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夏空トライアングル

作者: あわき尊継

 麦わら帽子が無ければ即死だった。


「ぅぁ……」

 カァァッ――と全身を炙る太陽の光に、思わず仰け反ってうめき声が漏れた。下がった右足が影に入り、日向との違いから随分とひんやりして感じる。

 続けて二歩、三歩と下がり続け、更衣室の通路に戻った私はそこを安住の地と決めた。ビバ日陰、太陽よサヨウナラ。それでも空気は暑くて、水着の上から羽織っていたパーカーのチャックを少しだけ下げてパタパタと仰いだ。胸元に送り込まれる風が気持ちいい、ようでにじみ出る汗が若干不快。海でさらけ出すには戦力不足な胸を覆う水着を少しだけ浮かせて肌を掻く。はしたないとか気にしてられないのかゆいの。


「……海だ」

 海である。

「砂浜……」

 砂浜である。

「あ、かき氷屋さんある」

 心のオアシス海の家である。


 要するに私、久楽持アカリは今、何を血迷ったかカンカン照りの青空の元、海に来ているのである。


     ※   ※   ※


 お父さんが張り切って海に行くぞーなんて言い出したのが三日前。

 連休を控えた平日の夜に、普段からやる気と元気に満ち溢れた筋肉ダルマは、帰りに見つけたらしい海開きセールで買い込んできた海遊具セットを持って帰宅した。

 まあお父さんがうるさいのはいつものことだから、同じようにうるさい妹と一緒になって騒ぐのを他所に、物静かでおしとやかで休日は寝て過ごしたい派のお母さんと私はつるつるとそうめんを食べつつ聞き流していた。あ、流しそうめんもいいなあ、自分で準備するのでなければ、あと食べる専門で、などと思っていたを覚えている。


 予定が狂ったのは当日の朝だ。

 あろうことかお父さんが風邪をひいた。バカなのに。バカじゃないの。

 折角の連休を布団の上で過ごすことになったお父さんのことは放っておいて、問題は海に行くと言ってきかない妹の保護者を誰が務めるか、だ。

 あの時私が逃げに徹してベランダのアロエに水をやりに行ってなければ、まだ抵抗の余地はあったかもしれない。けど、異常なまでの高熱に苛まれるお父さんの看病をお母さんがこれ見よがしに始めたことで私の同行が決定してしまった。流石に看病役は必要そうだったし。


 妹がなんでここまで海に行きたがったのか、理由は家族全員が知っている。

 お隣の畠山さんちは私たちが生まれる前からの付き合いで、当然生まれてからというもの遊びに行くと言えば二家族揃ってが定番だった。そして妹のミコトは畠山さんちのノブヤスくんの事が好きなのだ。

 最近は皆大きくなったのもあって前ほど出かけることもなく、私も大学の付き合いが増えて同行そのものが無くなっていた。畠山さんところのお父さんも仕事が忙しくて今回は最初から同行メンバーには入ってない。というか、お母さんもパート仕事をしているから、海へ行くにあたって我が久楽持家が面倒を見ることになっていたのである。


 従ってお父さんを失い、恰好のサボり理由を得たお母さんをも失い、保護者と呼べるのは私だけ。しかも行き帰りの車の運転まで私。こんな暑いのにビールも飲めないとは……。


 因みにノブヤスくんは長男で、下にちびっこいのが二人居る。今日はその友達まで一緒ということで、更に面倒が多かった。まあ男の子ばっかりだからノブヤスくんに丸投げしてるけど。女の子が居てもミコトに丸投げしてただろうけどね。


 午前中は元気いっぱいだったチビ達も、昼食を食べたら眠くなったらしく、今やパラソルの日陰で川の字になって寝ている。そこ、私の安息の地だったのに。

 仕方なく領地を明け渡し、面倒をミコトに押し付けた私は他の涼しい所を探して浜辺をうろついた。そうして、沖へ伸びる堤防の先に見知った姿を見つけて、のんびり歩いて行ったのである。


「食料調達ご苦労~、ノブヤスくーん」


 食事の後くらいから姿が見えないと思ったら、いつの間にか釣竿なんて持ち出して海釣り中だった。

「海の家で貸し出してたから」

 釣竿の出所はそういうことらしい。

「釣れる?」

「全然」

「何釣れるのかな?」

 隣にしゃがみ込むと、ノブヤスくんは一度こちらを見て、すぐ糸の先に視線を戻した。

「……知らない。食えるかどうかも分からない」

「大きいの釣れたら持って帰ってみようよ。お父さんに頼めば捌けるかも」

「おじさん」

「ん?」

「熱出たって」

「あぁ、平気平気。二三日転がしとけば元気になるって」

「そっか」

 会話が途切れ、しばらく波の音を聞いていた。

 大学の友達同士だと、沈黙をどうにかしようかと話題を探したりもするけど、ノブヤスくんとは小さな頃からの付き合いだし、あんまり気にならない。私はぐーたらだし、ノブヤスくんもぺらぺらしゃべり続けるタイプじゃない。

