火炎
「この人がここのママ、明星虹子だよ」
「こんにちは、宵噛帳くん」
孤児院の恐らくは責任者であろう明星虹子さんは、そう言って微笑んだ。
艶のある黒髪を腰の辺りまで伸ばした妙齢の女性。歳は二十代の半ばあたりだろうか。だが、孤児院の責任者という立場なら、見た目通りの年齢ではないかも知れない。それこそ、吸血鬼ともなれば尚更だ。
まぁ、初対面の女性に年齢の話をするほど無神経でもないので、この疑問は胸の奥に押し込めておくことにする。
「夕の話だと、あなたは眷属に――吸血鬼になったばかり、らしいわね」
「えぇ、まぁ、そう見たいですね」
一ヶ月ほど、自覚なく普通の人間として生きていた訳だけれど。
そのことを飲み込むように、淹れられた緑茶を一口飲む。
「あなたの心情は、察するに余りあるけれど。でも、どう足掻いてもあなたは今後、吸血鬼として生きていかなくてはならなくなったわ。身も心も人ではなくなるし、血を求めずにはいられない」
身も心もすでに人でなく、血を求めずにはいられない。
それが吸血鬼という種の性であり、逃れようのない事実。
俺は、そう言う存在に――成った。
「あなたを助けてあげたいけれど。私達も自分達のことで精一杯、出来ることと言えば、あなたと協力関係を築くことくらいね」
「協力関係?」
「そう。吸血鬼には吸血鬼のルールがあるの」
人には人の法があり、吸血鬼には吸血鬼の律がある。
「この街の吸血鬼には幾つかの派閥があって、互いに縄張りを持っているの。もしあなたが私達に協力してくれるなら、私達の縄張りで自由にして良いように取り計らうわ」
縄張り、とはつまり狩り場や餌場、という意味だろう。
この人達は――今は俺もだが、吸血鬼は人の血を吸って生きている。
恐らく一ヶ月程度なら、血を摂取しなくても渇きはしない。だが、それでも一月に一度は誰かの血を飲まなくてはならない。縄張りとは、吸血鬼の間で取り決めた、文字通りの吸血を行ってもいい範囲。
派閥に所属することで、やっと吸血鬼は食事をする権利を得ることができる。
「どうかしら?」
「……協力って言うからには、俺もなにかしなくちゃあいけないってこと、ですよね?」
「あら、話が早くて助かるわね」
家賃も取らずに部屋を貸してくれる大家はいない。
「察しの通りよ。私達はあなたに居場所を提供する。あなたはその対価として、その居場所を護ってもらう」
「護る?」
「言ったでしょう? 縄張りだって」
それは至極、当然の話だった。
吸血鬼に幾つかの派閥がある以上、その間で争いが起こるのは必定だ。誰だって、何処だって、縄張りを広げたいのは同じことだ。追い出して、奪おうともするだろう。他の吸血鬼から、自分の領地を護る必要がある。
「夕によれば、あなた純血を一人殺しているのでしょう? その事実があるなら実力も申し分ないし、なにより信頼できる」
「それは、なぜ?」
「隻翼の派閥は私達の所だけ、だからよ。純血の――両翼のヴァンパイアは、隻翼を酷く嫌うから」
これらの会話によって、この街の情勢が朧気にだがわかってきた。
他の派閥の縄張りはすべて両翼の吸血鬼が統治し、隻翼の吸血鬼は一つだけ。このことから隻翼が縄張りとする範囲は、かなり狭いと見ていい。多対一では、自身の縄張りを維持するので手一杯、むしろ持ち堪えているのが不思議なくらいだ。
酷く嫌われ、目の敵にされても、耐え凌げる程度の戦力がここにはある。
「……わかりました。貴女達と手を結びます」
条件は、正直に言ってかなり厳しい。出来れば別の派閥に入りたいと思う程度には。
劣勢も劣勢。
しかし、質の悪いことに隻翼である俺は、他のどこにも所属することが出来ない。実質、選択肢は一つだけ。明星虹子によって差し伸べられた手は、同時に俺に対する止めの一刺しでもあった。
俺はここで、生きていくしかない。
「それはよかった。頼もしい仲間が増えることは、とても喜ばしいことだわ」
どこまでが計算なのか、その微笑みからは読み取れない。
だが、ともあれ、吸血鬼の仲間が出来たことは喜ばしいことだ。孤独に、渇き続けるよりは、ずっといい。
「そうと決まれば、あなたに色々と教えなければならないことがあるわね。もう夜も遅いけれど、時間は大丈夫かしら? それとも明日にしましょうか」
「あ、なら、此処に泊まっていきなよ。部屋は空いてるからさ」
吸血鬼のルールについて、吸血鬼という種について、知りたいことは山ほどある。
いつ何時、ほかの吸血鬼に出遭うかわからない。明日では、遅いかも知れない。知れることは、知れるうちに知って置いたほうがいい。ここは夕の提案に甘えさせてもらおう。
「じゃあ、すみませんが泊まらせてもらいます……あぁ、そうだ。連絡を……」
うちの両親は心配性で、帰りが遅いと鬼のように電話を掛けてくる。
そうならないうちに連絡を入れて置かないと後が面倒だ。
「電話するなら、ここ電波が悪いから外に出ないと繋がらないよ」
「ほんとだ。ちょっと出て来る」
ディスプレイに表示された圏外の文字を確認し、断りをいれてイスから立ち上がる。
