10.オレガオマエデオマエモオレ
山の中腹に位置する小さな社。建屋の中とは違い、古ぼけてはいたが、きちんと掃き清められていた。昔から何かを祀る為に建立されたものだったのだろう。
歩哨を警戒しながら暗い穴蔵から静かに外へと出ると眼下に軒屋が幾つか見える。木々が邪魔して全貌を見渡すことができなかったが百棟以上はあるように思える。
日が落ちてどれ程経ったのかは分からないが、夜であったことは脱出を考える俺達にとって都合の良い時間帯だ。
天然の要害とも思える山々が連なり、周囲をぐるりと囲んだ盆地。今居るのがその外敵を阻む壁の中程に位置していると判断した俺は、山を下るのではなく登り始める。
降りる分には盆地の底へと続く石段があったので楽だったのかもしれないが、上へと続く石段は無く、露出した木々の根や草葉を掴みながら尾根を目指す。
掴み損ねた草によって掌が切れ、血がポタリと地に落ちる。この滴った魔力の塊を毒へと変えてこの集落を全滅させるという悪魔のような考えを振り払う。
そこには善良なものも居るはずだ。その可能性が完全に否定できない限り、それを実行しても「かもしれない」という後悔と罪悪感に神経を磨り減らしてしまうだろう。
俺は肉体的にも、精神的にも安寧が欲しい。
力無く震える腕によりいっそう力と魔力を込める。息は上がるが、口許に塗りたくった血を媒介に酸素濃度を調整する。
尾根という見える目標に『一歩一歩進むことでゴールは近づく』と歩を重ね到達する。
「わぁすごいね!」
「ああ、そうだな」
壮観としか言い様の無い光景だった。こんな状況でなければ、まさに心踊る景色だったろう。外界――尾根から見下ろした村の外側――は一面緑の海、樹海だった。形容どころか名詞でしか表すことができなかった景色に正直躊躇した。
薄明かりに照らされ深い緑色したその海は夜の静けさそのままに、ひっそりと静まりかえって居るように見える。それでも夜行性の鳥や獣の鳴き声は遠方からも響き、生きとし生けるものが存在するという息吹きと危険を感じたのだ。
「俺は降りる事に専念するから、お前は後ろから誰か追ってこないか注意しておいてくれ」
「うん。分かった」
意を決し、目的地も無いまま今度はひたすらに下り続ける。
脱出の為に力を蓄えていたとは言え、骨と皮だけの身体には山々を縦走できる程の体力が在るわけでもなく、途中からはそれこそ這い滑る様に進む。
擦りきれた皮膚を魔力操作で塞ぎ、溢れた血もまた魔力操作で引き連れながらの逃避行だ。祟り神が這いずりながら下山するかのような光景だったせいか、獣に襲われるような出来事は無かった。
どれ程下ったのかもわからないまま、追っ手らしい追っ手も現れなかった事に安心し、水際の大きな岩の上で大の字になり一息つく。目を閉じたまま荒くなった息を調える。
落ち着いたところで目を開くと無数の輝きが視界に広がる。大きく開けた天空を見渡すと『やはり異世界なんだな』と一人納得した。
無数の星々よりも一際明るく、そして縮尺が可笑しいとしか思えない大きさで赤く輝く月が一つ。これまた地球のものよりはやや大振りの月がもう一つ蒼く輝いていたのだった。
「あのデカイ月ならば内側が空洞でウサギが居るかもしれないな」と知っている物理法則を当てはめる事のできる妄想を口にする。
「えっ? あの光ってる丸は中がからっぽなの?」
「いや、そうと決まった訳ではないが、そんな絵空事も可能かもしれないと思っただけだな」
一人でそんな問答をしているのを誰かに見られたならば狂人扱いされるのだろうが、別に俺は狂ってなどいない。
まあ、それを証明する手立てはないが、それが女神が叶えた俺のもう一つの願いの実態だ。
俺が彼で彼が俺。
一つの身体に二つの魂。
正直言えば、無茶苦茶。俺に期待していなかった割にとんでもない賭けに出たものだと思う。
第一の賭けには勝ったのだろうが、まだ安心はできない。
魔力操作でそれなりに痕跡を消してはいるのだが、完全とは言い難いだろう。何かが混ざっていると形容した、あの匂いフェチに追跡された場合に逃げ切れるのかも怪しい。
更に念入りに痕跡を断とうと水辺に近づく。
足下の淀みに写り込んだ丸く黒い影。赤く美しく写り込む月と比べてしまうと嫌悪感を抱かざる負えない姿に自然と笑いが込み上げる。
「……ハハハハ……ひでぇなこれは」
綺麗に禿げ上がり、のっぺりとした感触の頭を擦る。
「耳なし芳一の方がまだ男前だったかもしれないな」
びっしりと文字でも書かれていた方が少しはまともに見えたのかもしれない。げっそりと痩せ干そった顔に隙間無く施された紋様は容姿が少年であっても異形そのものとしか表現できそうになかった。
自分の容姿を初めて確認できた共に自己の置かれた環境の厳しさを痛感する。
「だいじょうぶ? 」
「ああ、問題はあるが何とかするさ」
渓流が腰まで浸かりそうな深さの流れになっていると分かると、何とかすると言ったものの今は流れに身を任せようと考えた。
身に纏うのはボロ布一枚、裸同然の格好で頭まで水に浸かる。
その水の冷たさに身体が縮こまるが、凍える程ではなかったのと、それ以上に洗い浄められる感覚に幸せを覚えた。
これが温かい風呂であったらどんなに素晴らしいか原稿用紙二枚半は感想が書けたかもしれない。
少なくとも二年分の垢を落としながら行水を堪能する。
肋の浮いた体では大した浮力は生じないが、それでも粘土で出来ているのではと疑うほど重たかった身体も水の中では楽に動かすことができる。
時折足を付きながらそのまま下流へと泳ぎ進む。
歩くよりも順調に下っているところで「ぼくもやってみたいな」と言った彼に主導権をわたす。
何の先入観も持たない彼は俺の動きをそのままトレースするかのように身体を動かす。
「あははは……きもちいいね……これ」
「俺の知ってる言葉で言えば、泳ぐって言うんだ」
「そっか、およぐのきもちいいね」
「ああ、でも一度揚がろう」
そこそこの時間を泳いでいると冷たい川水に奪われた体温よりも重要な問題にぶち当たる。
ハラヘッタ……。
目下の最大の敵は空腹だ。
感覚も共有する俺達は空腹感も二倍になるのだろうか。
省略しましたが一先ず脱出。