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始まりの災歌

 朝を迎えつつあるジェストリア邸。

「……っ」

 その四階にある部屋で、小さく声が漏れる。四階のこのスペースは、屋敷の持ち主たるジェストリア家の領域で、その部屋は半年ほど主を失っていた長男グレイの自室だ。

 床に滴り落ちるより早く、布に染み込んだそれが固まるより早く、赤は溶けて消える。

 肌を染める赤すらも、啜られるように消えた。

「荒療治が必要だ、この街には」

 徹底的に、ズタズタにするような勢いで荒療治しなければいけない。引き裂かれた右腕をかきむしるようにして、更に中身を溢れさせながら、グレイはかすれた声でつぶやいた。

 う、あ、と苦悶の息を吐き出し、彼はそのまま床に崩れ落ちる。

 だがふわりとしたラグを敷き詰めた床は、すべての物音を飲み干して消した。

 その中で、グレイは更に指を突っ込んで――自分で切り裂いたその傷口を、広げるようにぐじゅぐじゅといじくり回す。そのたびにずるずると引きずられるような、自分の中身が外へ引きずり出されるような奇妙な感覚に襲われた。銀色の髪が、汗で額や顔に張り付いている。

 そんな彼の周囲には、黒い画面が無数に浮遊している。

 多種多様な模様を浮かべるそれは、まさしく『補助端末』の画面だ。現在彼は、己の血肉を供物とした『儀式型』の魔術を実行中なのである。そのために、ひたすら己を傷つけている。

 彼が現在、過度な供物を消費してまで実行したのは『召喚魔術』の一種だ。

 どちらかというと『死霊術』に近い。

 だが――本来、霊界に属する事象を扱うことができるのは『魔族』のみだった。

 当然、見た目に現れるように天界側に属するグレイに扱えるものではない。それを強引に使用するための儀式型魔術であり、それゆえに必要とされるのがこの膨大な苦痛を伴う生贄だ。

 しかし。


 ――もはや猶予がない。そして我慢もできない。


 息を大きく吸い込んだグレイは、あえぐように言う。

「彼らは、夢から醒めるべきだ。現実を直視し、そして怒れる『彼』の断罪を、誰がその名を継ぐに値するのかを、彼らは思い知らなければいけない。そのためには、多少の犠牲も」

 厭わない、と息を吐きだし、笑う。

 そう、犠牲など些細なものだ。荒療治とはそういうものなのだから。

 グレイはこの街に、今のところさほどの価値を見出していない。幼い子供にすべての責任を押し付けた愚劣な民の存在価値を、そこらへんの小石ほどにも感じていない。だが、それでも家族が暮らしている場所だ。彼らが暮らしている限りは、それなりに気を使ってやらないこともないと思った。これはそのための荒療治であり、目覚めるための最後の一撃となるだろう。

 この『はかりごと』は一種の賭けだ。

 この末に数人ではすまない犠牲が出るかもしれないし、最悪の場合としていずれこの国そのものが壊れる可能性もある。だが、だからどうしたとグレイはさも当然のように思う。

 こんなちっぽけな存在一つの『浅知恵』で壊れるならば。


 ――所詮はその程度でしかない、ということさ。


 その程度の民とその程度の官僚とその程度の王だったという、ただそれだけの話。

 痛みを知らねば、彼らはまともにモノも考えられない。

 そのことはもうこの十年で、よくわかった。

 ならばその『痛み』を与えよう、そのために必要ならいくらでも我が身を捧げよう。何かを望みなそうとするならば、その程度の覚悟がなければ許されない。そう、絶対に許されない。

「そう思いませんか『黒衣の姫君』――セレニス・ヴェルベール」

 笑みを浮かべ座り込んだ彼の真向かいに、黒衣を揺らす少女が佇んでいた。

 そして彼女は答えるように、恭しく頭を垂れる。

 今宵準備は整った。


「――さぁ、はかりごとを始めようか」



   ■  □  ■



 まだ暗い早朝の、人気のない街の中心にある広場。

 真ん中にある噴水に腰掛けるのは、眠そうな顔をしたレイガだ。うー、うー、と唸りながら足をばたつかせる彼女は、現在とある人を待っていた。だが、唸る程度に待ち人は来ない。

 こんな早くから、こんな場所にいるのには理由があった。

 人目につきたくない、ただそれだけだ。

 なのに待ち人が来ないのだ。早くしないと早朝から港の市場に向かう人が、そろそろ起きてきそうな頃合いである。彼女は基本的にこんな時間には起きてこないはずなので、目撃されるとちょっと困るというか面倒だった。無駄に顔を知られていると、こういう時は不便である。