 ノブヤスくんとミコトは同い年で、まだ中学生三年生だ。落ち着きの無い子の多い中、こういう無口な子って特別に映ったりするんだろうか? ミコトはよく学校でもライバルが居るだの喋ってるから、実際モテるんだろう。こいつめ。


 部活はやってないって聞いてるけど、やっぱり男の子だからか、むき出しの上半身は記憶にあった小学生の頃よりずっとたくましくて筋肉がついてる。身長もいつの間にか追い抜かされてるし、変声期を迎えた声は性格もあってか随分落ち着いて聞こえる。まあまだまだガキだけどね。


 釣竿の糸の先、浮きがぷかぷか揺れている。

 日差しは相変わらず強くて、私は麦わら帽子を被って水着の上からパーカーを羽織ったままだ。気分で着替えてはいるけど、あまり泳ごうという気概はない。疲れそうだし。


「あ」


 何かの手ごたえを感じたのか、ノブヤスくんが釣竿を引く。そして糸の先にある釣り針を上手く捕まえて顔をしかめた。同年代の女の子からは大人っぽいと言われているだろう不器用なガキんちょの顔が、もっとガキんちょの顔になった。

 昔の無邪気だったころを思い出してちょっと笑っちゃう。

「残念だったね、餌取られちゃって」

「……でも、取る奴が居る」

 確かに。

「じゃあ今晩のおかず期待していい?」

「わかった」

 脇に置いてあった餌箱から素早くミミズみたいなのを取り出し、手際よく釣り針に通すと、一度後ろを確認して海へ放る。

「トロ食べたいなぁ」

「マグロは居ないと思う」

 しかも旬じゃないらしい。旬ってテレビで聞くと、そうなんだーとは思うけど、具体的に何がいつだったかなんて覚えてない。

「冬」

 なるほど。

「寒いから脂肪を蓄えるんだ」

 冬に太るのは人間も魚も一緒なんだね。人間は主にクリスマスケーキと正月のおもちだけど。


「釣れないね」

「そういうものだから」


 またしばらく静かな時間に戻った。

 ただ、こうも暑いとじっとしてても汗が出てくる。日焼け止めは塗ってあるし、長袖のパーカーだから日焼けは大丈夫だろうけど、こめかみとか首元とかはもう汗一杯だ。背中を流れ落ちる汗の感覚は気持ち悪い。


「ちょっと貸して」

 ノブヤスくんが肩に掛けてたタオルを取り、汗を拭く。

 首元、背中、胸元、水着の裏まで遠慮無く。そして顔は軽く叩くようにして。

「うわぁおとこくさー」

 けらけらと笑いながら言うと、流石に多感な年ごろだからか、私の冗談に嫌そうな顔をした。実際にはそんな嫌じゃない。お布団とは違った太陽のにおい?

「ごめんって。ほら、汗吹いてあげるから許して。ね?」

 見れば私以上に汗まみれなノブヤスくんの背中を同じタオルで吹く。

「お客さん、かゆいところありますかー?」

「……ない」

「なら適当に、そーれ」

 同じように首元や肩を拭いてやり、最後に顔を覗き込んで拭く。

「あー、日焼け止め塗ってないでしょ。赤くなってるよー」

「いらない……」

 まあ男の子はそれでいいのかな?


 最後にタオルを元通り肩へ掛けてやると、ちょうど売り歩きのおじさんがやってくるのが見えた。財布は車の中だけど、小銭を幾らかパーカーのポケットに入れてある。ひのふのみーの、足りる足りる。

「おじさーん、アイスキャンディー二本くださーい」

 気の良いおじさんはおまけにソーダまでくれた。一本だけだけど。ちょうど商品を取りに戻る所だったらしい。余り物ってやっぱり福があるのね。


 買い物を終えて戻ると、ノブヤスくんはまた餌を食べられたらしく、手早くミミズみたいなのを取り付けると海へ放った。胡坐を掻いて座るノブヤスくんの目の前にアイスキャンディーを差し出すと、彼の目がこっちに向く。

