カナガワ 4
「なにしてる」
彼の、低く震える声が聞こえました。荷台の外で、夕日を浴びて立っている彼は、今まで見たことのない恐ろしい顔をしていました。私はかろうじて、彼が盗賊の一人の首根っこを掴んでいるのを確認しました。
突然現れた彼に驚いたのか、男がばっと振り向いて彼を見た拍子に、男の手が私の首から離れました。突然息が入り込んできて、ガハッ、ゴハッ、と咳き込む私でしたが、男は私を気にする余裕などないようでした。
彼は、掴んでいた首を離すと、静かに荷台に乗り込んできました。男が咄嗟に刃物を構えます。しかし彼は、何の反応も示さず、ただ歩み寄ってきました。言葉こそ発せられませんでしたが、ピリピリとした空気が、彼の感情を如実に表していました。
「許せっ!!!」
そう叫ぶと、男は刃物を振り上げ、彼に向かっていきました。しかし、男が腕を振り下ろすことは叶いませんでした。彼は無造作に片腕を突き出し、男の首を掴んでしまったのです。勢いをつけすぎたのでしょう、男の体が首を中心に振り子のように浮きました。
そして、男の体はそのまま、宙に固定されました。彼はなんと片腕で、男の体を支えてのけたのです。おそらく相当苦しかったのでしょう、男はじたばたと暴れ、持っていた刃物で男の首を掴む彼の肩を刺しました。しかし、彼は痛がることもせず、むしろさらに腕に力を込めたようでした。ミシミシ、と音が聞こえてきます。
彼が、体を回転させ、男を放り投げました。男はいとも簡単に荷台から放り出され、地面をゴロゴロと転がっていきました。その後を、歩いて追いかけていく彼。やがて男の体は止まりましたが、彼は男の髪を引っ張ってひっくり返し、その上に馬乗りになりました。おもむろに、腕を上げます。そして。
ガッ、という大きな、嫌な音が辺りに鳴り響きました。彼が男の顔を殴った音でした。でも、到底人の体から鳴ってはいけないような、それほどの大きさの音でした。
しかし、彼は殴るのを止めず、その後も何度も何度も鈍い音がしました。呆けてしまっていた私は、ただただそれを眺めていました。ですが、突然ふ、と気がついて、彼の方へと走りました。彼はこんな風に人を殺してはいけない。こんな、怒りに身を任せるような真似をさせてはいけない。私は、ただそれだけを考えていました。
荷馬車から彼まで、そんなに距離があったわけでもありません。夢中だった私は、すぐに彼の傍まで行けました。腕を上げては振り下ろす、単純な動作を繰り返す彼を止めようと、私は何も考えられないまま彼の後ろから抱き着きました。彼が、腕を上げたまま止まります。
「もう、大丈夫······大丈夫だから······」
呼びかけるように、私は囁きました。その時初めて、私は泣いていることに気がつきました。あれだけ泣かないと決心したはずなのに、彼の姿を見ていると、勝手に涙が出たようなのでした。
嗚咽を上げながら、大丈夫だから、と繰り返す私。やがて、彼の手が私の頭に伸び、優しく撫でてくれました。
「ごめんね、怖がらしちゃったね。ありがとう」
そう言う彼は、いつもの優しい顔をしていました。
いつの間に来たのでしょう、保安官が、地面に転がっていた三人の盗賊たちを連れて行きました。幸いにも、襲われて商品を奪われそうになったという事情を慮って、彼の行為は少々過剰ではあるが正当防衛とし、事情聴取は免除、としてくれました。商人が盗賊に襲われる事例は多く、対応が雑になっていた、というのもあったのでしょう。
その後、商品を運び終え、私たちは商人のおじさんに連れられて、商会の商人専用の宿へ連れて行ってくれました。ちなみにおじさんは、彼が盗賊たちを成敗している際中、保安官の手配をしていたそうです。
宿につくと、さすが商会直営とあって、宿は五階建てのとても煌びやかな建物でした。なんでも、カナガワの名所として知られているとか。しかし、先ほどのことで気分が悪くなっていた私は、普段なら興奮していたはずでしたが、葬式にいるかのような顔でいました。
宿に入り、フロントでチェックインを済ませます。その際、
「二人は同じ部屋でいいのかな」
と、おじさんが尋ねてきましたが、彼が
「ついさっきあんなことがあった訳だし、俺とコノハの部屋は同じにしてください」
と言ってくれて、おじさんも了承してくれました。
案内された、隣り合った部屋を前に、おじさんと、ではまた明日、と挨拶を交わし、私たちは片方の部屋に入りました。
入ってすぐ、バスルームがあって、その奥に、二つ並んでベッドと、普通の宿より少し広いぐらいで設備は平凡ではありましたが、むしろこの方が落ちつけました。私は奥のベッドにぽーん、と身を投げ、そのふかふかさに酔いしれました。
「じゃあ、先にシャワー浴びるからね」
と言う彼の手には、地味な白いTシャツとカーキのズボン。なんでも、おじさんが商会にかけあって、貰ってきてくれたそう。
「はーい」
ゴロゴロしながら返事をする私に、彼は安心したようで微笑んで、バスルームに入っていきました。
彼がいなくなり、一人になると、考えてしまうのはやはり、先ほどのことでした。恐ろしいことではありましたが、その中で男が発した一言が、私は気になりました。
「研究所を潰す、って言ってたよね」
世間一般にとって、研究所は人類の希望です。私たちのように、研究所を憎んでいるような人間は異例で、研究所を批判した場合、大抵は何らかの罰が課せられますし、ひどい場合は死罪もありえます。だからこそ私は研究所に対抗することができず、ただ逃げるしかなかったのです。しかしもし、私や今日の盗賊たちのように、研究所に反感を抱いている人たちを集めることができれば。
「研究所に対抗できる······?」
そんな独白が、部屋の中で虚しく消えていきました。




