渇き
Ⅰ
首筋に突き立てられた牙が、血を、生命を抜き取っていく。
少しずつ、死んでいく感覚。少しずつ、人でなくなっていく恐怖。それ故に、渾身の力を込めて握ったはずの鉄屑から、だらりと手が離れる。鉄屑は、だが、この手を離れてもなお、かの胸を貫き続けていた。
そう、俺はたしかに心臓を貫いた。貫いたはずだ。
しかし、かの牙はこの身に突き立てられたままだ。その吸血は微塵も衰える気配がない。
「――ああ、美味しかった」
赤く染まった血牙が引き抜かれ、体温を失った身体はそのまま地面へと倒れ伏す。
力無く仰ぎ見た夜空に星はなく、月さえも失せようとしていた。
見えない。夜空の輝きが見えなくなるほど、死に近付いている。
「んっ……はぁ……」
ずるりと、抜ける。
夥しい量の血を漏らしながら、彼女は胸から鉄屑を引き抜いた。
「うふふ。何時ぶりかしらねぇ、反撃を許したのは」
不敵な笑みを浮かべた彼女の傷は、すでに癒えている。
命懸けの反撃は、無意味に終わった。
「いいわ。あなた、とっても気に入――た」
静けさに満ちていく。
聴力も、もはや維持すら出来ない。
「あ――は、生かし――げる。私の眷――するの――そう」
薄れ行く意識の中、強引に口を広げられ、何かを流し込まれる。
噎せ返るような、血の臭い。甘く美しい、血の匂い。相反する矛盾を抱えながら、意識は闇へと落ちていく。
そして、命を手放した。
Ⅱ
「なんだよ、辛気くさいな。まーたあの夢を見たのか?」
飾り気のない店内に充満する珈琲の匂い。
寡黙な店主と、無駄話をしない店員。
音量が控え目に設定された蓄音機。
そんなゆったりとして落ち着いた雰囲気を、粉砕器でバラバラにぶち壊すかのように、育太は俺をからかった。
「あぁ、そうだよ。悪いか」
幾ばくか気分を害しつつも席につき、注文を済ませる。
「もう一ヶ月も前にみた夢の話だろ? いい加減、忘れろよ」
「それが出来りゃあ苦労はしないんだ」
あの夢を見るたび、その日一日は陰鬱な気分になる。
とにかく気が滅入ったように気力がなくなり、何も手に付かない。
「それに、なんだか最近、風邪っぽいんだよ」
「それで一段と。そういや、飲み物たくさん頼んでたな」
「あぁ、やけに喉が渇くんだ」
悪夢にうなされ、風邪に苦しめられ、散々だ。
「吸血鬼に殺される夢、ねぇ。でも、生きてるだろ? 宵噛帳は此処によ」
「まぁ、そうだけどさ」
生きているんだから殺される夢なんて気にするな。
何度も何度も育太に言われた言葉だ。だが、そう言われても簡単に拭い去れるようなものではない。脳裏にべったりと、それこそ血痕のように、貼り付いて離れない。あの光景が、映像が、目に焼き付いて、いつまでも消えてなくならない。
「――それより、だ。ほら、お目当てのノートだ」
話のすり替えを計るため、今日ここに来た目的を果たす。
「おっ、待ってましたっ! いやー、ほんと助かるぜ。お前がいるから俺は留年せずにいられるってなもんだ。よっ! 日本一!」
「あぁ、わかった。わかった。わかったから静かにしろ。他の客に迷惑だろ」
「あ、あぁ、悪い」
育太でも気恥ずかしさは感じるようで、素直に声量を落とした。
「ま、とにかく夢なんて気にするなよ。そりゃ年々、吸血鬼の餌食になる人は増えてるけどさ。でも、そうそうばったり出くわしたりはしねーよ」
「そう……だな」
そうそう簡単に、吸血鬼と鉢合わせるなんてことは、ない。
「――っと、もうこんな時間か」
ふと腕時計を見た育太は、そう言うと受け取ったノートを仕舞い込んで立ち上がる。
「まーた女のところか?」