「おごり。ほら」

 両手の塞がってるノブヤスくんの口元へ向けると、

「ありがとう」

 先っぽを咥えると器用にアイスキャンディーを呑み込みながらあっという間に平らげてしまった。

「ははは」

 その様子が本当に子供っぽくて、可愛らしくって、つい笑った。

 大きくなったと思っても、まだまだあのちっちゃいノブヤスくんだもんねー。


「よいしょ」

 背中合わせに腰かけ、背もたれことノブヤスくんにもたれかかった。

「トロが釣れたら教えてねー」

「ん」

「あ、ごめん、麦わらのつば当たるね」

 というわけで私の日陰はノブヤスくんの頭へ移動。そしてそのままだと日光が首元に当たるからと、一度身を起こしてパーカーを抜いだ。背中をぺたりと合わせたまま、広げたパーカーを正面から羽織り、日陰を確保。ついでに咥えたアイスキャンディーがおいしい。

「背中おっきいねえ」

 成長を見守ってきたお姉さん的には、ちょっと嬉しくなる。


「ふわ……ぁ」


 落ち着きどころを見つけたからか、少し眠くなってきた。

 いやー、流石にこのまま寝るのはなぁ、と思いつつ、まどろんでくる。心地良くなって、少し姿勢を変えて、ノブヤスくんの背中に頬を付けて目を瞑る。

 えへへ、良い筋肉じゃのー。


     ※   ※   ※


 ちょっと勘弁して欲しい。

 背中に当たる肌の感触とか、髪の毛のさらさらした感触とか、本気で寝入っているらしい吐息とか、あまつさえ姿勢が悪いからか体を固定しようと回された両手がかなりきわどい所にある。


「はぁ……」


 餌の取られた釣り針を海に垂らしたまま、もう一時間くらい動けないでいた。

 動いたら起こしてしまいそうだから、と言うといかにも優しげな理由だけど、本当はいつまでもこうしていたいからだ。


 最近はあまり会う機会がなかったけど、また一層大人っぽくなってる。

 女の人は化粧をする、というのもアカリ姉さんを見ていて気付いた事だ。ノーメイクが基本だと思ってたけど、クラスでもしない人は居ないらしい。


 脇に置きっぱなしになっているソーダを少しだけ貰う。

 勝手に貰ってるけど、まあ怒らないだろう。寝床扱いされてるんだからこのくらいはないと。第一、流石に喉が渇いてきた。


 身じろぎする背中の感触にまた心臓の鼓動が強くなった。

 未だに子ども扱いされていることは不服だけど、だからこうして気安く相手してくれるんだろうとも思う。小さな頃は一緒にお風呂とかも入ってたし、もしかすると今でも……いや流石にそれはないか。


 いつまで経っても俺はアカリ姉さんにとっての男になれない。

 クラスでも身長は高い方だし、腕力もある。けど、例えば今日みたいに車の運転が出来るようになるにはあと三年は必要だ。俺はお酒も飲めないし、大学とかであるようにサークル活動というのも縁遠い。


 早く大人になりたい、とは思うものの、どうすれば大人になれるだろうかと悩む。

 身なりにも気を付けるようにしたし、雑誌で言われてるように男の体臭とやらにも対策はしていた。野菜嫌いじゃないし。それだけに男臭いと言われたことはショックだったし、まだまだ気遣いが足りないんだろうと思い知らされた。

 気持ち悪がられなかったのは、俺がお隣のノブヤスくんだからか。

 卑屈になりたくはないけど、いつしか呼び捨てにくんが付くようになって、アカリ姉さんとの間に硬い壁が出来上がったような気がしていた。


 俺は、アカリ姉さんが好きだ。

 小学六年の頃に気持ちは伝えたけど、親愛以上のものとして受け止められず笑われた。


 俺がアカリ姉さんと同い年なら、もしくは手を引いていけるくらい逞しくて頼りがいがあれば。


「……背中貸してるだけでちょっと頼られてる気分になってるのが、まだまだなんだよなぁ」


 意識して声に出すと、ため息と一緒に焦りも少しだけ出ていった。


 波に揺れるうきを見て思う。

 餌の取られた釣り針が無意味に垂らされ、けれど上げることも出来ず海底に沈んでいる。

 俺という釣り針に餌はついてるんだろうか。

 釣り上げられる筈もない行為をずっとしているような気もする。


「けど」


 とりあえず高校に入って、十六になったらバイクの免許を取ろう。それで十八には車だ。その為のお金を溜めたいから部活はせず、バイトをする。扶養、というものから外れないように稼いだとしても三年で三百万くらいは稼げるらしいから、ちゃんとした車が買える。

