剣を抜いて
どこを間違えたかというと、すべてだと思う。
何もかも、間違えてしまっていた。
楽しかった、楽しいとニカは本当は思っていた。こんな出会いでなければと、自分の中に偽りがなければと思うほど。真実など、出会いのあの瞬間だけだ。本当のことはアレだけだ。
あの時の予定では、それとなく声をかけて知り合うつもりだった。あの兄弟にボコボコにされたというひったくり犯には感謝している。お陰でスムーズに知り合うことができたから。
だけどボコられて当然だとも思う。
スムーズに出会いすぎて、一気に間合いが狭まって、ニカは逃げられなくなった。逃げたいのに逃げられない。引きずり込まれた彼の世界で、彼女は息ができなくてもがいていた。
――なのに、それでも一緒がいい、なんて。
光り輝くその少年を見ているのはとても心地よいものだった。自分にはないものを持っている彼の姿は、とても心を満たしてくれる。それでいて気遣いが上手で優しい、普段、ニカのそばにはほとんどいないタイプだった。あまり着るのが好きではなかったドレスへの抵抗感もだいぶ薄れてしまったし、屋敷の者が嘆くほど興味がなかった着飾るという行為も始めた。
彼を陥れるために近づいた分際でも、もし言うことが許されるなら。
好ましい、と、思っていた。
慣れない手つきで化粧などをしたり、乏しいセンスでその日の格好を選んだり。年頃の女性がするべきことを、しかし騎士というものを建前に見向きもしなかったことをするほどに。
『お嬢様も、恋をなさったのですねぇ』
そう言って笑った老執事と、彼の奥方。ほとんど親代わりだった夫婦の笑みに、ニカは引きつった笑みを返すしかできなかった。フィメリ家の命令で近づいた、陥れるために近づいた相手にもしも『恋』をしたなら、それはどんな身分違いや道ならぬ関係よりも罪深い恋だ。
許されない。
もしも自分の身内が彼で、自分のような企みを抱えた女が近づいて、そしてあまつさえ恋をしましたなど言い出そうものなら、騎士としての誓いも投げ捨てて相手を切り捨てるだろう。
自分が想像の中でそう思えるのだから、現実はもっと苛烈だ。
許されないし許せない。
だからその日、ニカは着飾ることをやめた。ドレスを投げ捨てアクセサリーを無視し、着慣れた騎士の衣服に身を包み、腰に剣を携えて彼との待ち合わせ場所に向かったのだ。
「ニカ、さん?」
その格好は、と。
初めて騎士の姿をしている彼女を見た彼は、とても驚いた顔をしていた。
騎士であることは、きっと家族から聞いていると思う。階級が同じで年齢も違いので、ヒューゴの兄とはそれなりに話をする関係だ。彼――カイから先日、手のかかる弟だけどよろしくと言われたのもこの決断を下すに至る、その一因であることは間違いないだろう。
だから、言う。
「もう、会わない方がよいでしょう」
「え?」
「私とあなたでは、生きる世界が違ったのです。私は騎士で、あなたは」
あなたは、そんな自分よりもずっと騎士にふさわしい人だから。
自分から背負ったものを汚した自分と、一緒にいてはいけない人だから。
すべてを壊す一撃を、一言を。我が身を引き裂かんばかりの激痛を覚悟して。
「英雄殺し、ですから」
「……っ」
言ってはいけない言葉を告げて、彼との縁を叩き切る。
幼さが残る目が、悲しげに歪むのが見えていた。
見ないようにするかのように、ニカは目を閉じて視界を消す。
「そのような人といれば、私の出世に差し障ります。私は騎士です。レウラディーネの後継者でもあるのです。そんな私にはあなたなんかと、一緒にいる理由などありません。助けていただいたお礼はしっかり返しましたし、金輪際、あなたと二度と会うことはないでしょうね」
さよなら、と。
最後まで声をちゃんと綴れただろうか。
確認はできない。
背を向けて、胸を張って背筋を伸ばし、騎士らしい姿で去るしか無い。
そもそも今更、彼に何を言えばいいというのか。これまでいろいろと隠して騙していたことを詫びればいいのか、それともフィメリ家には気をつけるようにと助言でも告げるのか。