「あぁ、そうだよ。悪いか?」
「意趣返ししてんじゃねーよ」
「はっはー。じゃ、またな。可愛い彼女が俺を待ってる」
「あぁ、七人目の彼女によろしくな」
「ちげーよ、これで八人目だ」
「悪化してんじゃねーか」
ジゴロというか、たらしというか、だ。
会う度に彼女が変わっていると言っても過言ではない、かも知れない。それくらい育太は女を取っ替え引っ替えしている。まぁ、育太のポリシーとして二股は掛けないと言っているが、それはそれである意味、残酷な話でもある。
「あ、そうそう。この前、美味いラーメン屋を見付けたから、今度一緒に行こうぜ」
「あぁ、楽しみにしてるよ」
出入り口のベルが鳴ってテーブルに一人になると、見計らったように注文していた飲み物がくる。これを飲んだら家に帰ろう。そう思いつつ、何をするでもなく、コーヒーカップに手を伸ばした。
Ⅲ
「――お客さん。お客さん」
誰かの声に引き上げられるように、微睡みから意識が覚醒する。
「あ、れ。寝てた……のか」
どうやらいつの間にか眠ってしまったようだ。
硝子越しに外を見ると、すでに空に月が鎮座している。街灯に明かりが灯り、行き交う人達はみな急ぎ足だ。
だが、自動車だけはみんな一様に止まって動かない。
そのことにすこし不思議に思いつつ席を立った。
「すみません。こんな時間まで」
「大丈夫ですよ。お得意様ですから」
店員さんの優しい言葉に安堵しつつ、会計を済ませて喫茶店を後にする。
ベルの付いた扉を開けると、途端に耳を覆いたくなるような音に襲われた。それはとても聞き覚えのある音。自らの存在を主張する、サイレン。音の発生源に目を向けると、大きな白が夜を裂くように走って行ったのが見えた。
救急車。どこかで事故があったらしい。
「夜も遅いですから、夜道に気を付けてくださいね。あと、吸血鬼にも。ないとは思いますけれど、一応」
あの話を聞かれていたのか。
「どうも、ありがとうございます。じゃあ、また」
見送りに来てくれた店員さんにそう返し、寒空の下に身を晒す。
「はぁー」
息を吐くたび、白く色付いては霧散する。
暗い闇夜に白い靄。ふと、見上げた空には星々が輝き、満月が街を見下ろしていた。
あの夢のように。あの吸血鬼に出遭う直前のように。
「喉……渇いたな」
風邪だからか、寝起きだからか、空気が乾燥しているからか。
喉が、渇く。
「……家になにかあったっけ」
はやく帰ろう。
身体の芯まで凍えてしまわぬうちに。その思いで爪先を自宅へと向ける。
心なしか歩幅を広く取りながら歩くこと数分、けれど思いとは裏腹に俺は足を止めた。
「なんだ? この匂い」
仄かに香る甘い匂い。
周囲を見渡してみても、それらしい飲食店はない。だが、たしかに漂ってくる。この先から匂ってくる。それに誘われるように、背中を押されるように、ふらりと爪先は帰路から外れた。
普段は通らない道を、匂いを道標に突き進む。狭い路地を抜けて匂いの元に辿り着く。
そこにあったもの。
それは蠢く人の群れと、けたたましい音を伴った救急車だった。
事故現場だ。そう、すぐに気が付いた。
「うわー、こいつはひでーな」
「事故った奴、どっちも血塗れだぜ」
「見て、道路めっちゃ赤い」
そして、この甘い香りが――鮮血の匂いであるということも。
「――くそッ」
居たたまれなくなって、すぐに踵を返して路地へと引き返す。
「……なんだよッ、これはッ!」
どうして疑わなかった。
どうして疑えなかった。
どうして理解した、納得した、受け入れた。
ほんの僅かにでも、違うと思えなかった。