 買った車を俺が運転して、隣にアカリ姉さんを乗せて……うん、出来たらいいな。


「うへへ、スイカわりぃ」

 背中でアカリ姉さんが笑う。珍妙な寝言に俺も笑ってしまう。

 そして、横合いから人が近づいてくるのに気付いた。

「あんたら、人にチビたち押し付けてなにやってんの」

 ミコトだ。


 同年代でも飛び抜けてスタイルの良いミコトは、チビたちの引率という日にまさかのビキニを着ていた。クラスの友達がよく胸の話をしているのを聞く。

 アカリ姉さんの影響か、ミコトは幼い頃から化粧を覚えていて、普段の服装とか髪型も大人っぽい。女子とかでも褒めてるのを聞くし、これで姉御肌だから人にも頼られる。なのに猫かぶりが上手いから、年上のお姉さん風だなんて男子から言われるんだ。

 けど、小さな頃から知ってる俺からすれば、そしてアカリ姉さんを知っていれば、ミコトがただのガキなのは一目瞭然で。


 なんて思っていたら、ミコトの目が鋭くなった。

 教室じゃまず見せないキツい顔だ。怖くないけど。


 俺は背中のアカリ姉さんを顎でしめし、言う。

「運転、疲れてたみたい」

「午前中ずっと日陰で休んでたじゃない」

「車の運転って大変みたいだしな」

 出かけが早かったから渋滞こそなかったけど、海開きにこぞって集まる人々で車の数は多かった。車間とか、割り込みとか、歩道からの飛び出しとか、自転車とか、とにかく運転は大変なんだ。


 言うと、ミコトがあからさまにため息をついた。

「はいはい。そうやっていつもお姉ちゃんを甘やかすんだから」

 これは気遣いだ。


 口がへの字になるのを感じながら、自制して糸の先に目を戻す。すると、ミコトが肩が触れる距離まで近づいてきて膝を抱える。お尻をつけはしないけど、大きな胸が膝小僧の上に乗る。

 つい目が向いて、違うコレは男の本能だと言い訳をする。大体俺はミコトみたいに無駄に大きなのは好みじゃない。手のひらサイズが一番好きだ。

 小さくミコトが笑うのを聞こえた。

 垂れていた髪を耳に掛ける。

 ミコトが痺れを切らすのはアカリ姉さんより早かった。


「ねえ」

 視線を向けて返事変わりにする。

「何釣れるの、コレ」

「知らない」

「知らないのにやってるんだ」

 呆れた声を出す。

「こういうのは釣れるかどうかとか、何が釣れるかとかは二の次だ」

「ふぅん」

 不満そうだ。

 それからまた少しして。


「ねえ」

 視線を向ける。

「トロ食べたい」

 思わず笑った。


「なによお」

 俺の笑いが不満だったらしく、気の強い視線が刺さる。

「アカリ姉さんと同じこと言うから」

 笑って言うと、ミコトはぐっと息を詰める。

 そして、さも動じてませんとばかりに言ってくる。

「私が欲しいのは大トロなの。お姉ちゃんと一緒にしないでよっ」

「釣れたらあげるよ」

「ほんとっ? お姉ちゃんじゃなくて私に頂戴よっ? 私が、ノブヤスの釣った大トロもらうんだからね!」

「釣れたらな」

 釣れないけど。


 この、ミコトのアカリ姉さんへの対抗意識は昔からだ。

 姉妹っていうのはそういうものなのか、なんでも真似をする癖に自分はもっと上だから、みたいなアピールをしたがる。大人ぶるミコトの姿は、俺からすれば逆に子どもっぽくも映るんだ。


 達成できない約束に満足したのか、勢いよく立ち上がったミコトが俺の被っていた麦わら帽子を取る。アカリ姉さんに被せられたソレは、抵抗する間もなくミコトの頭に収まった。

