうして私たちが案内されたのは、階段から一番遠い部屋。暗闇に目が慣れても、その黒い扉は窓がなければ気付かないでしょう。それなのに船長にははっきり見えているのか、船長は迷う様子もなく取っ手を握りました。音もなく開く扉。
まず目に飛び込んできたのは、部屋に一つの窓から差し込む外の光。思わず目をそばめた私ですが、すぐに部屋の内装が視界に映りました。
それは、こぢんまりとした部屋でした。扉の傍に置いてあるちっぽけなタンスと、奥に置かれたベッドで埋まってしまっています。タンスの上には底の広い花瓶が置いてありますが、何も活けられていません。
ベッドに腰かければ、備え付けの窓に目が行きます。ベッドの脇の窓からは海は見えず、港で忙しく動き回る人々と商品の様子が伺えました。海が見えると楽しみにしていた私は、少し気を落としました。
天井には簡素なランプが一つ。中に蠟燭が一本あるのが見えました。
「気に入ったかい、お嬢さん?」
「はい。あ、でも、ベッドが一つしかないですよ」
「悪いな。この船は客室はここしかねえんだ。悪いがどっちかは床で寝てくれ。他の船員はハンモックか床だから、ベッドで寝れるのは一番のもてなしみたいなもんだ」
「構わないよ。俺が雑魚寝すればすむ話だ」
「レディファーストか?紳士なこった」
船長が朗らかに笑います。私はというと、まあベッドの件は後で話し合えばいいかと、ベッドを離れず呑気に構えていました。
「ランプはなるべく使うなよ。蠟燭が勿体ねえ。じゃあ俺は、甲板に出るからな」
そう言って部屋を出ていく船長に、私たちはペコリと頭を下げました。船長は腕を上げて応え、扉がパタンと閉じました。
ふう、と一息ついて、彼は大きなリュックを床に置きました。それでもう、小さな部屋はいっぱいいっぱいでした。それでも、寝床と灯りがあるだけで、私は満足でした。
頭上から、出港ー、と船長の大きな声が微かに聞こえてきました。間もなく、船が動き始め、港から離れました。港では何人かが、船を見送ろうと手を振っています。
「いやあ、疲れたね」
そう言って、彼は床に座り込み、私を見ました。彼がそんなことを言うのは珍しいので、驚きました。しかし、私に代わって誰かとの交渉を全てこなしてくれて、逃亡の手立ても考えてくれていたことを考えると、当然とも言えます。
「頑張ったもん、疲れるよ。この船旅がデト君の休養になればいいんだけど」
「どうかな。あの船長の様子だと、いろいろ手伝わされそうだ」
「そうなったら、私が代わりに手伝うよ」
すると彼は、ありがと、と微笑みましたが、しかし賛同はしませんでした。
「船の仕事は結構危ないし、コノハがやると心配でむしろ疲れちゃうよ。それに、最近忙しくて忘れてたけど、コノハの脚の傷もまだ治りきってはいないでしょ?」
そう言えば、と私は自分の太ももをさすりました。自分ですら忘れていましたが、確かに私の脚は負傷しているのでした。しかし、確かに銃創はありますが、ほとんど傷もふさがっています。
「大丈夫そうだよ。走れるかどうかはわかんないけど」
「そうなの?俺の血を輸血したからかな。体に支障がなかったらいいけど」
「大丈夫だって」
ぽんぽん、と彼の肩を叩きました。彼は不安そうではありましたが、少し救われたような顔をしました。
行く先の見えない旅。しかし私は、彼との関係だけは、彼の傍にいることだけはずっと続けばと、そう願いました。