あれは血だ。血溜まりだ。血の匂いが、鉄の匂いが、甘く感じる筈がない。だが、それでも、未だに香り続けるこの匂いは――この上ないほど甘くて美しい。そう思えてならない。
渇く。渇く。渇く。渇く。
喉が、渇いて仕様がない。
「どこだ……ここ」
無闇矢鱈と歩いて来たせいで、ここが何処かのかもわからない。
「公……園」
だが、幸運にも公園を見付けた。
公園にが水道がある。水が飲める。この渇きを沈められる。
そう思うと居ても立ってもいられず、水道の蛇口に手を掛けた。
「――な、んで」
けれど、溢れ出る水をいくら飲んでも、この渇きが静まることはなかった。
寧ろ、余計に酷くなる。海水を飲んでいるのかと錯覚するほど、喉の渇きは酷くなる。
ダメだ。これではダメだ。水では、この乾きを静めることは出来ない。もっと濃いものが欲しい。水よりも濃くて、甘くて、美しいモノ。赤く、滴り落ちる、血液が――欲しい。
「――誰だッ!」
感じたのは気配ではない。匂いだ。
甘い匂いが、急に強くなった。血の匂いが、濃くなった。
「今日は……いい夜だなぁ」
雲が夜風に流され、月明かりが公園と共に、何者かを照らし出す。
闇に融け入るほど黒く塗り潰されたスーツを纏う、壮年の男性。彼はこちらではなく、月を見上げながら感じ入るように呟き、ゆったりとした動作で、なにか重い物でも引きずるように近付いてくる。
「一夜に二人もだなんて」
一歩、また一歩と進む足取りは、重く鈍い。
その原因は、彼が月明かりを歩むたび、すこしづつ露わとなる。
初めは棒のような何かを引きずっているように見えた。だが、すぐにそれが何者かの片足だと気が付く。ずるり、ずるりと、無抵抗の人間を――いや、抵抗すら出来なくした誰かを、血塗れの元人間を、奴は引きずり歩いていた。
死体を引きずる男。殺人犯。殺人鬼。
違う。そんな生やさしい存在じゃあない。
「お前ッ――まさかッ」
にやりと歪に笑う男の口元には、赤く滴り落ちた血の跡があった。
「あぁ、そうさ。その通り、私は吸血鬼。キミを美味しく喰らう者だ」
瞬間、奴の背中から漆黒の翼が生える。
人体から決して生えることない異形の羽根。それを目にした直後、認識した刹那、身体は逃避に向けて動いていた。眼前の脅威から背を向けて、地面を蹴ろうとした。
「逃がしはしないよ」
けれど、間に合わない。
すべては一瞬。背を向けた直後、身体が宙に浮くほどの衝撃に見まわれる。何が起こったのかさえ理解も出来ないまま、身体は何度も地面と接触し、転がり、跳ね飛び、果てにジャングルジムに激突する。
「――かはッ」
ずるずると、滑り落ちるように地に足をつく。
全身を駆け巡る激痛に襲われ、火で炙られているかのような熱さに焦される。朦朧とする意識と霞み始める視界。喉の奥から込み上げてくる生暖かい何か。それは危機的現状を、死へと近付いたこと、如実に現していた。
「これ、なんだと思うね?」
男の手の内には、血に濡れた白い何かがある。
「キミの背骨の一部さ。逃げられないよう、抜き取らせてもらった」
ぐしゃりと、潰れる。
林檎でも握り潰すように、それの背骨は破壊された。
「おや、反応が薄いな。もう立っているのがやっとかね? これはいけない。血は生きているうちに吸わなくては。本当は男の血など好みではないのだがね、若いだけ幾分かマシなもんさ」
いつ、だっただろうか。
あの夢を見たのは。
「さて、では早いところキミにありつくとしよう」
あの夢も、あの時も、こんな風だった。
吸血鬼に追い詰められ、死ぬ寸前にまで追いやられた。
それから、俺は、どうしたっけ。
「いただきます」
牙が、血牙が、この身に迫る。