 そして俺の背中で寝息を立てるアカリ姉さんを見て、悪い笑みを浮かべた。

「ていっ」

 掛け声と同じくらい軽く、けれど正確にミコトのサンダルの先っぽがアカリ姉さんの脇腹へ直撃した。

「っっっ――たぁぁああい!」

「いつまで寝てんのよ、お姉ちゃん! 早く戻ってチビたちの面倒代わってよ!」

 さもカンカンです、とばかりに声を荒げてみせるけど、本気で怒ってないのは俺でもわかる。

 ただ、寝耳に水なアカリ姉さんにとっては相当な衝撃だったらしく、うーうー呻きながら泣き言を連ねている。


「やりすぎだ」

 軽くしたのは分かってたけど、一応言っておく。

「ノブヤスに任せておくと日が暮れても起こさないからじゃない」

 世話が焼ける、とばかりに吐息をつくと、そのまま背を向けた。と、少し歩いた先で立ち止まり、身体を捻る。

「お姉ちゃん戻ったら、後で泳ごうよ。ちょっと遠くまで、ね?」

「分かった」

 ずっと動かずにいるから、少しは思いっきり体を動かしたくなっても来た。


 この後は、寝覚めの悪さに機嫌が急降下したアカリ姉さんの八つ当たりを散々受けた挙句、釣果ゼロという事態にもお叱りを受けた。理不尽だけど楽しかった。

 ぷんぷん怒るアカリ姉さんはかわいい。


     ※   ※   ※


 「っへへー、私の勝ちー!」

 人が居なくなるほど遠くまで泳ぎ、Uターンしての競泳は私の勝ちで終わった。

 少しだけ遅れて砂浜まで上がってきて倒れるノブヤスの頭上で私は勝ち誇った。波打ち際に放り出されたノブヤスの足が波に呑まれて砂浜へ沈んでいく。


 どざえもんことノブヤスは掛けていた水中ゴーグルを外し、

「最後……水中、バレー、して……はぁ、してる人たちに突っ込まなかったら、勝ってたのにな……」

「言い訳ー。そういうのを踏まえてコースを見極めるのもレースの内じゃん」

「はあ、そうだな」

 バテバテのノブヤス。男なのにだらしない。私ならあと二回か三回は行ける。


 私は隣に並んで腰を落とし、同じように足を波打ち際へ晒した。

 さらさらした砂粒の感触と、押しては引いていく波は不思議な感触がする。

 両腕を頭の後ろで交差させて枕にすると、私もノブヤスと同じように寝転がった。


 すぐ近くで、彼の呼吸が整っていくのを聞く。

 ちらりと目を向けた胸元が息を吸うごとに浮き上がり、沈むのを見る。

 触れてはいないのに、なぜか激しい水泳で上昇した体温を感じた。

 真っ青な空の中心で強烈な光を放つ太陽が、肌に浮かぶ汗か海水かを綺麗に照らしていた。張り付いた砂粒の奥に、陽に焼けつつある彼の肌がある。


 ぷい、と顔をノブヤスの反対へ向けた。

「はぁぁ」

 そっとため息をついて、体の熱を逃がす。


 ノブヤスがお姉ちゃんを好きなのは知ってる。

 すっごく小さな頃からノブヤスはお姉ちゃんにべったりだった。甘えてたのとは違うけど、なんでも言うこと聞いて、お姉ちゃんが言うなら嘘でも信じた。

 お姉ちゃんはズルい。

 私よりもずっと早く生まれて、あんなにだらしないのに、お父さんの居ない日は下着姿でリビングに現れたりするくせに、やっぱり重ねた時間だけ大人っぽい。大人っぽくて、ノブヤスに好かれてて、それを気付きもせず呑気に私を応援してる。私には手に入らないお姉さんっぽさがあって、そこがこいつは好きなんだ。

 本当にズルい。ズルいったらズルい。


 近くに居るからお姉ちゃんの駄目さ加減は知ってる。

 ノブヤスだって散々見てきて、それでも好きなんだ。

 私がどれだけお姉ちゃんを真似て、それ以上を目指して大人っぽく振る舞っても、まるで見てくれない。

 ノブヤスなんて、お姉ちゃんに相手にされないままさっさと失恋すればいいんだ。私が居るんだもん、落ち込んだって全力で慰めてあげる。


 なのに、


「はぁ……」


 またため息が出る。


「疲れたな」

 今度は聞こえたらしい、見当違いなことを言ってくる。

「別に」

「しばらく寝てよう」

「……うん」


 本当に……ノブヤスは……仕方ないなあ!


