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零番目の慟哭

 弱いことは罪だ。

 それ以上に、強いつもりで弱いことは害悪だ。


 あれほど自分の力に自信があって、誰よりも強いと自負して。

 だけど僕のこの手はいつだって間に合わない。


 気づいた時にはもう、大事なモノは、みんなこの腕から消え去っている。

 弟を抱きしめるだけのこの腕。ひ弱で非力な僕の腕は、僕達を抱きしめている母親に伸ばすことさえできない。腰には自分の武器がある。それに手を伸ばすこともできず、動かず。

 視界にはちゃんと入っている。現状を理解している。早くこの武器で母親の背中に突き刺さるひも状の肉を切り捨て、しかるべき機関で治療してもらわないと『壊れる』ことだって。


 嫌になるくらいに、僕は、知っているはずだった。



   ■  □  ■



 真新しい墓がある。

 色とりどり、たくさんの花が手向けられた墓だ。その数から、故人がどれだけ多くの人々に愛されていたのか、そしてその早すぎた死を悔やまれ、悼まれているのかが伝わる。


 ――愛し子のために生きた者、ここに眠る。


 そんな文章が捧げられた墓の前、佇んだ黒い影があった。

 その影に向かうように、雨が降っている。

 静かに、雨が。

 雨粒が墓を濡らしていくのを、彼はただじっと見ている。表情はない、感情もない。そういうオブジェクトであるかのように少年は、その場所に静かに立ち尽くしている。

 いつからそうしていたのだろう。

 いつまで、そうしているつもりなのだろう。

 白い髪を灰色に濡らし、黒い喪服を闇色に変えた雨の中、少年は動かない。そして、誰かが迎えに来ることもなかった。彼がこうしていることを、きっと彼の家族は知っているのに。

 愛情だ。

 今は一人にしておこう、という愛。

 まるで優しさで包み込んでズタズタに引き裂くような、それはある種の拷問具と言える。

 そうとわかっていて自分で飛び込み傷つく行く彼を、傍らの彼女が見ていた。


「僕が殺した」


 誰に言うでもない声が、漏れる。

 雨を受け止めるように腕がわずかにあがり、そして手のひらが空を睨む。

「殺した、僕がだ。この僕が殺した。死なせた、守れなかった。力があったのに、身体がちゃんとあったのに、あったのに。僕はあの人を守れなかった、僕には守れるはずだったのに!」

 畳み掛ける声は呪詛だと思った。

 自分に向けた、自分で紡ぐ怨嗟の声だ、と。

「あなたは――」

 と、彼女は続ける。

 黒い髪を濡らしている、彼女は言う。

「あなたは彼女を守ったのだわ。だから彼女はすべて壊されなかった。わずかでも名残りが残った。――あなたが、何を言おうとも、彼女をあなたは救った。それは間違いないのだわ」

「ふざけるな」

 振り返った彼は、笑っている。

 口元を歪め、目元を歪め、笑っている。


「何を救った誰を救ったどうやって救った! この腕は何もなさなかった! まただ! 僕は何度っ、何度『無様に守られて』いなければならない! これだけの力が――」


 ありながら、と、その腕が振るわれる。彼女のすぐとなりで異形のバケモノが爆ぜ、拗じられながら空へと舞い上がる。ぐるぐるに巻き付いた鎖が、締め上げ、すり潰し、消していく。

 いつの間にとは、彼女は思わなかった。

 すぐ横にいるのは、気づいていた。姿を消していたが、それくらいわかっていた。

 にも関わらず放置していたのは、所詮はその程度だからだ。

 狙ってくれば始末する程度の、そうでないなら放置できる程度の。

 そこらの小石ぐらいでしかない、ただのザコだからだ。

 もっとも、それに対してそんな感想を抱くのは彼と彼女だけだろうが。

 この世界の多くの人が、いや大多数が彼女に『その程度』と笑われるようなザコを相手に命を簡単に奪われ、それどころか肉の内側に潜む魂の奥の奥にある、核すら侵され壊される。

 たやすく倒せるだけの力を持つものは、そう多くはない。

 その力を持っても、それらをザコと呼ぶものはあまりにも少なかった。


「ほら、僕にはまだ『力』があるんだ……」


 嗤う彼は、叫ぶ。

 みるがいい、ほらみるがいい!

