死生
Ⅰ
「あれ? 私のこと忘れちゃったの? さっき会ったばかりなのに」
さっき?
「キミの寝顔。ちょっと可愛かったよ」
「寝顔……あ、あんた喫茶店の」
記憶を掘り返して思い当たったのは、先ほどまでいた喫茶店の店員だ。
服装こそ違えど、同一人物に違いない。今日ほど、世間が狭いと感じたことはない。まさか、いつも通っていた馴染みの喫茶店に吸血鬼が潜んでいたなんてな。
名前はたしか……怪姫月夕。
「目的はなんだ? こいつの報復か」
「報復? あははっ、違う違う。私の目的は、これ」
そう言って懐から取り出したのは、一冊の手帳。
俺が愛用していたものだ。
「……ここまで来ると運命じみたものを感じるな」
喫茶店に忘れてきた手帳を、彼女は届けようとした。俺はその間に吸血鬼に襲われ、これを返り討ちにしていた。そして今、このタイミングで鉢合わせる。どう考えてもこの短時間で重なっていい出来事じゃあない。
まるでこうなることが決まっていたかのように、物事が一気に集束した。
「よっと。はい、これ」
彼女は街灯から飛び降りて目の前に着地し、何事もなかったかのように手帳を差し出す。俺がそれを受け取ると、彼女は爪先の向きを変えて人の死体へと向かう。
「よっこらせっと」
軽々と死体を担ぎ上げる。
その腕力は、力は、到底十代の女子とは思えない。
「それ、どうする気だ?」
「どうって、これも貴重な食料源だからね。食べかけだけど、仲間の所に持っていくんだよ。って、あぁそっか、ルールは守らないとね。忘れてた……っと」
死体を担いだまま、ごそごそと懐を探ると何かを取り出した。
「はい、キミの取り分」
投げ渡されたそれを掴むと、手の平に妙な弾力を感じる。
まるで固めの水風船を触っているようで、すぐに手元に目を向けた。
「……輸血パック?」
手の内にあったのは、真っ赤な液体が詰まったパックだ。
「なんで……こんなものを」
「なんでって、必需品でしょ? 吸血鬼の」
何を今更、そう言った風に彼女は言う。
俺はそれに、ただ困惑と戸惑いを、返す他なかった。
「……もしかして、キミ誰かの眷属に――人間から吸血鬼になったの?」
「……あぁ。だから、吸血鬼のルールなんてものは知らない」
「あちゃー……」
どうしたものか。
そう言いたげな顔を浮かべて、怪姫月夕はその辺を小さくぐるりと歩く。その様子を眺めていると、ふと公園から血溜まりが失せていることに気が付いた。血、吸血鬼。彼女が、なにかしたのか??
「んんん……よし、わかった。私についてきて、案内するよ」
「一体どこに?」
「私達のアジトだよ」
そう告げた怪姫月夕の背から、漆黒の翼が生える。
その翼は、羽根は、俺と同じ隻翼だった。
Ⅱ
その存在が確認されたのは、もう随分と昔のことだ。
吸血鬼。ヴァンパイア。ヴァンピール。ドラキュラ。ドラクル。アルカード。ノーライフキング。ノスフェラトゥ。影の眷属。夜の王。不死の王。悪魔。
長らく御伽噺や伝説とされてきた吸血鬼は、今や教科書に存在が明記されるほど周知されている。毎月のように目撃者が現れ、数は少ないが死人も出ている。ここ日本でもそれは例外ではなく、今まさに俺はその吸血鬼達の根城に向かっていた。
「もうちょっと足場のいい所を走りたいもんだ」
跳ぶ、跳ねる、跳躍する。
あの後、公園の街灯を足がかりに建物の屋根にまで登った俺達は、屋根から屋根へと跳び移るを繰り返していた。夕は人の死体を、俺は吸血鬼の死体を、それぞれ担いだまま。
「じゃあ、下水道のほうがよかった?」