だが前者はただの自己満足で、後者に関してはおそらく心配するまでもない。
あの一族は、直接手を出すことをしないからだ。そして唯一意のままに使えるニカが失敗してしまった以上は、当分は何もできない。何よりヒューゴは他国の住民で、しかも親類に宰相がいる。よほどのことがない限りは、フィメリ家との縁は二度と生まれはしないだろう。
自分さえ関わらなければ、このまま彼は平穏に生きていける。
だけど。
「……もう、騎士であることはできない、かな」
小さくつぶやくニカ。
こんな自分に、誰かの上に立つ存在である資格なんてないだろう。騎士家系が何だ、その名を貶めたのは自分じゃないか。こんな状態で今のままでいても、父はきっと喜ばないはずだ。
騎士をやめて、それから何をするかは考えていない。関係ないフィメリ家からは偉そうにあれこれ言われるのはわかっているし、それ以外には心配をかけてしまうのだろうとは思う。
だが、もう無理だ、と思ってしまったから。
まずはこのまま城に向かい、それとなく先輩の女性騎士に相談しよう。
それからでも遅くない。
ただ、それでも逃げられないのは縁談だ。元からそれらしい話は祖母にされていた。かわいいかわいい孫息子のために、レウラディーネ家をくれてやれという主旨の話を、合うたびに。
要するにエヴィルと結婚しろという話で、だがずっと断ってきたが。
「……それも、難しいかな」
利害は一致するのだ。ニカは夫が欲しい、エヴィル――というよりフィメリ家は、かわいい次男坊に似合う家柄を与えてやりたい。そういう意味で、とても理に適っているのだ。
従兄弟では少し近すぎる、というのはどうでもいいらしい。
そして、ニカにとってももうどうでもいいことだった。汚れたもの同士、むしろお似合いだろうと自嘲の笑みが浮かぶ。扱いさえ間違えなければ、エヴィルは悪い人間ではない。見ず知らずの誰かを押し付けられるよりは、それよりはきっと、少しはマシだと言えるだろう。
自暴自棄だという自覚はある。
でも、これ以上の最善がニカには見つけられなかった。
■ □ ■
城に向かう前に、二人でよく歩いた中央の広場に足を運ぶ。
少し遠回りになるが、わずかに滲んだ涙を拭う時間が欲しかったからだ。だが、広場についた彼女は、涙を拭うのとは違う意味で目元をこする。噴水のそば、何かが見えた気がした。
それは絵本にあるような『バケモノ』のようで、だが魔物と呼ばれるだろう姿。しかし広場には人が多く歩いていて、もしそんなものがいれば大騒ぎになっていたに違いない。
疲れているのだろう、きっと。
だが拭ったはずのこの視界は――はっきりと、ずんぐりとしたその姿を捉えていた。なぜ誰も気づかないのだろうと、ニカは武器に手を伸ばすことも忘れ、ただ唖然とその姿を見た。
キ――と、どこからか誰かの悲鳴が上がる。
女性らしい高い声は直後、急に身体を震わせた魔物の、まるで空気を揺らすような方向に掻き消えた。ニカがそれに気づいた前後に、周囲もまた気づいたかのような連鎖反応。
いるはずのない場所に、いてはいけないものがいる。
それが引き起こす大混乱は、弱いものを振り払ってしまうものだ。
初めて見た魔物、それも大型の前で、武器を抜くことすらできないニカの目の前、五歳かそこらの幼い子供が一人、親とはぐれてしまったのか座り込んで泣いていた。短い衣服から除く膝にはうっすらと血が滲んでいて、どうやら転んでそのまま置いて行かれてしまったようだ。
「だ、大丈夫?」
ニカが駆け寄って抱き起こすも、子供はおかあさんおかあさんと泣きじゃくるばかり。
膝の痛みもあってか、これでは自力で立って歩くということは難しそうだ。自分が抱えていくしか無いかと、その小さな身体を抱えた瞬間――彼女の周囲に、暗い影が落ちてきた。
振り返るまもなく、ニカは子供を強く抱きかかえる。
地面を転がるようにして、振り下げられたらしい腕の一撃を避けた。