 お姉ちゃんに振り向いてほしいノブヤスは分不相応に大人っぽく振る舞おうとする。私から見れば幼稚で、ただ朴念仁なだけで、だからちょっと可愛くて、真っ直ぐにお姉ちゃんを見つめる横顔がキラキラしてて……。

「痛っ」

「ごめんっ」

「なんで殴ったんだよ」

「別に」

「……そうか」


 ノブヤスは、なぜかモテる。

 私が知る限り三人がノブヤスを好きだと思ってる。

 こんな、お姉ちゃんバカで、口下手で、冗談の一つも上手く言えなくて、別に運動部で活躍してるでもなくて、成績だって中の上くらいで、身長だって特別高くもなくて、自分を好きな人が居たってまるで気づけないくらい鈍感で、体力なんて私よりも無くて……なんでこんなのを好きになるのよ!

 ノブヤスを好きなのは私だけでいいのに!

 こんな全然ダメで、ダメで…………ダメな奴のどこがいいのよ!


 私はずぅぅぅっと小さい頃から見てきたんだから!

 コイツが馬鹿みたいに真っ直ぐで、口では言わないけど色々気遣いしてて、それを周りに評価されなくたって全然構わないんだって思ってて、弟たちからも好かれてるくらいお兄ちゃんしてて、お姉ちゃんに振り向いてもらおうと真剣に悩んで意外とお洒落だったりして、それを気付かれたくなくてファッション雑誌をずっと離れた回収場所まで持っていったりするちょっと可愛い所があるのも知らない癖に!


 はぁ……このまま世界から私とノブヤス以外が消えればいいのに。

 それか、二人だけの世界に行きたい。


 ふと顔を戻した。

「っ!?」

 目が合った。


 なんで!? 私がそっぽ向いてたから!? だから気にしてこっち見てただけ!?


 鼓動が急激に早くなっていくのを感じた。

 喧噪がすっと遠くなる。


 ノブヤスが私に手を伸ばす。

 驚いて体が硬くなって、思わず目を瞑る。痛い位に閉じた瞼の向こう、ノブヤスがどんな顔をしていたか思い出せない。

 髪に指先が触れる。

「っ」

 目を開いた。

「ノブヤスっ!」

 衝動だった。

 勢い任せに気持ちが溢れた。

 顔を直視できない。恥ずかしい。今も私の髪に触れるノブヤスの指の感触があって、顔がどうしようもなく熱くなった。

「ん?」

 私の様子に何かを感じ取ってくれたのか、ノブヤスが動きを止める。私も覚悟を決めて、再び視線が交わる。

「私ね、ノブヤスのこと――」


 ――――ザッパァァァアアアアアン! と、特大の波が二人を襲った。


「っっっ!」

 一瞬で髪がぐちゃぐちゃになり、砂に呑まれ、不意の衝撃で口の中まで海水が入ってきたけど、私はめげずに立ち上がった。


 女の! 恋心が! 波なんかに! 負けるもんかあああ!


「あ、取れた」

 一緒になって起き上がったノブヤスが、嬉しそうな声をあげる。

 そして手にしていたソレを私の目の前へ差し出し、

「ほら、髪にカニがついてたよ」

 その、あまりにも子どもじみた無邪気な声につい、


 つい、


「おー威嚇してる。はは、可愛いなコイツ」


 つい、


「ほらっ、お前も見てみろよ」


 ぺしん、と差し出された手を弾き、カニを海に帰した。

「ミコト?」

「ノブヤスの……っ」

「ん?」


「馬鹿野郎ォォォォォオオオオオオ!」


 ザ、と左足を打ち込むようにして砂浜へ踏み込み、上体を軽く落とす。重心は下から前へ流す。後ろの右足から腰へ、上体を捻り、肩へ伝わった力が腕を加速させ、何より一撃の重みを肥大させた。

 下方から渾身の力を込めて放たれた右が、無防備なノブヤスの腹を直撃した。


 崩れ落ちる乙女の敵、朴念仁を背にして私は去る。


 そうしてパラソルの下でぼーっとしていたお姉ちゃんの所へたどり着くと、無言で抱き着いた。

「おーよしよし」

 何も聞かずに慰めてくれるのは嬉しい。


 あぁ、やらかした。


 ごめんノブヤス、つい我慢出来なくなった。

 昔から勢いで行動しがちだから、ああなると私は自制が効かない。分かってるから普段は落ち着いていようと思ってるのに、さっきのは本当に間が悪かった。波さえなければ耐えられたと思う。

