7.ヌシハハレシャ。呪いよりも酷い言葉に怒りを覚える。
黒く塗り固められたとも思える闇の先は木組みの格子があるだけ。
淀んだ空気に混じるカビと糞尿の粒子に普通だったら顔をしかめた次には吐き気を催すのだろう。
たった独りで其処に居る彼にとってはそれが普通であり、当然それ以外を知らない。
臭気の強い穢れた空気と粗末な囲いと彼。
それが彼の世界だった。
彼に物心――一般的な知性と呼べるかも怪しいもの――が芽生えてからずっと。
「……エサはまだかな……」
か細く高い声で彼が呟く。
「だから、エサじゃない。食事だ食事。少し荒い言葉で言えばメシだな」
「うん」
確かに与えられる食事と言えば家畜のエサのほうがマシとしか思えないものだったが、彼の情操教育上良くないと考え訂正する。
ギリギリ生き延びる事のできる程度の栄養しか与えられない彼の体つきは虚弱を通り越し衰弱の域に達している。
貧弱貧弱ぅどころの騒ぎでない。常に立ち上がる事さえもが重労働だ。
それでも生き永らえていられるのも彼の体質によるものと理解した。
体内に蓄えられている異常な量の魔力のお陰だ。
一切の放出をすることも出来ずに蓄え続けられる魔力。
時には身体中を荒れ狂うかの様に渦巻くこの魔力が無かったのならば彼の命も早々に尽きていただろうし、この狭い世界さえも与えられることは無かったろう。
もっとも、初めからこの神の恩恵が無ければ、普通の子供と同じように青い空の下で自由に過ごせたのだろう。
ここと比べれば無限にも思える色彩溢れる自然の中で。
ふと淀んだ空気が流れるのを感じる。
おっと誰かが来たようだ。
そう言えばそんな頃合いだったかも知れない。
昼も夜なく、気の向いた時に出されるエサのせいで正確な日数は未だに勘定も体感も出来ないが、時折現れる奴らの会話から意味としての周期だけは把握していた。
食事の回数で日数を計ろうなんて甘い考えでしか無かった。
「いつもどおり喋るなよ」
静かに彼に忠告する。
「うん」
腰の曲がった人影を先頭にその両横を抱えた明かりで前を照らす男が二名。
その後ろにゾロゾロと続くやや小さめの人影が五つ。
そのどれもがこの空間の臭気を吸わないように厚手の布で顔の半分を覆い隠していた。
それでも臭いに気付くと後ろの方から息を殺してその劣悪な環境を形容する囁きが複数聞こえてくる。
灯りを持った男の一人が振り返り、口に指を当てて静かにさせる。
集団後方の挙動を見るにまた一年が経った事に気づく。
先頭の小柄な人影はあの婆だろう。歯の抜けた口元を隠さずに見せた醜悪な笑みが記憶に焼き付いて離れない。
「さてお前達、此方におわすお方が護子様じゃ」
厚手の布で高い声が通らなくなる上に相変わらず聞き取りにくい発音を聞くとイラッとくる。
「この方が……」
後方の年少者達が口々に驚きを表すが、その恐れ以上に可哀想なという視線と表情で戸惑う。
何が「此方におわすお方」だ。ヘドが出る。
初めは何時もそうだ。何やら厳かな雰囲気でも演出しているかのような物言い。その実情が明るみになるとその呼称は「ソレ」や「アレ」となる。
今は恐る恐る彼を伺う年少者達さえその力の本質を獲た後は尊大な態度で彼に接する。
まるで可哀想なものでも見るような眼差しの方がよっぽどマシで、虫けらか何か、気にも留めなることのない道端の石を見るかのような物へと変わるのを見てきた。
男達の手によって格子の一部が外されると一団は彼だけしか存在しなかった世界にゾロゾロと足を踏み入れる。
「婆様、なるべく手短に済ませて貰えると助かるのですが」
男の一人が鼻の辺りを押さえる仕種で言う。
