開かずの扉の秘密
レイガがジェストリア邸に伝わる『怪談』を聞いたのは、屋敷に来て数日後だった。親睦会を兼ねて年の若い召使らを中心に、少し集まっていろいろと談笑の花を咲かせていた時。
一人の少年が、こんな話があるんだ、と口にしたのが始まりだった。
ジェストリア邸には、かつての主がアトリエとして使っていた、とだけ伝えられている離れが一つある。母屋のすぐ横の、庭がよく見える一軒家のような佇まいの建物だ。玄関側からは見えないそれは、確かにアトリエだったのだろうなと思わせる。なぜなら今はカーテンに覆われているがかなり大きな窓があり、そこからは丁寧に手入れされている裏庭が一望できる。
昔から草花を植えていたそうなので、きっとそれを見て描いていたのだろう。
そう言われる、通称を『開かずのアトリエ』。
少なくともキオら大人世代が、子供の頃からずっと閉じられたままだと言う。
扉を開くための鍵は未だに見つからず、しかし別に使う予定もないためにほったらかしのそこは、実は夜毎『出る』らしいのだ。何が出る、と尋ねるまでもない、出るというのは。
「――血肉に飢えたぁ、おぉーばぁーけーぇ」
無理して作ったような低い声で、ずずいっと周囲に迫るレイガ。顔の高さまで上げた手と指をぐにゃりぐにゃりと動かしながらの行動は、端から見ているソフィアも仰け反るものだ。
しかし、迫られるのは教会で暮らしている子供達。
多種多様な理由で親を失い、ここで成人するか引き取られるかするまで暮らしていく予定の孤児達である。ティエラ王国では、基本的に十五歳になれば大人とみなされる。貴族の子らが社交界にデビューするのもこれくらいの年代で、天界や魔界も同じようなものだという。
ここの孤児達の最年長が十六歳のエルノアで、だが彼女はこのまま教会で手伝いをしながら暮らしていくそうだ。彼女より下は、ほとんど十歳前後の文字通りに子供ばかり。
よって、レイガが披露する過剰な演出も、彼らにとってはご褒美で。
「それでそれでそれでっ、どうなるのっ」
「怖いのが来るっすよー? 悪い子を……ぎゃぶりっ、と頭からぁ」
「きゃー!」
「悪い子はいねーがー? 悪い子は食っちまうどぉ……」
子供達を前に、身振り手振りで怖がらせるレイガ。
そんな彼女を少し離れたところから、ソフィアとユーリィ、ソフィーヤにエルノア、そしてリンが眺めている。ソフィーヤが入れたお茶に、手作りの菓子をつまみながら雑談中だ。
がおーがおー、と子供らに威嚇――のようなものを始めたレイガを見て。
「……彼女は、子供の扱いが上手ですね」
「まぁ、屋敷のお掃除手伝いするか、ここで子供の相手するかしかレイガすることない暇人ちゃんだからね。一応、見聞を広めるためにきてるわけだし、間違ってはない、と思うけど」
苦笑交じりに言いながら、ソフィアは口に菓子を放り込む。さふさふ、と軽い音と共に噛み砕かれていくそれは、仄かにバニラの香りがする甘さ控えめのシンプルな焼き菓子だ。
大きさも一口サイズより少し小さく、子供でも食べやすくなっている。
焼き菓子はいくつか種類があった。
ナッツを砕いたものを混ぜたものや、何も混ざっていないもの。形も丸いのや星形や剣の形をしたものまで。お菓子作り担当のエルノアは、安い時に材料をまとめ買いするから、いろいろ作っちゃうのと笑う。孤児院の子供の数は十数人。少女らには多く思えるこの量でも、彼らにかかれば一日ですべて食べつくされてしまうのだという。おそろしい胃袋だ。
「なかなか支援も来なくて、これくらいしか楽しみもないの……」
目を伏せるようにしながらつぶやかれる声。
一時の支援では、あまり意味が無いのが現状だ。その一瞬を救えても、孤児は次から次へと教会に流れ着いてくる。常に、一定の支援――特に資金の援助が必要なのだという。
そういうのは国が、とリンは思ったが、そうもいかないのが現状なのだろう。まるっきり人事のようだが、天界にだって孤児はいるし彼らへの支援は足りない。貴族の一部が見栄のために気まぐれに大金を振り込むことはあっても、そんなものは一瞬で消えていく。
