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異変

 その日、その男はいつもの様に市場に向かっていた。

 ティエラ王国の港のそばには、とても大きな市場が常時設けられている。魚に限らずありとあらゆるものが取引され、早朝から賑わっている場所だ。そして、朝には夜に起きにでていた船が戻ってきて、特に魚が充実している。男も朝食用の小魚を探しにいくのだ。

 あぁ、今日はどんな風に魚を調理しようか。

 骨が柔らかい魚にして、からりと揚げて骨まで食べようか。

 それとも大ぶりのを一匹買い付け、丁寧にさばいてから粉をはたいてムニエルか。もっとも料理をするのは妻なのだが、買い物係なのだからメニューの指定はさせてくれるだろう。

 まぁ、行ってみなければわからない。

 魚というものは、その時々で何があるか不明なのだから。

 昨日と同じようなことを考えながら、つまりは極めきった『日常』の中を歩きながら、男はその場所を通りかかる。だが、通り過ぎることはできなかった。死ぬこともなかったのだが。

 ふと視界に黒いものが差し掛かった。

 そう思った男が視線を上げると、そこに黒い影がぽつんと浮かんでいた。

 見上げるほどに大きい、縦長の楕円形のような、四肢のようなものがあるような。そんな謎の影が、男から少しばかり離れたところを、ゆっくりとうごめいているのが見えていた。

 直前までの日常を失い、男はその場に座り込む。

 それが何なのか、男には何もわからない。

 わからないという恐怖が男の身体を震わせて、その場所に縛り付けていた。

 何が恐ろしいのかを男に問うたなら、その大きさと異質さに並んで数も挙げただろう。大小様々な影が、路地裏からのっそりと這い出してくる光景を見ている、この男に尋ねたなら。

 朝もやの中、最後の影がずるりと男の目の前を這って行く。それは一つの家を黒く染め上げるほどに大きい影で、しかしそこに形があるようには思えないほどに希薄なものだった。

 影達は路地裏の方から這い出してどこかへと――街の中心の方へと向かう。その色は次第に薄れて見えなくなったが、通りかかった市民が声をかけるまで、男はそこに座り込んでいた。

 それを、その影のことを『異界獣』と呼ぶのだと。

 ティエラ王国の市民は誰も知らない、まだ。



   ■  □  ■



 所変わって、ここは魔界。

 荘厳な城の奥のスペースに、二人の男女がいた。

 一人は魔族系亜種族の自治領の一つを治めている青年。血のように鮮やかな赤毛に、カイネル血統を引く金色の瞳が特徴的なネイリス・デイヴァーヤードだ。

 そして彼の前に座っている女性こそ、この魔界を統べる者。

 すべての魔族をまとめあげている女皇帝、リゲル・カーラーその人である。

 十代半ばほどの華奢な容姿に、ゆったりとした黒いドレスを身にまとう彼女は、同じように紅茶を飲みながら、しかしその瞳をテーブルに投げ出したメモ書きのような紙に向けている。 それは先ほど、赤が強い茶髪の青年――女皇帝の側近が持ってきたものだ。リゲルの金色の瞳とはまた趣が異なる黄色を左目に有する彼は、すでに次の仕事をこなすために部屋を出た。

 彼が、お茶会の最中に報告を入れてくる、というのは珍しい。

 いや……彼にかぎらず、彼女の側近はお茶会には基本的に姿を見せないのだ。それこそ何か火急の要件が舞い込んだということでもなければ。だからこそネイリスは、リゲルが目を通しているメモが気になる。今度はどんな面倒事が彼女の耳元で囁かれたのだろうか、と。

 あまりに目を向けすぎたのだろう。

「見るか?」

 と、リゲルがにやりと笑ってネイリスを見た。

「いいのかい?」

「あぁ、さほどの秘め事でもないからな。余程のバカでもなければ勝手に手に入るさ」

 と、リゲルはぴらりとその紙を、ネイリスの方へと弾くように投げた。

 そこに書かれている内容を見たネイリスの、その表情に僅かな陰りが生まれる。だが、彼にかぎらず事情を知るものが見れば、表情を曇らせずにはいられないだろう。平然としていられるのはそう、何も知らない第三者か――彼の前で微笑んでいる、麗しき魔界の女皇帝だけだ。

 魔界と呼ばれる場所は、全部で十の階層がある。魔族などが暮らしているのは基本的に第五階層で、第六を飛ばして第七より下は死者の領域だ。で、そこで飛ばされた第六階層は、表向きは完全に立ち入りを禁じられた、魔界が保有する最大にして最悪の禁忌である。

 そこには『空間の裂け目』が繋ぎ止められていた。

 天界でもない、人間界でもない。異界、と呼ばれる別の場所との接点だ。第六階層が完全に隠匿されているのは、その裂け目からバケモノが這い出してくるゆえなのである。異界獣という安直な名称を与えられたそれは、通常では目に映らず、殺した相手の魂を砕いて食べる。

 壊れた魂は、どこにも行けずに消えるしか無い。

 転生などもない、蘇生などという技術が仮にあっても無意味だ。なぜなら跡形もなく消えてしまうのだから、どうしようもないのだ。そんなバケモノの『巣穴』を、魔界は抱えている。