そうわかったのは起き上がった視界の先、地面を砕く魔物の姿を見た瞬間。だが、ニカはそれ以上の光景に絶句した。自分を襲ったものによく似た形の魔物が、複数出現していたのだ。
その合間を、人々が右へ左へ、叫びながら逃げ惑っていた。
「どこから、こんな……」
子供を抱きかかえたまま、ニカはこれからの行動を思案する。
戦うことはできない、ならば逃げるしか無い。だがそのための道がないのだ。敵の数が多すぎて、子供を抱えたままではとてもそのあいだは通り抜けられない。仮に抱きかかえている子供がいなかったとしても、人と比べて動きが素早いとは言えないニカでは難しいだろう。
ニカはじりじりと壁際に追い詰められる。
子供は泣き疲れてしまったのか、彼女にしがみついて震えるばかりだ。
そんな彼女の視界に、再び振り上げられた腕が見える。
せめてこの子だけでも、と子供を抱いたまま魔物に背を向けた。だが肌に食い込むと思われた一撃は、しばらく経ってもやってこない。恐る恐る魔物の方をニカは見てしまう。
振り上げられていた魔物の腕が、地面に転がっている、光景を。
え、と吐息のような疑問がこぼれて、さらに目を奪われたのは自分と魔物の間に、こちらに背を向けて立っているその姿だ。いるはずがない人、いなくても許されるはずの姿があった。
彼だけはこの街を見捨てても許されると、本気でそう思える人。
「ニカさん、そこから動かないで」
俺が片付けるから、と。
赤い髪の少年が両手に剣を握り締め、幼子を抱いたニカの前に立っていた。
■ □ ■
街中に多数の魔物が出現した報告は、すぐに王城へと届けられた。
集められた騎士団長に副団長、宰相に宮廷魔術師。それから数十人の部下を抱える騎士らはそれぞれに自分の役割を確認していく。幸い、城の方にその魔物は来ない。奴らはひたすら街の中心部を目指しているようだ。特に被害らしい被害も出ていないが、とにかく数が多い。
主だった中枢に立つ身分の者が集まっているのは、謁見の間だ。報告は真っ先に国王のもとに届けられて、その流れで人が集まり、そのまま会議――軍議へとなだれ込んだのである。
「騎士団の半数を街の中心に向かわせる。すぐに動ける部隊はどれだけある?」
「そうだな……十、か、それくらいだ。足りないなら俺が出る」
「おいおい、ラウディスが行ってどーするんだよ。お前がトップなんだぞ」
「お前が城を守ればいい。元々俺は前線向きだ」
ばさり、と羽織っている外套を揺らし、早速部屋から出ていこうとするラウディス。その肩を掴んで引き止めるのはシュリツだ。確かにラウディス配下の騎士はかなりの手だれ揃いではあるのだが、彼らの主目的は王城の防衛――そこに住まう国王夫妻の安全確保にある。
騎士団長が動く、というのは市民に与える影響が計り知れない。
ましてやラウディスはオッドアイ、彼が生まれ持ったその瞳はとても目立つ。
「そんなお前が動いたら、余計な騒動になるんだよ!」
「魔物の被害と、どっちが大事だ」
「それはそうだけどさ、だけどな! ……キオからもなんか言ってやれよ!」
話を振られ、離れたところで国王と相談していたキオは振り返る。
だが、うまい妥協案などすぐには浮かばない。魔物は突然出現したという。つまり、出現するまで姿が見えなかった、ということだ。そんな特殊能力を持つ魔物など、キオは今まで聞いたことがない。そして見えないということは、もっと街に入り込まれている可能性もある。
そうならラウディスを出すしか無い。
だが、いるかもしれない、というだけでは難しい。
ひとまず騎士団の一部を街に送り出し、その戦況を見てから――と、キオが考えた時だ。
「おやおや、皆様お揃いで何より」
かつん、と響く足音。ゆっくりと焦らすように、それは近づいてくる。
数十人の視線を一斉に浴びてなお、怯まずに姿を見せたのは。
「国王陛下とその他大勢の皆々様に少し、お話があって魔界より馳せ参じました」
月をモチーフにした謎の紋章を刺繍した長く黒い外套を、細い肩に引っ掛けるようにして羽織る銀髪の少年。宰相キオの嫡男――グレイ・ジェストリアだった。