終始、携帯電話と睨み合いをしつつ、電波を探るように移動して玄関扉を押し開く。
眼前に広がる夜の世界は、だが人であった時よりも明るく見える。
いや、物の輪郭がはっきり見えると言ったほうが正しい。敷地内にある古ぼけた遊具から、グラウンドを仕切る塀の落書きまで、はっきりとこの目は捉えている。
心情的に落ち着いた所為か、人間だった頃との違いがよく目に付いた。
「えーっと」
玄関先にでて、再びディスプレイを確認する。
電波状況は圏外になったりならなかったりで、今一安定しない。もっと電波の拾いやすい所を探るように、二歩三歩と足を進めてみる。すると、相変わらず電波は悪いが、安定する位置を見付けることが出来た。
早速、電話を掛けて耳元に押し当てる。
「――誰だ? テメェ」
それは携帯電話から流れてきた音声ではなく、俺の正面から聞こえた声だった。
「俺の仲間になにをしたッ!」
その走力は、瞬間的な加速は、人間のそれではない。
瞬きさえも許されない速度で、奴は――吸血鬼は肉薄し、その拳を突き放つ。
真っ直ぐに最短距離をいく吸血鬼の殴打。その軌道は、だがこの目でしっかりと捉えられている。冷静に、急くことなく、拳の軌道上に己が手を差し込み、掴むように受け止める。
直後、酷く乾いた音が鳴り響く。拳圧の所為か風圧の所為か、自身の髪が後方へと靡いた。音と衝撃、拳圧から察する威力は、人体を破壊するに余りあるものがある。もしこの拳を受け止めそこなっていたら、威力を殺しきれなければ、確実に顔が消し飛んでいた。
「――もしもし、帳? あんた今どこにいるの」
「……あぁ、友達の所だよ。今日は泊まりになるから、その連絡」
「そう、わかったわ。失礼のないようにね」
ぷっつりと通話が切れる。
「失礼のないように、だってさ」
吸血鬼の脇腹を目がけ、足を薙ぐ。
けれど、両手が塞がった状態でのこの攻撃は容易く読まれ、蹴りはあえなく空を裂く。ゆっくりと足を下ろし、大きく後退した吸血鬼を見据える。
見たところ同世代の男だ。奴はなぜか怒りの表情を浮かべ、鋭い目付きで睨んでくる。
「テメェの右肩に付いている、その血痕。それは人間のじゃあねーな。この臭いは吸血鬼のそれだ」
その言葉を受けて、ようやく現状を理解する。
孤児院の敷地内に見知らぬ吸血鬼がいて、そいつからは同属の血の匂いがする。その状況下で至る推測は、一つしかない。
「テメェ、いったい中で何人殺した」
不味い、そう思った。
それは誤解を与えてしまったが故の表情だった。だが、彼にとってこの表情は、自らの推測に確信を与える良い証拠として映ってしまう。
「許さねぇ……許さねぇぞテメェだけはァアアアアアアッ!」
怒りのあまり放たれた咆哮は、彼自身に熱を灯す。
怒りの感情。それが具現化したように、彼の身体が燃え上がる。
火、炎、灼熱。闇を照らし、天を焦す劫火は、そして俺へと向けられた。
「死んでッ灰になれやァアアアアアアッ!」
視界を埋め尽くした蠢く赤。
熱気が頬を撫でてすぐ、回避に移ろうと両の足に力を込める。この身体なら、吸血鬼の身体能力なら、燃え盛る炎から逃げることも不可能じゃあない。
「――あぁくそ」
けれど、次の瞬間には足を止めていた。
逃げることを止め、無謀にも立ち向かっていた。
些細な抵抗をするように、輸血パックを投げ付ける。そして腕で盾を模し、火炎から身を護る。それはまさに焼け石に水だった。炎は容赦なくこの身を焦し、肺を焼く。焼け爛れ、融け落ちた先から身体は再生していくが、その上から更に火傷を負う。
永遠にも思える地獄の一瞬。壮絶な痛みに耐え、周囲から熱が失せるのを待った。
「――かはッ……あぁ」
膝をつく。
炎に耐え切り、炎熱を凌ぎきり、なんとか生還する。
「……どう言うことだ。なんで避けなかった。避けられただろ、いま」
怒りと困惑が入り交じる声音が、近くから響く。
「俺が、避けたら……燃えるだろうが、お前の家が」
「――まさか……そのために」
何分、古い建築物だ。
引火していれば確実に孤児院のすべてが燃えていた。
「今のはなに!? 敵襲!?」
天まで昇るあの劫火を見てか、夕が血相を欠いて飛び出てくる。
「あれ、蒼夜? いまここで――って帳くん!? どうしたの、それ!」
「なん、でもねー……よ」
駆け寄ってくる夕にそう強がりつつ、立ち上がる。
けれど、流石にあの炎熱に耐えきれなかったのか、すぐによろけて体勢が崩れる。
「おっと。ほら、ふらふらじゃん。手を貸すからはやく中に」
「悪い……」
思ったよりも、身体への負担は深刻らしい。
視界が霞んで来たし、手足の末端も痺れて来ている。吸血鬼の身体だからと言って、無茶をすれば当然こうなるか。
いや、吸血鬼の身体だからこそ、この程度で済んでいるのか。
「蒼夜! あんたも手伝って」
「お、俺は……」
「はやく!」
「わ、わーったよ」
蒼夜と呼ばれた吸血鬼は、つい数秒前まで戦っていた相手に手を貸した。
やはりと言うべきか、彼は俺達の敵ではなかった。ただ少しだけ誤解が生じただけで、出会い方が違っていれば、こうはならなかったはずだ。
運が悪いというか何というか、今日は厄日だな。