血装
陸橋の真下。
日の光も届かない薄い暗がりの中、俺の視界を覆ったのは無数の刃だった。
風血の吸血鬼が放つ弾幕が、波のように襲い来る。
「おっと」
回避は不可能。横に大きく広がった刃の幕がそれを許さない。
故に、影から血液を取り出して血装を発動し、前方に身の丈ほどの赤い壁を形成する。身を護る盾として壁はけたたましい音を立て、風の刃を受けきった。時間にして数秒の出来事。その音が鳴り止んだ直後。
「何処を見ている!」
背後より声と共に鋭い蹴りが放たれる。
「随分とお喋りだな」
風の刃に紛れて行われた奇襲。
だが、この目はその初動を捉えていた。
来ると分かっている奇襲に、欠片ほどの意味もない。この手は一切の動揺なく駆動し、速やかに蹴りの軌道に割って入る。奇襲が見破られていたと、風血が知るころにはもう遅い。この手は奴の足を掴み取り、そして剣を振るうように薙いで、眼前の血の壁へと叩き付けた。
「――があッ!?」
背中から後頭部にかけて拡散する衝撃。
人体を駆け巡るそれにより脳が揺れ、思考が停止し、肺の空気が弾き出され、風血の動きが鈍る。張り詰めていた意識が緩み、その隙をついて渾身の力を込めた殴打を見舞う。
吸血鬼の一撃は、それが人間ならば致命傷になる威力。
それは殴打の衝撃が風血の肉体を越えて血の壁に伝わり、亀裂を走らせるほど。ゆえに殴打の回数はそれほど稼げなかった。時間にしてみれば秒にも満たない刹那。人には決して捉えられないほどの速度で打ち込んだ拳は、風血よりも先に血の壁を破壊してしまう。
粉々に砕け散る血の破片の最中、風血の身体は殴打の衝撃で吹き飛ぼうとしていた。
しかし、それを見過ごすほど甘くはない。
「まだだ」
宙を舞いかけた風血の胸ぐらを掴み、再度、今度は地面へと叩き付ける。
壁がダメなら地面に押さえ付けてやればいい。地面なら壊れても崩れることはない。何度でも拳を打ち込める。
「――僕をナメるなッ!」
けれど、その思惑は自らの腕に絡み付いた手足によって、ねじ曲げられた。
「あぐ――」
ぐるりと回る。
腕が、関節を起点に回転する。捻られる。
迸る痛みと、自身の腕があらぬ方向へとねじ曲げられたことへの怖気。それらが同時に押し寄せ、ほんの僅かにだが身体が強張る。人間だった頃の名残が、一瞬の隙を生んでしまう。
そこを突かれ、風血は血創を以て自身を浮かせ、吹き飛ぶように俺から遠ざかった。
「――がッ……あぁッ――クソッ、何者だ! お前はッ」
血反吐を吐く風血を見据えつつ、ねじ曲げられた腕が元に戻るのを待つ。
吸血鬼の再生能力なら、この腕も数秒で治る。ねじ切られた筋も、折り曲げられた骨も、砕けた関節も、すべて元通りに完治する。片腕が治りきるまでは、攻めるべきではない。畳みかけるべきではない。
「聞いていないぞ! 混血に――ぐあッ……お前みたいなのが居るなんて!」
「そりゃあ、そうだろうな」
俺が吸血鬼になったのは一ヶ月前、自覚したのは昨日の夜だ。
知っている訳がない。
「まぁでも、嫌でも知ることになるさ」
腕は、治った。
拳も握れる。
「身に染みて、な」
再び、攻勢に出る。
風血に与えた殴打は、骨を砕き、内臓を破壊した。吸血鬼の治癒力なら完治に至るまで然程かからないだろう。だが、然程でも時間がかかるのなら、その間は動けないということ。この期を逃す手はない。
「ほざけッ!」
好機とみて間合いを詰めにかかった俺を見て、風血は三度、血創を発動する。瞬時に展開された、幾つかの刃。無数ではなく、数えきれる程度の個数が風血の背後に並ぶ。
乱射を止めた? そう思考が巡ると共に、風の刃は放たれる。
以前とは比べ物にならないほどの速度で。
「――そう言うことか」
前進を止めて回避に専念し、初撃を躱すと共に血装で眼前に壁を形成する。
迫り上がる壁。それを貫く、風の刃。
壁を越えたそれを紙一重で回避しつつ、地面を蹴って前ではなく、周り込むように駆け出す。進路を切り替えた俺を追うように、その足跡を風の刃が次々と貫いていく。
やはり、先ほどのように、面の攻撃をしてこない。
「目的は――時間稼ぎか」
駆け抜け、陸橋の支柱に身を隠し、頭の中を整理する。
奴が乱射を止めたのは、恐らく余裕がなくなったからだ。血装と血創に加え、傷の治癒にまで血を割かなければならない。奴の影にどれほど血が貯蔵されているかはわからない。だが、すでに潤沢とは言えないほどに減っているはずだ。
だから、無闇矢鱈と乱射できない。
だから、手数を割いて出力に回し、俺を近付け難くした。
「さて、どうしたもんか」
風血の思惑に乗って、治癒を待つのも悪くない。
時間稼ぎは望むところだ。時間を掛ければ、掛けるほど、夕と蒼夜の援護を受けやすくなる。それまでの間、顔を出したり引っ込めたりすれば、血の消費もより激しくなる。
安定を取るなら、奴の治癒と血の消耗を待ったほうがいい。
だが、同時にそれは好機をみすみす見逃すことになる。
風血はいま満足に動くことすら出来ない状態だ。風の刃さえ越えてしまえば、容易く決着がつく。今度は――今度こそは、腕をねじ曲げられようが、腹に風穴を開けられようが、怯まない自信がある。
幸い、速度の上がった風の刃でも、見切れないことはない。
安定を取るか、攻めに行くか。
「……ハッ――いつまで頼る気だ? 俺は」
時間を稼ぐ? 二人の援護を待つ? そいつは甘えだ。
待っていれば誰かが助けてくれるなんて甘い考えは捨てろ。
今後、何度も戦うことになる。吸血鬼と殺し合う。
これは最初の一回目だ。ここで逃げたら、次も攻められない。ここで引いたら、もう前には進めない。ここで臆したら、もう立ち向かえない。
俺は誰かと戦うたびに、二人に負担を強いる。二人に尻ぬぐいをさせる。二人に、助けられ続ける。
そんなのは――それだけは、御免だ。
「試してみるか。俺の――血創を」
俺が覚悟を決めて突貫して来たと知れば、風血も死に物狂いで抵抗する。
傷の治癒も後回しにして、全力の血創を放ってくる。それに対抗できるのは――血創に対抗できるのは、同じ血創だけだ。夕から説明は受けている。血創の発動に問題はない。あとは自分の――吸血鬼としての本能を、信じるだけだ。
「よし」
決意を固め、殺意を込め、支柱の影から姿を見せる。
見据えた先、風血と視線が混じり合う。その瞬間、互いに理解しあった。これが、この攻防が、勝敗を分ける重大なものになるであろうと言うことを。
展開される風の刃。握り締められる血装の剣。
躊躇いを、恐怖を、死を、斬り捨てるように空を裂き、そして駆け出した。