「そうじゃの、では成人の儀を始めようか」
歯の無い婆の短く刻まれた笑いが辺りに響く。
「……あー……うー……」
一同が声を発した彼に注目する。
新たに通過儀礼を受ける者達も目がなれてきたのであろうか、その声の主をしっかりと捉えると、儀式のせいで興奮気味の目をさらに見開く。その表情は驚き以外の何者でもない。
男のうちの一人が彼を後ろから拘束すると、もう一名が木箱を抱えてその前に立つ。
木箱から朱塗りの盃と短刀を取り出した男は一度振り返り、婆の顔を見やる。
婆は勿体つけるかの様に一拍おいてゆっくりと頷く。「やれ」と。
向き直った男は彼の左の肩口に切っ先をかける。
「んぐぅーー!」
そして右脇腹に向かってゆっくりと刃を進める。
「んーー! うーーー!!」
叫びに成らない叫びを上げ、身を捩るが刃が余計に
ジグザグと進むだけだ。
年齢に見合わない小さな彼の身体では後ろからの拘束を振りほどくことは叶わなかった。
滴る血が盃いっぱいに溜まると、この糞忌々しい成人の儀とやらの準備が調う。
「ヌシ達はこれより一年の間、月に一度護子様の血を頂くのじゃ。その後は、晴れてこの村の成人、魔導を究めし者となろう」
ごくりと唾を飲み込む音が微かに聞こえた。
「これを飲めば俺も、俺達も魔導使いになれるのか? 婆々様!」
「魔導使いどころか必ずや魔導師に成れるじゃろうて。護子様の血を授かって魔導師になれなかった者はおらんからの」
「俺も……魔導師に……」
魔導師はこの村の幼いものにとっては憧れの存在だということは繰り返されたこのやり取りで理解していた。
「じゃが! 護子様の事はこの村の秘密じゃ。既に護子様を知ったヌシらが死んでも守らなければならぬ秘密なのじゃ。ヌシらの何れかが漏らそうものならばヌシらとヌシらの家族全ての連帯責任となろうて」
再び婆が短く嗤う。
マスク代わりの布がずれ落ちた醜悪な顔。
その顔に恐怖し思考さえも停止させた新たな搾取者達。
婆によって差し出された盃を手にした一人がその場の圧力でおずおずと口を近付ける。
深く暗い色を落とした目の隅からにするに、前後不覚、マインドコントロール状態にでもあるのだろう。
とはいえ、次からは自ら進んでもっととねだる。それは間違いない。
盃に口をつけた少女が目を力強く瞑り一口煽り嚥下する。
一時の静寂の後カッと目を見開く。
「あアアーーーー!!」
驚きを隠そうともしない少女に視線が集まる。
「大きい何かが入ってくるぅ!!」
それまでの周りの目を気にするような素振りも見せない少女。その口元から溢れ出た赤い液体を拭いもしない。
そこからは何時もの通りだった。
高揚する空気に呑まれ、次々と彼の生き血を啜る。
そう、彼は贄だ。
生まれながらにして憐れな犠牲者。
憐れかどうかの価値観さえも持たされなかった小さな存在。
彼を救ってほしいと頼まれたものの、未だ助ける糸口さえも見つからない。
ただ、日常会話さえもままならなかった頃に比べればまだマシだ。
出会いはある意味最悪なものだった。
初めて俺の存在に気付いた彼が俺に向かって発した抑揚のない言葉は
「ぬし……は……はれしゃ」
だけだった。
後に続く言葉は何もない。
それが彼なりの精一杯の言葉だと気付いた時に涌き出た感情は――
――怒り。
人が怒りで涙が出ることが有るのだろうか。
憐れみや哀しみではない。やりきれない思いで産毛さえも逆立ち、腹から突き抜けた怒りが背中を駆け上がり頭頂へと達するのを自覚した。
十歳の子供の台詞じゃねぇぞ、クソが!!
ルビに誤りがありそうです。すみません。
ババアは た行 と濁点 抜けるのが仕様です。