 はぁ……。


 折角今日はアピールチャンスだと思ったのに、もう駄目だぁ……。

「よーしよしよし」

「もう帰る」

「チビたちが納得すればね」

「説得してよお姉ちゃん」

「説得出来るなら私は今日クーラーの効いた部屋でごろごろしてたよ」


 お姉ちゃんは聞かずにいてくれたけど、結局私は洗いざらいをぶちまけた。

 頭を撫でられながら、少しだけ落ち着いてきた頃、ノブヤスが戻ってきた。そうしてお姉ちゃんがピシリとノブヤスを指して言う。


「罪状、朴念仁」

「なにそれ……?」

「正座」

「ん?」

「するっ」

「はいっ」


 と、ここで私の頭にもチョップが落ちた。

「あいた」

「痛くしてないから。ミコトも正座なさい」

「……はぁい」

「ノブヤスくんの隣ね」

「え……」

「正座する」

「わかったよぉ」


 二人して正座すると、少し離れた所で遊んでたらしいノブヤスの弟くんとか、友達とかが集まってきた。皆して面白がって、お姉ちゃんの側に座る。


「ミコト」

「……なに」

「罪状、暴力」

「はい……」

「判決、謝りましょう」


 言われるまま私はノブヤスに膝を向け、頭を下げた。


「ノブヤス、ごめんっ」

「……いいよ、別に」

 別に、という言葉がチクリと刺さる。

「ごめんなさい」

「わかった。で……理由はなんなんだ」

「それは……っ」

 お姉ちゃんヘルプ!

「それはね、ノブヤスくんが大人になれば分かる日がくるよ」

「わかった」

 ナイスっ! けどお姉ちゃんが言うことだからって納得早すぎるわアンタ!

「ごめんね、ノブヤス。痛くない?」

「良い右だった」

「ご、ごめんなさい」

「うん、一件落着」

 お姉ちゃんが満足げに腕を組んで頷いた時だった。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――――!!」


 浜辺を猛烈に駆け抜けていく筋肉ダルマが現れた。

 私から見ても暑苦しいソレは一目散に海を目指し、


「サマァァァアアアアア――バッケエエエッショォォオオオン!」


 ざぱーん、と飛び込んで行く姿に、大人ってなんだろうと、私は強く思った。


「おじさん、元気になったんだ」

 二三日転がしとけば所か、二三時間転がしとけば治ったらしい。


     ※   ※   ※


 パシュッ、という音は最高である。

 パシュッ、も一つおまけにパシュッ。

「お姉ちゃんお酒開けすぎ」

「やだー、飲むー、もう酔っぱらって寝るから後は任せるー」

 ひゃっほーい。


 お父さん復活は暑苦しかったけど、付き添いでお母さんも来てくれたし、朝から引率してきたという実績のある私は堂々と飲んだくれられる。カンカン照りの熱い日って最高! ビールがおいしい! ひゃふー!


「アカリさん、今日は朝からありがとうね」

「いえいえー、皆忙しいときは持ちつ持たれつですよ」

 結果良ければすべて良し。お父さんの病欠を聞いて早くに帰宅したノブヤスくんの両親こと畠山夫婦も、一緒になって来てくれたらしい。久しぶりに会うおじさんは相変わらず物静かだけど、やんわりした雰囲気が私は好きだ。

「今日は私がおごるから、好きなだけ飲んで頂戴」

「やったー! あ、おじさんイカ焼きと青のりたっぷりの焼きそばと缶ビール二つ追加でー!」

 そしておばさんは昔から気前がいい。若かりし頃は竹を割ったような性格、とまで言われたらしいおばさんは、今は三子の母となって一層磨きが掛かってる。

 おっかさん、という言葉が似合う人だなぁ。


「あ、ほらノブヤスってば好き嫌いしない」

 くいっとビールを飲み干していると、隣で身を乗り出したミコトが、ノブヤスくんがお皿の端に追いやっていたイカを焼きそばの中へ戻していく。世話焼き女房め。

「ん……」

 イカ嫌いなノブヤスくんが眉を顰めるけど、ミコトは容赦無い。


「はーい、焼きそばと缶ビールとイカ焼きです。焼きそば景気よく青のり振ってみましたいかがでしょーか」

「さいこーです!」

 ここで私の焼きそばとビールとイカ焼きが届いた。うーん青のり一杯は幸せだ。

 私は焼きそばをずるずるやりながら言う。

「そうだよー。好き嫌いなんて子どもっぽい。イカのおいしさが分からない内はまだまだよ。ねーおばさん」

「イカはお酒のお供。ノブにはまだ早いのかもね」

 パシュッ、とおばさんが缶ビールを開ける。私も飲みかけを掲げた。

「イカに」

「イカに」


「「かんぱーい!」」


 さいこー!