「こっちでいいです。贅沢言ってすみませんでした」
流石に、下水道を通るよりはマシだ。
「それに、ほら。もうすぐそこだよ、ちゃんとついてきてね」
その言葉を最後に屋根から屋根へと飛び移る、忍者のような移動法は終わる。お次は誰にでも出来る簡単な動作、飛び降りだ。地上十メートルほどの高さから、夕は人一人の死体を抱えたまま飛び降りる。
「……今日は肝が冷えて仕様がないな」
夕に続いて、飛び降りる。
人間の尺度で言えば、自殺行為にもなりうる高さ。だが、吸血鬼にとってそれは単なる近道に過ぎない。
着地は見事に成功し、衝撃をも完璧に殺し切る。
足にすこしの痺れも痛みもないことに、改めて自分が人から堕ちてしまったことを、人間から吸血鬼に成ってしまったことを、自覚する。
「こっちだよ」
感傷に浸る間もなく、歩みを進める。
降りたのは、何処かの裏路地だ。両隣に高い壁があり、見上げた空が長細く区切られている。そんな圧迫を感じる道を二度三度と左右に曲がり、迷路を攻略しているような錯覚に陥りかけた、そんな頃になってようやく目的地に到達する。
「明星……孤児院」
街に、人に、太陽に、隠れるように建つ、孤児院。
夕は、担いだ死体を隠そうともせず、堂々と真正面から敷地内に踏みいる。まるでここが慣れ親しんだ場所であるかのように。家で、あるかのように。
「どうしたの? 入って来なよ」
「あ、あぁ」
とても古ぼけた建物だった。
塗装の剥げた壁。それに這う数多の蔦。朽ち果てた配管。錆び付いた手摺り。割れた窓。幽霊屋敷や廃屋と間違われても可笑しくないこの孤児院は、そんな古さ故の不気味さと、寂しさを覚える、そんな場所だった。
「おねーちゃん、おかえりー!」
夕に続くようにグラウンドを渡り、玄関を越えると、何人かの子供が一斉に駆け寄ってくる。
「あー! おねーちゃん、男の人つれてるー」
「かれしー? かれしー?」
「そんな訳ないでしょ。ほら、これママの所に持ってって」
「はーい」
そう元気よく返事をした子供達は、慣れた手付きで死体を運ぶ。
みんなで力を合わせ、床に血が垂れないようにと。
きっと子供達にとってそれは酷く日常的なこと。誰かの死が、何かの死が、常に隣にある生活を、生まれながらに送っている。でなければ、そうでなければ、あんな屈託のない笑顔で、人の死体など運べはしない。
「驚いた?」
「何に対してだよ」
「死生観」
「あぁ、そりゃあもう」
人間と吸血鬼。人と鬼。種が違えば、死生観も違うのだろう。
人間だった頃の感性と照らし合わせて驚きはすれど、それを素直に受け入れられている自分がいる。つい先ほど、吸血鬼に止めを刺した時も、俺は特に何も感じなかった。きっとそれが吸血鬼というもので、俺は心まで人から堕ちていた。
「それはあっちだから、ついてきて」
それ、とは吸血鬼の死体のほうだ。
導かれるまま、子供達とは別のほうへと向かう。
「ほら、ここだよ。ここに寝かせておいて」
「あぁ、それはいいが……」
吸血鬼の死体を置きながら、空間のすべてを一望する。
ここは本当に何もない部屋だ。壁と床と天井以外、何もない。
「どうするんだ? これ」
「何もしないよ? 朝になればそこの窓から日が射し込んで、勝手に灰になるから」
「灰……なるほど」
吸血鬼の代表的な弱点って訳だ。
「さて、それじゃあ行こっか。お茶くらい出すよ」
「赤色の?」
「残念、普通の緑茶だよ」
どうやら吸血鬼というのも血しか飲まない訳ではないみたいだった。