月の微笑
開かずのアトリエが開いた、というニュースは屋敷中に広まった。
元々、謎の建物として有名ではあったのだ。レイガが子供らにしたような怪談話も、そういうところから発生したものであり、その程度の注目は常日頃からあったのだ。
あらあらまぁまぁ、とミラクは驚き、ラーナは隠し切れない好奇心を目に浮かべ、リナはどうしていきなり開いたのかな、と不思議そうに首を傾げ、そしてそこに偶然帰ったエリルは。
「……開かずのアトリエ、って何?」
と、すっとぼけたことを口にした。それよりも持ち帰った本を読みたい、と言い残して立ち去ろうとするその肩を掴み、ソフィアは力任せに前後に揺さぶって。
「開かずのアトリエよ! ほら、向こうにいるアレ!」
右手でそれがある方を指さしながら、叫んだ。
当然、玄関から見えはしない。
だが指さされた方を見て、エリルは少し考えて。
「あぁ……あれ、アトリエだったんだ。物置か何かだと思ってた」
「あんたねぇ……」
がっくり、とソフィアは肩を落とす。
そもそも子供世代で、一番あれに興味を示していたのはこのエリルだった。
子供心には、あれが大きな宝箱にでも見えていたのだろう。
窓を割ってでも入ろうとした時には、当然ながらクリスにたっぷりと時間をかけたお説教を食らっていた。あれに頻繁に巻き込まれていたエルノア辺りは、いい迷惑だっただろう。
しかし、人を散々巻き込んだ張本人が、存在からすっぱり忘れているというのは。
――エルノアは五、六発殴っても許されるんじゃないの、これ。
もっとも、どれだけそそのかしても殴ることはしないだろうとは思うが。エルノアはとても心優しい少女で、文字通り虫も殺そうとしない子だ。あの教会に二人の『聖女』がいる、などと言われることも少なくない。ちなみにエルノアとソフィーヤのことである。
もっぱらその見目からそう呼ばれている感じだが、どちらもその名の似合う少女だ。
「つーか、一番入りたがってたのあんたじゃん」
「……そうなの?」
知らない、とか細い声。
本当に記憶に無いらしい様子に、ため息しかもう出てこない。
どうやったら昔のことを、こうも華麗に忘れられるのだろうか。病気なんじゃないか、という気さえするが、自分もあの頃のことを詳しく覚えているのかと問われると自信が薄れる。
そういうものなのだ、きっと。
「ともかく、開いちゃったのはいいんだけど、なんか知らない人の肖像画があってね」
「肖像画?」
「うん、妊婦さん……だと思うんだけど、問題はそこと違くて」
目の色がね、とソフィア。
説明するのもいいと思ったが、それより実際に見せる方が早いだろう。
いいからこっち、と手を掴んでソフィアは歩く、むしろ走る。ほとんど引きずるように庭に出て、すでに数人の召使が集まっているそのアトリエへと連行した。
彼らに仕事に戻るよう言い聞かせているのは老執事。彼はエリルを見ると一礼し、邪魔になるから早く仕事へ、と召使らに声をかける。さすがに屋敷の持ち主の息子の手前、彼らは明らかに後ろ髪を引かれまくりながらではあったのだが、一人また一人と仕事へ戻っていった。
それをソフィアが眺めている間も、いざアトリエの中に入った後も、エリルは面倒臭そうにしていた。アトリエのことを忘れていたほどだ、興味の欠片もなかったのだろう。
だが未だユーリィとリンが残っている、その肖像画の前に立った瞬間。
「……」
彼は言葉を失った。
■ □ ■
それを見た時、エリルの中に沸き起こったのは焦りだった。
詳細もわからない現状で、焦りと、戸惑いと、それから。
――これは、まずいことになったかもしれないな。
そんな表には出せない直感が、思考の中にぎゅうぎゅうに詰め込まれる。よく、言葉を失うだけですんだものだと、廊下を進みながら彼は自らを褒めた。何も言えない程度なら、描かれた女性の目の色に驚いただけ、ときっと彼女達はみてくれるだろう。それでいい、今は。
ひとまず荷物をおいてくると理由をつけて、エリルは自室に戻った。
鍵をかけられる机の引き出しから、一本の銀の鎖を取り出す。
輪になったそれは太く、あちこちに細い鎖などを使って魔石がぶら下げられたものだ。その形状からわかるように、本来は身に付けるのではなく地面に広げて使うもので、しかも魔石の数からしてかなりの技術が必要とされる。基本的に、術者に合わせた特注品である。
それを広げるのではなく、付けられた魔石――当然補助端末として加工されているものの一つに触れて、すぐに例の文字でやりとりする魔術を起動する。他愛のない雑談を繰り返しているのはクライン姉妹とオウギ。彼らは今、魔界にいるはずだったが用事があるのは。
『グレイ、今すぐ家に帰ってきて』
時々会話に入っている、グレイだけだった。
かたかた、と文字を入力すれば、すぐに返事が来る。
どうかしたの、という簡潔な返答だ。
それに返事をする、その外野で。
『え、何? 何かあったわけ? あたしが帰るまで置いといてよちょっと』