 だが、その巣穴以外からも異界獣は現れるのだ。

 人間界のどこかに、勝手に亀裂が生まれて這い出す。

 目に見えないという特性から、それの危険度はそこらの天災と変わらない。かつてはたった一体の異界獣に、ティエラ王国にも匹敵する大国が滅んだ、という記載すらあるのだ。


 ――あぁこれは、確かに火急の要件だね。


 思い、ネイリスはしばし思考する。

 この案件に対応できるのはこの魔界だけだ。それも、女皇帝を筆頭としたごく一部の、数にして二十にもならない人数だけ。その中には当然女皇帝リゲルもいるし、ネイリスもその一人に名を連ねるだろう。だが、この案件に対応できるものは――ひとりとして存在しない。

 理由は簡単だ。

 他国での話だから。

 そして、第六階層の方も不安定なので、すぐにでも出られる体制でいなければならない。

「第六階層の方はどうにでもなるとして……ティエラ王国は放置だな」

「いいのかい? 前回や前々回以上の被害が出るかもしれないよ?」

「こればっかりは仕方がないさ。向こうが何かしら助けを要請してこなければ、ボクは何も出来やしない。国とはそういうものだろう。当然忠告もままならんさ。いや、やれと言われればやってやらないこともないが、そもそも『見えない』存在を連中が信じるわけもない」

「その結果――」

 ネイリスは、一度そこで溜めるように言葉を切り。

「国が一つ滅んでも?」

「あぁ」

 リゲルは笑みを下げ、氷のように冷たい瞳をして断言する。

「あいつらに、異界獣に対抗できる人材は貴重だ。単騎で勝負になるのは数人。ボクやお前ぐらいなもの。それ以外は数人単位で集団戦だ。つまりは、数人を失う可能性がある。それも異界獣との戦いとは関係ないところ、その時に適当に用意されるだろう『その国の都合』でだ」

「まぁ、そうなるね」

「ボクは彼らをこの件に巻き込んだ。そんなボクには、最悪命を異界獣以外の存在に奪われるかもしれないが、あの国を助けるためにボクの代わりに行って来い――など、言えない」

 個人的な感情でしかないが、とつぶやくリゲル。

 だが惜しむ理由を、ネイリスはよくわかっていた。集団戦にはチームワークと、揺るぎない信頼感が必要だ。それだけの関係を構築できる集団など、そう見繕うことなどできない。ましてや戦闘要員なのだから、探し出せる可能性は一気に下がっていくのだ。

 現状、ティエラ王国には異界獣への対抗手段はない。仮に見えていたところで、あれは通常の武器では肌を薄く切り裂くことすら叶わない、まさに人智を超えた『バケモノ』なのだ。

 あの国で、おおっぴらに動ける人物の中で、例えば宮廷魔術師を務めているシルフ・クラインなら一体程度なら仕留められるだろう。しかし単に魔術なら攻撃として通用するというだけであって、彼が沈めばそこでジエンド。守りもできないから、一撃も見舞えないだろう。

 だが、とリゲルはそこで再び笑みを浮かべた。

「どうも誰かが『裏』で動いているようだからな、案外何とかなるんじゃないか?」

「そう、かな?」

「幸いにも『あいつら』が偶然にも里帰り中だ、御膳建てさえできればあいつらの行動には大義の旗を掲げられるだろう。……案外、これを見越してのことかもしれないぞ?」

「まさか、異界獣の出現なんて読めるものじゃない」

「確かにそれもそうだな。勘ぐり過ぎか」

 くっくっく、と肩を揺らして笑うリゲル。

 その目が再び、真剣な色を帯びた。

「……だがな、いくつかボク的にどうにも解せないことがある」

「解せないこと?」

「あぁ」

 言葉を切ったリゲルはカップを手に取り、くいっと中身を一気に飲み干す。もう一杯淹れてくれないか、とそばに控えている召使に声をかけ、しずしずと近寄った彼女にそれを渡した。

 そして足をゆったりと組み替えて、赤い口元に薄く笑みを灯す。

「亀裂ではなく、ティエラ王国に生まれたのは裂け目なんだよ」

「……裂け目?」

「あぁ」

 自然発生する亀裂と違い、裂け目は第六階層のそれのように意識して開閉するものだ。

 ――つまりは、誰かが異界と繋いだ?

 もしそうだったなら、国同士のしがらみなど口にしているような、悠長な場合ではないのではないだろうかとネイリスは思う。亀裂から出てくる異界獣などたかが知れているが、裂け目ともなるとかなりの大型が出現する可能性がある。もしそうなら被害は甚大なものだろう。

 問題は、そんなことができる人材こそ、数える程度しかいないことだ。


「いったいどこの『歌姫』の呪歌が異界と常世を繋ぎあわせ、しかし封じ込めるような聖歌を響かせているのだろうな、と。そもそも――『歌姫』の家系は断絶しているはずなんだが」


 おかしいこともあるものだな、と。

 月の眼を細め、彼女は心底楽しそうに笑っていた。

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