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父が遺したもの

 ジェストリア邸の玄関。

 古びた時計の前に、赤毛の青年が佇んでいた。

 時刻は深夜、すでに誰もが寝入っている中、彼は――ラウディスはかちりこちりと動く時計をじっと眺めている。この時計は、ラウディスの両親が、キオの両親に贈ったものだ。

 長男の誕生祝いとして、贈ったものだった。

 ラウディスと、そして兄のギルディアは、両親が共に働いていたため、よくジェストリア夫妻の元に預けられていて、特に妻にはべったりと甘え――させられたりもして。二人共かわいいかわいいと彼女はすぐに抱き寄せてきて、恥ずかしいような嬉しいような気持ちになって。

 あの日、キオが生まれた日も、病院まで付き添って産声を聞いた。

 お兄ちゃんになってね、と言われた時も、頷いた。

 だからラウディスは、兄がいなくなった今も一人で『兄』を続けている。これからも、自分は彼の『兄』なのだろうと思う。けれど、ラウディスは今、自分の立ち位置から逃げたいと。

 キオの『兄』であることを辞めたいと思っていた。

 どうして自分がここにいるのか。なぜギルディアがいないのか。二十数年の間に鳴りを潜めたと思っていた兄への依存が、この歳になってまたぶり返すように強くなってくる。


 ――しかたがないだろう?


 誰かが、苦笑するように言った。

 仕方がない。

 だって見つかってしまった。

 隠していたものが、ついに姿を見せた。誰にも知られないはずだったのに、知られないまま闇から闇へ、忘却から消失へ。跡形もなく消えてしまうはずだった、そのはずだったのに。

 ラウディスは、調べるまでもなく肖像画のことを知っていた。

 誰が描いたのかも、誰を描いたものかも。


 そもそも、あのアトリエを最期に使っていたのが誰かも知っていたし、どうして隠されていたのかも知っていた。全部知っている、この世界で三人ほどしかいない者の一人なのだ。

 残りの一人は兄ギルディアで、もう一人はアトリエ全体を封じた人物。


 彼女が構築した封印は、しかしリン・ウォーテンが外してしまった。どうして彼女が触れた瞬間に消えてしまったのか、魔術の知識がないラウディスには推測すらできない。

 封印を施す時、それが解除された時の備えとして連絡が届くように魔術を構築する場合もあるそうだが、特に連絡が入っていない以上、その可能性は無いだろうと思う。どのみち、あの肖像画を見られてしまったのだから、今更どうにもならないのだろうが。

 まさか、あれが残っているなんて思わなかった。描いたあの人が、きっと処分してくれたのだろうと思っていた、そう、信じて――ただ噤めばいいだけならと口を閉ざしてきたのだ。

 だがそうではなかったのだ。

 すべて、まだ終わってもいなかった。


「俺は、どうすればいい」


 縋るように時計に触れて、膝からラウディスは崩れ落ちた。

 いつまで知らない顔をしていられる?

 どこまで、この重さに一人で耐えていられる?

 いずれすべてが知られてしまう。彼らは愚かではない、すぐに秘密がバレてしまう。ひのあたるところに晒されて、守りたくても守れない、このままでは彼女の『夢』が壊れてしまう。

 どうすればいい、どうすれば。

 たった一人でどう立って、守りたいものを守ればいい。

 やはり吐き出せないものを抱え込んだまま、彼は目を閉じた。



   ■  □  ■



 次の日、朝早くから専門家が屋敷に招かれた。

 もしかすると、名のある芸術家の作品かもしれない。

 ずっと封じられていた場所だ、他にも何か残されている可能性も考慮しての作業である。屋敷の代表者としてミラクとラーナが付き添い、数時間かけて中が調べられた。

 中には使いかけや、未使用の画材の他にもいろいろあり、調査は良い意味で長引いて。


「はいはーい、とりあえずわかったことを報告するわねー」


 夕刻、早めに仕事を終えてきた面々を前に、ミラクが渡された報告書を揺らした。

 食事の準備が整うまでの時間、広いリビングには屋敷の住民がほとんど揃っている。その中で一人だけ、見るからに険しい表情をしているのはラウディスだ。口を固く結び、伏せた視線を床に落としたままである。その様子にミラクは不安を抱きながらも、調査内容を読んだ。