『膝の上で暴れないでくれないか、ルミ』
『今ね、ボク、シャドウとデート中なんだけどちょっと気になるなぁ』
『あんたはデートという名の魔物狩りしなさい』
『はーい』
と、いつも通りのやりとりが見えるが、それは無視だ。
『開かずのアトリエ、とかいうのが開いたらしいんだけど』
『それだけで連絡?』
『いや、肖像画が出て、なんか、黄金月の人っぽい』
『すぐ帰る』
それを最後に、グレイは魔術を切ったようだ。
エリルもすぐに魔術を切り、端末をつけた鎖を片付ける。鍵をかけた上に、魔術を使って二重三重に施錠した。かけながらふと、アトリエに入った時の『残滓』のことを思う。
ソフィアやユーリィ、リンすらも気づいていなかったかすかなそれは、あのアトリエに今自分がしたものと同じ『魔術を用いた施錠』が施されていた名残りだ。だから鍵が見つかったとしてもおそらく開くことはできなかっただろう。物理的な鍵など見せかけだけで、実際の鍵は魔術の方だからだ。これは簡略化されてはいるが、一種の封印に近いとエリルは思っている。
そうして誰かが隠していたものが、今日、ついに解き放たれたわけだ。
わけ、なのだが。
「あれは……女皇帝じゃないし、じゃあ誰だ?」
小さくこぼれた疑問に、答えてくれる人はいなかった。
■ □ ■
夕刻、屋敷の面々が一同に揃っての夕食の時間。
仕事中にアトリエの話を聞いたらしい大人組――キオやシュリツ、シルフは当然のようにアトリエのことを話題に出した。開いたというだけでも騒動なのに、ましてや見つかったものが普通ではなかったのだ。話題にしない訳にはいかないし、誰もが興味を示している。
ひとまず、件の女性とジェストリア家の関係、というのが今の議題だ。
ジェストリア家は基本的に紫色、つまり標準的な魔族の証拠である目の色をしている。魔族と多く関わってきた人間界において、紫色の瞳というものは特異なものではない。
だが肖像画のあれは、魔界の王族にも連なる色だ。
そんなところとの接点が、どこにあったのか。
「元々、あの瞳ってなかなか出てこない血統なんだってさ、特に両目だとね」
「そうなのか?」
「うん。基本的にはオッドアイとして出てくるね。女皇帝の先代――実母じゃなくてただの親類らしいんだけど、その人もオッドアイだったそうだよ。よくわからないんだけど、血筋としてはだいぶ薄れてしまっているらしい。全体的な一族の人数も減っているそうだし」
金色の瞳を持つ一族、その歴史は結構古い。
昔、魔族を収めていた王族の、その末裔に当たるのだという。
それが巡り巡って今も君主を務めているというのは、何とも不思議なものだろう。魔族は基本的に実力社会で、だから特別な血筋にはそれなりの力が備わっているだけかもしれないが。
ちなみに現在両目ともが金色であるのは、女皇帝とその娘だけだ。
そして娘というのがまだ婚約者もいない身で、当然妊娠などしてもいないことから、女皇帝本人である可能性が高い。……だが、それなそれで接点がなく、結論には至らないのだが。
アトリエそのものがいつから使われていないのか、この屋敷の前の持ち主は誰か、など調べるのは時間が掛かりそうなので保留された。絵についての調査も、明日専門家を呼ぶ予定だ。
結局、現状では何もわからないということになる。
「あれがあのアトリエにある理由も、誰を描いたものかも不明ってわけか……」
「そうだね。彼女が女皇帝じゃないとも断定できないし。ああいうタイプって、家族や旦那さんの前ではもうどうしようもないくらいデレデレってこと、結構あると思うんだよね」
と言いつつキオを見るシルフ。
キオは、何が言いたい、と目を細めるだけだ。
子供が生まれる前の、正確には生まれる数日前からクリスが見せていた、でれっでれの甘々な態度を思い出し、大人組に苦笑が浮かぶ。なお、普段のクリスというその人は、口より先に拳が飛び、それより早く蹴りを入れてくるような何とも過激な女性である。
かつてキオが文官見習いだった頃、上司が彼と自分の娘と結婚させようとした時に、それをすべてぶち壊して逆プロポーズしたあの騒動が懐かしい。当時は二人とも十五歳である。
しみじみと過去のことを思い出す中、一人席を立った人物がいた。
食事もそこそこに去っていく彼――ラウディスを、妻のミラクが呼び止める。
「ラウディス、もういいの?」
「あぁ、今日は少し疲れたからな」
「そう……」
「先に寝ている」
おやすみ、と言い残して彼が去り、僅かな沈黙を挟んで。
「それで」
と、グレイが口を開いた。
その目が父の方を向き。
「で、あの肖像画はどうするの? 売る? 捨てる?」
「……いや、誰が書いたものか、持ち主が誰かもわからない現状、うかつに手放すのは褒められたことではないだろう。ましてや女皇帝の可能性も捨てきれないのだからな、保留だ」
「ふぅん」
なるほどね、と意味深な言葉を発し、グレイは食事を続ける。
だがそれを問う者はなかった。