 うー、と唸って膝を抱えた時、かつん、と遠くから足音が響いてきた。

 どうやら――やっと待ち人が到着したらしい。

「ごめん、遅くなった」

 現れたのは黒衣の女と、黒髪の少年だ。黒衣の隙間からは銀色の髪がこぼれ、少年の右目には月が浮かぶ。女は『黒衣の姫君』と呼ばれる半霊で、その足元にはあるべき影がなかった。

 すすす、と滑るように移動する彼女の横の少年、彼はウェルト・ルクヴァーンシュ。レイガと同じくルクヴァーンシュ家当主と養子縁組をしていて、彼女の義弟と呼べないこともない。

 その金色に煌めく月の如き片目が示す通り、彼もまた黄金月血統の持ち主。魔界の王族カーラー家の分家筋にあたる、カイネル家の血を引く魔術師だ。左目は深い紫紺の色をしている。

 その瞳が示す通り、ウェルトの魔術師としての才能はとても高い。

 膨大な魔力と、それを使役しうる魂。そこに補助端末という道具があるために、日常的に使う魔術のように『儀式型』の、大型で威力のある魔術を扱うことができる。

 そんな――レイガが知る稀代の天才の一人は。

「じゃあ、計画を確認しようか」

 レイガの前で足を止めるなりそんなことを言い出した。

 別に確認する必要もないのに、とレイガは思うが、黙っておくことにする。このウェルトという少年は魔術師ではあるのだが、剣術の方もそれなりにできる。下手に怒らせたくない。

 三人がここに集まったのは、当然グレイの差金だ。

 グレイが裏で進めているもう一つのプラン、それを実行する部隊である。

 鍵となるのはレイガだ。正確には彼女の特殊な魔術であるが、それを使ってグレイはこの国の中枢に切り込んでいくつもりなのだ。ウェルトと姫君は、レイガの補佐に入る。

 レイガと同じ力を持っている姫君が、この街をすっぽりと覆う結界を構築し、騒動が外に漏れないようにするのだ。ウェルトはことが片付くまで魔術を行使し続ける彼女の護衛、並びに確実に不足するだろう魔力を分け与える係だ。本来、『黒衣の姫君』は、その銀髪が示す通り天の民であるのだが、今は半霊なので魔族の魔力を受け入れることが可能になっている。

 一方レイガはというと、ある現象を引き起こせばそれでお役御免になる予定だ。

 やることが終わればすみやかにジェストリア邸に戻り、無関係を装うつもりである。

「とりあえず、到着したら連絡入れるから、それを合図に」

「りょーかいっす」

 ひらひらとレイガが手を揺らし、返事をした。

 それを見て、それじゃ、とウェルトが背を向けて歩き出す。

 少し後ろを、『黒衣の姫君』はふわりとついていった。基本的に白い町並みに、この朝闇の中にありながらも黒い二人はとても目立つ。遠ざかってく黒を、同じように黒い少女は睨む。

「ったく、どいつもこいつも注文が無茶ぶりっすよ……」

 ぼやきながら、レイガは、んん、と喉を鳴らす。

 試すように声を、適当に流すこと数秒。

「――さて、と」

 ぱちん、とレイガは両手のひらを合わせた。

 それをゆっくりと離すと、光の玉が間にぷかりと浮かぶ。それは一瞬のうちに縦に長い形へと変化し、薔薇の花を咲かす蔓が絡みついた、一本の長い杖が現れた。すべてが銀色の杖を両手で握りしめて、彼女は目を閉じる。一回、二回、三回、深くゆったりと息を吸い、吐く。


「第百の五楽章『異界喚詩』――第三節四拍目より参ります」


 しゃん、と音がする。

 レイガの周囲に幾つもの画面が浮かんだ。しゃん、たたん、と打楽器が音色を刻む。これぞ典型的な『儀式型』の魔術。魔力を載せた歌声を供物に、現象を作り出すものだ。打楽器を中心とした伴奏に乗せる歌声は、高く、そして力強い。敵を屠らんとする苛烈さに満ちていた。

 だが――その歌声で『敵』を呼ぶのだから、何ともおかしい矛盾である。

 ここまでしなければいけないのか、ここまでするしかないのか。グレイの考えはレイガにはよくわからない。だが、ここまですれば足りるだろうなとは、思った。ここまでされて、それでもダメということはさすがにないだろうと。だからこそのこの『一撃』なのかもしれない。

 音色が重なる、激しさが増す。

 レイガは固く結んでいた唇をゆるめ――ついに歌い出した。

 ぶわりと魔術が紐解かれ、周囲へと枝葉を伸ばす。

 その波に乗るレイガの髪が、美しい銀色を帯びた瞬間。


「――」


 しゃあん、と高らかに鈴の音が響いて、魔術と化した歌声が街に解き放たれた。

 普段の地声と比べればだいぶ低いその歌声が一つの『災厄』を呼ぶのは、これから数時間後の話である。街は未だ眠りの底で怠惰に浸り、しかし目覚めの時はすぐそこに迫っていた。

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