貯蓄、ということは難しい。
その大金がやってくる頃にはあちこちボロけていて、どうにかだましだましやってきているような状態であることが多くて、そして大金はそれを繕うだけで終わるからだ。
――ないよりは、マシなのでしょうが。
何とかならないかと思う。何とかしてあげたいとも思う。だけど自国さえどうにもできていないというのに、他国のことにどれだけ気を使えるのだろうか。この日、こう思ったこともいつまで覚えていられるのだろう。リンの寿命は長寿、あと数百年は生きられるだろう。
例えばユーリィの母のように寿命を『切り替える』ことをすれば、彼女らと同じように老いて死ぬことも叶うだろうが、切り替えるという行為はたった一度だけできること。
長いものを短くする以外に何もならない、一方通行のようなもの。
そして、自分にはやるべきことと背負うべき物があり、彼女らと同じ時間を生きていくことは叶わないのだから――いっそ、忘れてしまった方が、いいのだろうと思ってしまう。
そこが、自分でもまだ甘いとリンは感じていた。
「……あの、それで」
と、リンは意識して話題を変える。
「その開かずの扉は、いつから開かなくなってしまったのでしょう……」
「わかんない。でもうちのお父さんが知らないって言ってるから、結構前からなんじゃないかなぁ……五十年とか、それより前。グレイのおじいさんとかおばあさんが生きてたら、話も聞けたんだろうけど、どっちもあたし達が生まれるよりずっと前に死んじゃったっぽいし」
そう思うと結構前だよねー、とソフィア。
「……っていうか、あたし達っておじいさんおばあさんいないのよね、みんな」
例えばカルティール姉弟は、親をなくしている。シルフやリナも同じようなもので、ラウディスもキオも親なしだ。全員が成人し、独り立ちするのを待っていたかのように亡くなったという。かろうじてソフィアの兄カイは生まれていた頃合いだったが、覚えていないそうだ。
「寂しいってことはなかったけど、ね。ほら、執事のおじーちゃんとかいるし、ただ」
「ただ?」
「昔の話を聞けないっていうのは、ちょっとさみしいよね」
そう言って、苦笑気味に笑うソフィアに、リンは、そうですね、と答えた。
■ □ ■
昼前に屋敷に戻ったリンは、その足で例のアトリエの方に向かった。
思えば、統一された外観を持つ中で、同じ系統ではあるが微妙に違うこの建物が何となく気になっていたのだ。倉庫にしては立派な佇まいで、しかし放置されているために。
ソフィアは慌てて追いかける。
開かずのアトリエだの何だのといったが、どうも大人はここに近寄ってほしくなさそうな感じがするのだ。特にラウディス――父ほど顕著で、極力建物を目に入れないようにしている。
だからソフィアは、子供心に『なにかあそこで嫌なことでもあったんだろうな、だから鍵をかけて誰も入れないようにしてあるんだな』と、ずっと思っていた。きっとそれは大体あっていることだろうから、リンにもできればその複雑な空気を知ってほしいと思う。
父が、ラウディス・ベルフェームが、ああも露骨に何かを『怖がる』ことはとてもめずらしいを通り越して、無いと言い切っていいと娘として思う。あの人に、騎士団長を務めてきたあの父に恐れなどないはずなのに。なぜか、あのアトリエだけが別物のような感じがして。
ユーリィの、まって、という声も振り返らず走って。
だけどすでに彼女は扉の前で、アトリエを見上げて立っていた。
「ここが例の開かずの間、いえ開かずのアトリエ、ですか」
「あぁ、うん、まぁ、そうだねー」
息を整えつつソフィアは答え、その隣から改めてアトリエを見上げた。
そのアトリエは手入れをしていないのでつる草などが壁の下の方を覆い尽くし、白い石を積み上げるような外観に彩りを添えている。薄紅の花をつける品種で、見たことはこれまでに数回しか無いのだが満開ともなると、とても美しい情景がそこに広がるようになった。