 これだけの力があって、結局この手は何もなさない!

 こんなところで使う力があっても、何の意味もなかった! たった一人を、いつだって守れないのだから、意味が無いのだ! ここに生きていることの意味すらも、なかった!

「僕にもはや価値はない」

 息を吸う価値も、名を名乗る価値も、生きる価値さえもない。

 それでも息を吸い、名を名乗り、生きているのは他者のために。

 自分のためにこの世を生きていくことを、彼は放棄した。


「この身は余すところなく道具、生き物ではない。最初からそうだった。僕は愚かだ。傀儡のくせに死者のくせに、生きていたいなどと望んだから失った、奪われた――いや、奪った」


 だからこそ、この身は余すところなく『使いきらねば』いけないのだと。この世界でたった一人にしか言えない慟哭は、雨音の中に溶けて消えていく。肩を揺らして笑う彼を、誰一人として見ることはなかった。この場に居合わせた、その『魔女』を除いては、一人として。

 慟哭と笑みを混ぜるその姿を見て、黒衣をまとう魔女は――らしい、と思った。


 あぁ、そこにいるのはまさに『彼』であると。

 魔女は思い、ただ静かに、しずくを落とす月の如き瞳を伏せた。



   ■  □  ■



 街から離れた高台に、彼女が眠る墓地はある。

 よく晴れた空の下、風に服をなびかせながら歩いた。海風は冷たく、だが日差しのおかげかちょうどいい感じに思えた。故人の好みに合わせたのだろうシンプルな装飾を施されたその墓石の前には、半分枯れかけた花がいくつも添えられている。これは、きっと『弟』だろう。

 その傍らに、持ってきた花束をそっと並べた。

 彼女が好んでいた、母を称える花を。


「……母さん」


 さぁ、と風が吹く。

 母にも、そして父にも似なかった銀色の髪が、踊るように舞い上がった。そして誰にもになかった青い瞳を細めて、生前の彼女を思う。少しくせのある黒髪の、緑の瞳をしていた人を。

 彼女は、クリス・カルティール・ジェストリアは、この国でも名を残す女性騎士。結婚を期に引退してしまったが、剣の腕は衰えたことはなかったはずだ。そんな彼女が我が子を守って死んだのは、今から二年ほど前になる。もう、二年も経ってしまったのだと、彼は思う。

 数日降り続いた雨が、止みかけた夜中すぎのこと。

 その日、彼女は二人の息子を叩き起こして、こういった。


『魔界に行くわよ』


 そして着の身着のまま、武器を背負い子供らの手を引いたのだ。しかし彼女は魔界へ飛ぶことができる専用の施設の手前で、『それ』に追いつかれて絶命することになる。今も並ぶ女性騎士はいないとされるその実力を持ってしても、勝てない『バケモノ』に襲われたのだ。

 彼女は、子供達に件の施設へ走るように叫んで剣を抜く。

 長男は弟の手を引き、必死に言われた通りに走った。

 あれは普通の魔物の類ではないと、子供でもわかっていたからだ。

 施設に飛び込めば、あとは魔界に向かうだけ。警護に付いている兵士なら、もしかしたら母を助けてくれるかもしれない。そんな祈りだけで足を進めた、自分の無力を嘆きながら。

 だがここで、一つの誤算があった。

 そのバケモノの狙いが、クリスの子供らだったことだ。

 当然逃げた二人をバケモノは追いかける。子供の足はたかが知れている。そして追いつかれた弟が転び、兄は弟を抱きかかえて。震えるように、自分達を殺そうとするそれを睨んだ。