 ぷはあっ、と酒臭い息をついて、ふと隣を見ると、ノブヤスくんが意を決したようにイカを口に運ぶ所だった。噛み応えに嫌な顔をするけど、

「飲み込めた?」

「飲み込めた」

「ふふっ、じょーできい! 成長したね少年!」

 お酒はまだ駄目だけどな!

 などと思ってグビグビやっていると、じっとノブヤスくんを見ていたミコトがいきなりお皿に積まれたイカを私の焼きそばへ放り込んできた。

「え? え? え? 嫌いじゃないけどこんなにあっても困るんだけど」

 第一イカ焼きあるし、焼きそばのイカは添えるくらいがいいんだよ?

「別にー。お姉ちゃんイカ好きなんでしょ、食べればいいじゃない」

「こんなにいらないって、はい、ノブヤスくんあーん」

「わかった」

「ノブヤスもすぐお姉ちゃんの言うこと聞かないっ」

「もうミコトなにがしたいの。好き嫌い止めたいの、助長したいの」


「青春ね。おばさんも心が若返るわ。ね、あなた」

「あぁ」


 私たちがわーきゃーやってる横では、おばさんがのろけていた。そしておじさん、いつの間にかおつまみ三点盛りのメンマでピラミッドを……流石手先が器用だ技術職! なによりノブヤスくんに似て普段から寡黙で表情が動かないのに、そこはかとなく誇らしげなのが面白い。


「おーやってるなあ皆の衆!」

 そこに筋肉ダルマことお父さんがやってきた。後ろに子どもたちを引き連れ、異様なほど人の視線を集めて。

 原因はすぐわかった。


「もー、離して下さいお願いですから降ろして……ああ、アカリっ、助けて」


 お母さんがお姫様抱っこで運ばれていたからだ。

「こうしていると若い頃を思い出すなあ!」

「アナタは今でも若い頃のままです。いいから降ろして下さい、恥ずかしくて仕方ありません……」

 言いつつパレオ付きのデザインビキニを着ている辺り、最初だけはノリノリだったらしいお母さん。歳に合わないことするから。

 それから顔が真っ赤になったお母さんがようやく解放されると、すすと私の背後に逃げ込んだ。可愛いな私の母! しかし、すっかり怯えてしまって。


「ホント、そっちの夫婦は昔から若々しいね」

「お騒がせしてごめんなさい。主人はその……バカで」

「ははっ、こっちの主人は朴念仁だからね。どっちがいいんだかって」


「見てみろ、これが伏見稲荷大社名物の連続鳥居だ」

「すごー!」「とりー?」「でも赤くないよ」

「それならこの七味で色付けをすれば」

「赤くなった!」「とりー!」「すごー!」

 一方畠山さん家のおじさんは文化遺産の制作を始めていた。現役技術職の職人技にチビたちは夢中だ。

 因みに真っ赤っかメンマはおじさんが責任もっておいしくいただきました。


「おーノブ。お前おっきくなったなあ! まだ成長続いてるんだろ? ほらイカ食えイカ。栄養たっぷりとってでっかい男になれ! でかい男はもてるぞ!」

「わかった」

「お父さん、ノブヤスに余計な事言わなくていいって」

「そうか? ならノブ、イカ食うな! イカ臭い男は嫌われるからな!」

「わかった」

「ノ・ブ・ヤ・スゥ……! わざとやってるでしょ!」

「ふふ」

「俺のミコトは可愛いなあ!」

「誰がっ! 私はお父さんのじゃなくてっ! なくて――」

「お? お? おおお?」

「死ねっ! クソ親父! 馬鹿ッ、もう……お母ぁさんっ!」


 うーん、酒が美味い!


 皆の騒ぎっぷりを感じながら、空っぽになった缶を持ったまま私は座敷に寝転がった。潮の香がする畳、あちこちに砂粒がある。

 海の家の料理は作り置きだったり、砂粒混じってたりするけど、とてもおいしく感じる。夏だし、海だし、いいつまみもある。

 自分で騒ぐのは疲れるけど、こういうのは嫌いじゃない。


 大きな欠伸を一つ。


 あぁ、今日は……良い、夢が…………見れそう、だ――。





リハビリも兼ねてのんびり楽しそうなお話を書いてみました。

家族の団欒はきっと一番の肴です。

良い夢見られるに違いないアカリ姉さんと同じく、読んで下さった方々も良い夢が見れますように。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  恋愛は難解です。 [一言]  悪い部分を見せても、好きでいてくれる異性の存在はとてつもなく大きく思います。欠点だらけだった、幼い頃に経験しました。
2016/05/10 10:54 退会済み
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