周囲も季節によって花で覆われているし、まさにアトリエだったのだろう。
「ここだけなんか、リフォームとかしてなくて、元々のお屋敷の雰囲気のままなんだって。ほら母屋とか結構手を入れてあるでしょ? 壁紙とかも変えたし、外壁なんかも」
と、追い付いてきたユーリィが説明を入れる。
特に何も残っていないから伝聞でしか無いのだが、元々この屋敷とこのアトリエはセットで作ったものだったらしい。そう言われるとわかる程度には、今も母屋には面影がある。
とはいえ、だいぶ作り変えられているのは。
「――だいたい、あたしとお兄ちゃんのせいだけどね」
あとエリル、と付け足すソフィア。
あれはまだ剣術を覚え、魔術のようなものに手を付けだした頃だったか。
まったく魔術が使えない自分に怒ったエリルが、グレイがシルフから譲ってもらった魔石を強奪して暴発。屋敷の至る所に、何とも言えないよくわからないものが撒き散らされたのだ。
そうでなくてもヒューゴとソフィアという双子を中心に、普段からやりたい放題だった子供世代の面々はこってりと叱られ、二年ほどにもなった魔界への留学から戻ったらご覧の有様。
元々、このアトリエと乖離していた母屋は、すっかり別物になっていたのである。
――でもさ、あれってグレイがエリルを珍しくからかったのが悪くない?
魔術が使えないエリィもかわいいよ、よしよし、なんて頭をなでたから、ソフィアやヒューゴすら使えたことにむっとしていたエリルが怒ってしまったのだ。やっぱりグレイが悪い。
しかしまぁ、時効だ。
今から、あれこれどうこういっても仕方がない。
「ずいぶんとおしゃれな佇まいですね、天界のそれに似ているような……」
とくにこのドアノブ、とリンの白くて細い、羨ましくなるほど繊細そうな指先が、そういえばやたら装飾が施されて凝った作りのドアノブに触れた。そう、軽く指先が触れただけだ。
ぱちん、と音。
そして扉から光がほとばしる。
謎の文様が、扉全体に浮かんでいくのが見えた気がする。
眩しい、とソフィアは目を細めた。完全に閉じなかったのは、何が起きているのか見ておきたいと思ったからだ。何が起きるかわからないから、それに備えたかったというのもある。
だが――あのドアノブはこれまで、自分や兄が何をしても、何もなかったのだ。触れたり蹴ったりいろいろやった。鍵穴にヘアピンを突っ込んだりしたこともある。当然開くことはなかったわけだが、こんな光があふれるなんていうことだって、当然ありえなかったことだ。
なにこれ、と問う前に光は収まる。
きぃ、とかすかな軋みを伴い、扉がゆっくりと開いていた。
リンは手を伸ばした体勢のまま固まっていて、その場には無言と無音が満ちる。ん、と息を吸い込んだソフィアは、リンの横を通ってアトリエの中に入った。ぎゅう、と腕にしがみついてくるのはユーリィ。硬直していたリンは、しかし同じように中へと歩みを進めていた。
「思ったより変な匂いしないね……」
「う、うん」
びくびくしながら奥に進む三人。アトリエは、確かにそのための場所なのだろう、といった感じだった。例えば壁に建て替えられているのは白いキャンバス。そして絵の具か何かを入れていたらしい謎の缶。絵の具かと思ったのは、それが色別に何種類もラベルがあるからだ。
しかし、少なくともソフィアとユーリィには、絵心というものはない。
書いたことがないので、もしかしたら違うものかもしれないが。
まるでお祭りにつきものの怖い出し物の中にいるかのように、三人は寄り添うようにくっついたままアトリエの奥へと進む。長いようで短いかもしれない廊下の突き当り、半開きになったままの扉をゆっくりと押し開いて――三人は、ソフィアは、『それ』を目にした。
壁にかけられたままの、大きな肖像画。
黒い髪の、腹部が膨らんだ――おそらくは妊婦の、もうすぐ子が生まれそうな女性の、慈愛に満ちた微笑みを切り取ったかのような絵。優しい表情に、ソフィアはしばらく息を呑み。
「……この人、誰よ」
微かに震えを帯びた声で、誰に言うでもなくつぶやいた。




