血創
少しずつ、世界から音が失せていく。
風を斬る音も、剣で刃を砕く音も、次第に遠くなる。
水の中にいるのかと、錯覚するほどの静寂。暗く深い水底に、ゆっくりと沈んでいくかのような――消失。
自分の心から何かが抜け落ち、だからこそ研がれていく意識と思考。
撃ち放たれる驚異を前にし、この身体は狂いなく剣を振るった。
この目は動くモノすべてを捉え、この身体はそれらすべてを打ち砕く。
斬り、払い、薙ぎ、突き、叩く。それらは何れも、危険を遠ざけ勝機を手繰り寄せる動作へと繋がり、一度として途切れることなく流れ続ける。
深く、暗く、奥底へ、自己のうちに広がる闇に融けていく。
抜け落ち、削ぎ落とされ、研ぎ澄まされた感覚は、正確無比な所作を成し。
容易く俺を敵の間合いへと運んだ。
伸ばせば届く、目と鼻の先。後方に配した剣先を振るい、薙ぐ。
「――馬鹿がッ」
それは頭上からの奇襲だった。
予めそこに置いてあった刃。
風の血創は雨となって降り注ぎ、この身を裂いていく。
だが、それでも回避はしない。
怯みは、しない。
「なッ――」
奇襲など意にも介さず、剣は風血を斬り裂いた。
横一閃に薙ぎ、振り抜く。
だが、まだ遠い。まだまだ浅い。
「――ァァァアアアアアアッ」
もはや言葉にもならない声を上げ、風血はその腕に風を纏う。
逆巻く風は、その腕までもを傷付ける。自傷すら厭わない。それ程までに高めた風の剣。傷口からの流血を巻き上げ、赤が混じり、朱を帯びる――血風。
対し、振り抜いた剣先を翻し、その刀身に血創を纏わせる。
血を以て武装し、血を以て創造する。血装は剣に、そして血創は閃光に。刀身にほとばしる流れは、紅い光を伴い駆け巡る。それは刀身が融解するほどの熱を秘めた――血雷。
一瞬のうちに、紅の残光を引いて剣は空を馳せる。
血創と血創。
風と雷。
互いのすべてを賭けて振るった一撃は、凄まじい音と衝撃を生み。その余波は爆ぜるように周囲へと拡散する。風が血溜まりを散らし、支柱を斬り裂く。雷が空気を焦し、地を砕く。
だが、それも一瞬。
激突の衝撃とは相反し、決着は静寂の中でつく。
唯一、音がしたのは、宙を舞い上がった何れかの得物が地に落ちた時だ。
ぐしゃりと落ちる。風纏うかの腕が、腕の先が、手刀が舞い落ちる。
斬り裂いたのは、打ち勝ったのは、俺のほうだ。
「く――そ……」
ぐらりと揺れ、風血は力無く崩れ落ちる。
それに引きずられるようにして、俺も立ってはいられずに仰向けに倒れ込んだ。
見上げた頭上に空はなく、ただ陸橋だけが瞳に映る。だが、その灰色が、薄暗さが、すこし心地よく見えた。きっと、全身に走る痛みなど吹き飛ばすような勝利の余韻が、そうさせるのだろう。
「――帳くん!」
「おい、帳! 無事か!?」
「あ……あぁ、なんとか――な」
天に掲げるように片腕を伸ばして拳を握る。
それを見てか安堵した表情の二人が視界に映り込む。
「まったくもう! 私達が来るまで持ち堪えてって言ったのに!」
「悪いな、待ちきれなくて倒しちまった」
「よく言うぜ、その状態で」
まったくだ。
「勝ったのか? そっちは」
「もちろん。凍り付けの」
「焼け焦げだ」
「はっはー、そいつはいい」
終わったのだと、胸を撫で下ろす。
敵をすべて打ち倒し、俺達は勝った。一人の犠牲者も出すことなくだ。
心の底から、そう安堵した頃には、すでに身体の治癒は終わっていた。傷跡一つ残ることなく全快し、俺はゆっくりと地面から背中を離した。
立ち上がり、ふと見下ろした風血は、まだ動かない。
利き手を切断され、全身に打撲と切り傷を負っているが、まだ微かに息はある。このままここに放置していれば、手を下さずともいずれ灰になるだろう。
「……どうするんだ? 刺すのか、止めを」
「いや、こいつらは交渉に使う」
「交渉? なにと」
「こいつらの親玉と」
こいつら、と言ったからには他の二人も生きているに違いない。
凍り付けにされた樹血と、焼け焦げた岩血は、まだ生かされている。
交渉と聞いてまず思い浮かぶのは、隻翼の吸血鬼が陥っている現状だ。
つまり、三人は人質。
人質は――交渉材料は、生きていなくては意味がない。
恐らく、二人は人質を使い、その親玉に不可侵を約束させる気だ。成功すれば、思うとおりに事が運べば、永遠にとまでは行かないまでも、ある程度の期間は一つの脅威が消えることになる。
それは俺たち隻翼にとって何事にも代えがたい、微かな安らぎだ。
「上手く交渉できるのか?」
「上手く交渉するんだよ。意地でもな」
それから俺達は負傷した哲也と、敵の三人を担いで孤児院へと舞い戻った。
帰還を待ち望んでいた虹子さんは、戻った俺達の姿を見ると一人一人を順に抱き締めてくれた。慈愛と母性に溢れる抱擁、寵愛。流石に、瀕死の哲也をそうしようとした時は、夕が全力で阻止したけれど、それだけ虹子さんの仲間や家族に向ける愛は溢れていた。
ともあれ、こうして激動の二日間が幕を閉じる。
そして俺はようやく我が家へと、吸血鬼になって初めて帰ることが出来たのだった。