トーキョー 9
無理無理っ、と言おうとした私。しかし、トーキョーの出口は封鎖、トーキョー内にいてもどのみち見つけられるでしよう。となると、現実的かどうかはさておき、壁を乗り越えるのは、逃亡が成功する可能性が高いのも事実です。
壁を越えられなくても死、かといってこのままぐずぐずしていても死です。なら、壁を越えられることに賭けるしかありません。
そして実際、迷っている時間などありませんでした。
私たちの姿が陰ります。ばっ、と上を見ると、黒髪のうち一体がまさに蹴りを入れようとしていたところでした。彼がすかさず立ち上がり、その勢いで回し蹴り。彼の蹴りが頭にクリーンヒットし、黒髪は壁へと吹っ飛んでいきました。同時に、彼が立つのを待っていたのでしょう、銃弾の嵐が彼を襲い、彼はまたリュックの後ろに隠れざるを得ません。
「仕方ない、三つ数えたら行くよ」
彼はリュックを抱え、私を再び抱き上げました。今度は片手で。私は両腕を彼の首に回します。
「一、二の、三!!!」
彼はリュックと私ごと、一気に走り出しました。初速から最高速度の彼の速さは、研究所の人間たちが咄嗟に照準を合わせられないほどでした。
たちまち壁に迫る私たち。彼は最後の一歩で壁まで跳ぶと、起き上がれずにうずくまっていた黒髪を踏み台にして、真上に跳び上がりました。ボキッ、と黒髪からした嫌な音に、私は思わず目を瞑ります。
すぐに、五メートルほどの高さで最高点に達した彼。私を抱えているのとは別の手で、壁を殴りました。頑丈にできているはずの壁が脆く崩れ、ちょっとした穴ができました。彼は穴に拳を入れたまま、腕一本で私とリュックごと体を引き上げ、その勢いのままさらに上へと飛びました。
そうする間にも、研究所の連中が私たちの真下へ集まってきます。私たちを追いきれていなかった銃弾も、時折リュックに当たったりと、徐々に私たちを捉えつつありました。
それに構わず彼は上へと上り続けます。三十秒もかからずに、彼と私は壁の半ばの高さにさしかかりました。
「ぐっっ」
しかし、ついに銃弾の一つが彼の脚を貫きました。痛みで一瞬動きが止まる彼。
「大丈夫っ、頑張って!」
私は彼にしがみつき、自分でも何を言っているか分からないほどの必死さで声をかけます。その効果でかは分かりませんが、彼はすぐに体勢を立て直しました。そして、今までにないほどの強さで壁を蹴りました。十メートルほどを飛び上がった彼と私。壁の影に隠れて私たちの姿が見えにくくなったのでしょう、銃弾は私たちに当たりません。
そうしてついに、私たちは壁の上に達しました。壁には三メートルほどの幅があることを、その時初めて知りました。
間髪入れず、壁の上を走り出した彼。撃たれた足を庇いながらなので不安定ではありますが、あっという間に壁の上の四分の一を走り抜けました。
そして、壁の外を向いた彼。おもむろに口を開くと、
「降りるよ。下見ないでね」
といって、縁に歩み寄り、足を外に放り出すような感じで腰かけました。今回も、無理だと抗議したかった私ですが、その暇も与えられず、体が宙に浮く感覚を確かに感じました。
「ぎにゃああああああああぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!!」
闇夜に空しく響く私の叫び声。一方で、ギギギ、と耳障りな音が鳴り響きます。音の正体は、彼の手と足のブレーキ。私を抱えていない方の手と両足で壁を削り、彼の手は落下速度を落としているのでした。
叫び終わって、息切れを起こしてもなお続く落下に、私が疲れてしまった時、彼は壁から手足を放しました。
十メートルほどをブレーキなしに一瞬で落下した私と彼。両足で着地した彼でしたが、衝撃に耐え切れず前に倒れます。それでも私を庇おうと体を丸め、リュックごとごろごろと転がって数秒、回転が止まって仰向けになり、そこでようやく彼は私を放しました。
「ハアッ······ハアッ······」
「······はっ······はっ······」
私たちから漏れる息。ひんやりとした空気と星明りが、私たちを包み込みます。
「ちょっと休んで······カナガワに行こう······能力を使えばすぐだ······」
彼の提案に、考えなしに頷く私。もう、頭がまともに働いていませんでした。とにかく、逃げ切ったという事実だけが、そこにありました。
息が落ち着いてから、私はゆっくりと上体を起こして、辺りを見回しました。あったのは、私たちが乗り越えてきた見上げるほどの壁、破れかぶれの服を着た、かすり傷だらけの私、彼が背負ったぼろぼろの巨大リュックと、さらにぼろぼろの彼が目を閉じて休む姿。これも能力の恩恵なのか、銃によってできた彼の足の傷は、もうほとんど治っているようでした。
そしてその周りには、無情に広がる、無人の砂漠。トーキョーに商人が多く訪れるのは、その需要があるから。需要があるのは、現在、資源が簡単に取れない状態にあるから。トーキョー及びかつてカントー地方と呼ばれたこの地域は、そのほとんどが砂漠に覆われているのでした。