 クリスはそんな両者の間に飛び込んで、子供達を抱きかかえる。


 あとは――語るまでもない。

 名を残す騎士は、我が子を守って死んだ。たったそれだけのこと。


 彼女の死は二人の子供の人生を、わずかに狂わせた。引っ込み思案でおとなしかった弟は立派な父親の後継者で、昔の姿からは想像もできないほど自信に溢れた少年へと成長し。

 頭がよく天才少年と呼ばれていた兄は、見る影もなく落ちぶれた。婚約者も父の後継者という立場もすべて弟に譲り――いや押し付けて、一人でふらりふらりと遊び歩く毎日だ。仕事などしていない彼は丈の長い上着を適当に着崩して、命日より少し遅れて母を参る体たらく。

 元々家族の誰とも容姿が合わなかったこともあり、今ではどこかで拾われた子だの、悪いものに祟られているだの呪われているだの、好き勝手に言われている。まぁそれは無理もないことだろう。彼の父も母も、弟もみんな黒髪だ。母の姉妹もそう。そんな中で銀髪をもって生まれたのだから、そんな陰口の一つはあっても仕方がない。瞳の色すら誰とも違うのだ。

 だが、それでいいのだと彼は笑う。

 それで構わないのだと、一人で愚か者を演じている。落ちぶれた天才少年、家名を汚すどうしようもないバカ息子。あぁ、それで構わないのだ。自分など『その程度』で構わない。

 そんな――ティエラ王国宰相の長男、グレイ・ジェストリアは。


「母さん、僕は、あなたの願いを守れない」


 泣きそうな笑みを浮かべて、母の墓前に語りかけていた。

 弟が知らない母の最後を、グレイは覚えている。バケモノが突き刺すように勢い良く伸ばしてきた肉の紐に、為す術無く貫かれていく彼女の姿をはっきりと覚えている。

 血を吐きながら子供を抱いて、グレイの目を見て囁き、笑ったのが最期だった。

 誰にも言えない、母の最期をグレイは抱いている。母がどうして夜中に、魔界に行くと言い出した理由も、知っているけれど口にしない。しても意味は無いし、理解もされないだろう。

 理解もされず、ただ巻き込むばかりの真実など知らずともいい。

 だからこそこれから先も、一人で。

 たった一人で道化を演じながら、すべてを背負うことにしたのだ。

 彼女の言葉の意味を彼は、きっと誰よりもわかっている。お前は幸せになれと、幸せになることに貪欲になれと、彼女は息子にそう言いたかったのだろう。祈るように告げたのだろう。

 わかっていた、わかっている。

 それでも、とグレイは続け。


「僕はやっぱり、この願いを捨てきれない」


 今の自分には途方も無いことだったとしても、無謀でしかないとしても、それでも諦めることはできなかった。この手ですべての幕を下ろすことが、最後に残った定めのはずで。諦めることも捨てることも忘れることもできなかった、あの悲願に手を伸ばすわがままをどうか。

 どうか、許してほしいと、色のくすんだ墓石に願う。

 そこに眠っている、ということになっている最愛の人。


 彼女はもう、この世界のどこにもいない。

 肉体は土に還り、そして魂すら消えてしまった。


 そうなるとわかっていたのに何もできなかったこの身体は、それでも彼女が育み産み落としてくれた宝物で。だからこそ自分はできることを、しなければならないのだと。

 それが、何にも勝るあなたへの手向けになるだろう、と。

 グレイの中で、それは確固たるものだった。

 それを超える恩返しなどない。

 この悲願の先にあるのは、彼女が愛した『家族』の幸福なのだから。ただ、その場所に彼がいる可能性が低く、その場所に自身が至ることを考えていないことだけを彼女は嘆くだろう。

 そんな『手向け』などいらないと。

 それは違うとあなたは、きっと叱りつけるように言うと思うけれど。


「僕はそれしか知らないんです、母さん」


 自分自身を使い潰していく以外のやり方をどうして、どうしてあなたは、僕に教えてくれなかったのですか。どうして最後に、僕のやり方を肯定するような最後を晒したのですか。

 だけど、とグレイの顔にうっすらと笑みが浮かび。

 そんなあなただったからこそ、と泣き。



「僕はあなたを、僕の母となったあなたを――心から愛した」

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