逃れようのない絶望を前に、しかし身体は以前の行動をなぞるように駆動する。
「――が、あ?」
この手に握るは、鉄の屑。衝撃で千切れたジャングルジムの破片。
決して鋭いとは言えない鉄屑を、だが無理矢理その心臓へとねじ込んだ。
「あぁ、そうか。たしか、こうしたんだっけ」
「き、貴さ――」
「黙ってろ」
より深く、深々と鉄屑を突き立てる。
「そうだ。思い出した――夢の続きを、あの日の続きを」
あの日、あの時、命を手放した瞬間、俺は人間から吸血鬼へと堕ちたんだ。
ごくりと、込み上げてきた何かを飲み干した。
「調子づくなよ、このちっぽけな人間風情がッ」
命を刈り取ろうと、五本の鋭爪が空を掻く。
「俺は黙れって言ったんだ」
迫り来る死の脅威よりも速く、吸血鬼の頭蓋を押さえ付け、地面へと叩き付ける。
音がする。鼻が潰れ、歯が折れ、眼球が破裂し、骨が砕ける音がする。そこへ更に畳みかけるよう、爪先で弧を描く。鎌で足下を薙ぐように、足は吸血鬼の首を捉え、刈り取るように吹っ飛ばす。
「これで少しは静かになったか?」
「かッ――あぁッ」
「そうか。そいつはよかった」
ゆっくりと足を前に進める。
破裂した血管を、千切れた筋肉を、引き裂かれた皮膚を、抜き取られた背骨を、再形成しながら、再結合しながら、再生しながら、眼前に這いつくばる吸血鬼との距離を詰める。
一歩、また一歩と進むたび、人から遠ざかり、吸血鬼へと近付いていく。
闇夜に目が慣れ、嗅覚が敏感になり、体温が失せ、人間の感覚が吸血鬼のそれへと置き換わる。それが臨界にまで達した時、月光に照らされた俺の影に、背に、一つの異物が混ざり込んだ。
「隻翼の……ヴァンパイア」
翼。
片方だけの羽根。
それは吸血鬼の証。
「ま、待ってくれ! 知らなかった! 知らなかったんだ! お前が半分だけでも同属だったなんて! そ、そうだ。お詫びの印に、そこの死体をやるよ。まだ死んで間もない。新鮮なんだ。な? な!?」
潰れた鼻も、折れた歯も、破裂した眼球も、砕けた骨も、半ば再生しつつある吸血鬼は、勝てないと悟るや否や、そう命乞いをする。
甘く美しい香りのする、喉から手が出るほど欲しい血溜まりを指差して。
「……お前も、覚悟のうえなんだろ?」
「は?」
「殺される覚悟が、お前にはあったはずだ。誰かを殺そうとして、実際に一人殺しているんだ。当然、あるはずだよな? ないとは――言わせない」
また一歩、近付く。
「お前は俺を殺そうとした。だから、お前は俺に殺されるべきだ」
地面を蹴り、肉薄する。
「――や、やめッ」
伸ばした手が吸血鬼の顔面を掴む。同時に、奴の後頭部を地面に叩き付ける。
ぐしゃりと潰れる肉と骨。夥しい量の血液が周囲に血溜まりを作っても、吸血鬼にはまだ息がある。この程度では死にきらない。まだ殺せない。だから、止めを刺すべく、指先に渾身の力を込める。
「が――あ、ああッ――」
手が、指が、吸血鬼の顔面に食い込んでいく。
骨が砕ける乾いた音と、脳が崩れる濁った音。それらが重なって響き、最後に大きな音を鳴らして、この手は握り締められる。瞬間、顔を無くした吸血鬼は、一度、大きく痙攣した後に動かなくなった。
いくら吸血鬼と言えど、頭を潰せば死ぬらしい。
「へぇー、やるじゃん」
吸血鬼を殺害した所で高い位置から声が降ってくる。
立ち上がり様にそちらに目を向けると、街灯の上に一人の人間――いや、吸血鬼と思しき誰かを見る。栗色の髪をしたショートカットの女だ。俺がこの吸血鬼を殺す所を、見物でもしていたのか、楽しそうに笑っている。
「誰だ? あんた」