 まず、あのアトリエは屋敷と同時期に建てられたものであること。

 残された画材などから、四十数年前までは使用されていた可能性があること。

「ってことは、やっぱ……」

「私の父があのアトリエを使用していて、封じた、ということだろうな」

 断言するのはキオだ。

 彼が知る父なら、自分の屋敷に謎の場所があればそこを調査するはずである。放ったらかしにしていたのは、彼がそうしたからと考えるべきだろう、と言う。

 もしかするとある程度は、そうだろうと思っていたのかもしれない。

 ひとまず使用時期がわかったところで、報告は例の絵に移る。

「で、例の絵は一応そこに飾ったんだけど」

 ミラクが指差す方には、ソフィアらが昨日見つけたあの肖像画がある。

 リビングの開いたスペースに、元々飾ってあった絵を外して飾ったらしい。柔らかく微笑む女性の肖像画は、これまで飾られていた風景画とはまた違った空気を室内に与えてくる。

「これのね、裏にサインがあったの」

「サイン?」

「我が最愛の妻リズの肖像――ってね」

「わぁ、なんかステキ」

 ミラクの言葉に、うっとりした様子で答えるのはソフィアだ。

 なんかロマンチックー、などと言いながらきゃあきゃあと騒がしくなる。

 お前はちょっと黙ってろ、と隣のヒューゴに口をふさがれたので、以後は静かになるが。

「え、えーっとね、それでね」

 ぺらり、と紙の束をめくりながら、ミラクは周囲を見回して。

「描いた人の名前もあったの。……ハルキ・ジェストリア、って」

 瞬間、沈黙が満ちる。

 ハルキ・ジェストリアとはキオの実父だ。二十年ほど前に亡くなった彼の妻は、しかしこれといった情報が伝えられていない。ミラクらからすると最初からいなかった人でしかなく、キオにとっても同じようなもの。唯一覚えていそうなラウディスは、首を横にふるだけだ。

 これは、知らない、という意味だろう。

「ってことはさ、これがキオの母親で……腹の中身は、お前?」

「訊くな」

「日付はキオの誕生日のちょっと前だったから、そうじゃないかしら」

 きれいな人だったのね、とラーナ。

 だがキオの表情は、なぜか侮蔑の色を強くして。


「綺麗? そうだろうな。そうやって死ぬまで男に縋って生きてきた女だろうからな」


 吐き捨てるような言葉に、誰もが困惑した。ラウディスはとうとう目を閉じて、だが誰もそれに気づかない。キオは足を組むと、これまで誰にも言っていなかったことを語り始めた。

「私の母は、生まれて間もない私を置き去りにした」

 死別でもない離婚でもない、乳飲み子の息子を置き去りに、彼の母は消えた。

「元々、貴族ではなかったらしい。若気の至りで父と結婚するも、不自由な生活に耐え切れなかったのだろうさ。そして私を産み捨てるようにして、そのまま行方しれずだ」

「……それ、それを、誰に聞いた」

「誰だったか忘れたが、大勢からそう言われ続けたさ。よほどアレな女だったのだろう。父が再婚しなかったのは私がいたことと、あの女で受けたショックからだったに違いない」

 だが、とキオは続ける。

「そんな女でも父は愛していたのだろう。今際にそんなことを言っていた」

 だからこそ許せない。

 父を捨て、自分を捨てた母親にならなかった女のことが。

 今までは名前も知らなかった。名前も顔も、何も知らなかった。どういう女なのかは、周囲がこれでもかと教えてくれたので知っていたが、それ以外を知らないので探しようもなくて。

 今からでも見つけて恨みをぶつけようとも思うが、そこまでするヒマもない。

 価値もない。

 立ち上がったキオは、肖像画の前に立つ。

 まだ生まれていない自分を身に宿す、微笑を浮かべた女を見て。


「これが、私の母の『肖像画』というわけか」


 そこに生まれてまもなく死別した母への思いはなく、どすぐらい感情だけがあった。

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