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敵となるか、味方となるか

 あれから数日。

 ニカに誘われる形で、ヒューゴは度々街に出るようになった。

 最初はあんなに怖かった視線も、どうにか気にせず受け止められるようにもなった。

 だけど、それでも慣れないのは今日も一緒に出歩いた彼女だ。少し上から、優しい目で見つめられると何とも落ち着かない。それは、最初の頃は緊張しているだけだと思っていた。

 だけど、それは違う。

 何となく、ヒューゴは理由に気づいてしまった。

 ニカは女性だが、騎士だ。それとなく兄に聞いたところ、十代の頃にはもう騎士として城に上がっていたのだという。ヒューゴぐらいの年齢で、彼女はすでに剣を握っていたのだ。

 剣を握る、それだけならむしろそう変わらないはずだ。

 彼女も幼い頃から握っていただろうが、ヒューゴだって同じはずだ。だけど、ヒューゴは特に目的がないまま握って、振るって。確かに腕は上がってきているけれど、それを使って何をするということはない。普段は伯父が経営する店で、厨房を走り回っているだけだ。

 剣を使って何もしていないということはない、だけど自主的な意思は薄い。頼まれたから振るっているだけだろう、と言われたら、それに返す言葉は認める形しか持てないだろう。

 だけどニカは、まだまだ少ない女性騎士の一人として、人々のために立っている。時に命をかけて敵を倒し誰かを守っている。それは、かつて自分を守って死んだあの人のようだ。

 だから、だった。

 だからニカと一緒にいると、ヒューゴは落ち着かない。緊張し、彼女と一緒にいることを望んでいるのに慣れない。彼女は自分と違って、ちゃんと前を向いているから。

 羨ましいのだろうと思う。

 同時に、かすかに妬ましいとも思っているのだろう。

 だって彼女は、あの頃のヒューゴがなりたかった姿をしている。立ちたかった場所にしっかり立っている。歩きたかった道を歩けている。これを羨まずにいられるほど大人になれない。

 そこまで、今はまだ言葉にして口に出す勇気はないけど。

「俺、ずっと逃げてたんだと思うんだ」

 レウラディーネ邸とジェストリア邸の中間の分かれ道で、ヒューゴは空を見上げた。

 うっすら赤みを帯びた空に、雲はない。


 ――あの日も、星が綺麗だったな。


 一人で屋敷を飛び出して、偶然フィルに出会って。その手を握り、引かれて家に帰る途中に見上げた空。夕暮れをだいぶ過ぎた雲のない空には星が瞬き、キレイだね、と言い合った。

 惨劇の少し前、まだ穏やかだった一瞬。

 思い出し、こみ上げる吐き気のようなものをヒューゴはこらえた。

 ニカがいる、彼女の前で無様な姿は晒せない。

「逃げる?」

 少し離れたところで、ニカが問いかける声がする。

 ヒューゴは空を見上げたまま、小さく頷いた。

「うん。フィルさんのこと、受け止めて背負おうとしているつもりで、横に置いたまま見ないようにしてた気がする。自分なりにできることをって思ってたけど、全部自分のためでさ」

 人々の非難から逃げるようにティエラ王国を離れて、ヴェルアード公国の伯父ギルディアのところに預けられて。そこで与えられるまま剣を握ってしごかれて。そうして、それなりの実力は身につけられたと思う。そして、伯父が鍛えてくれたのはいつか故郷に戻るためで。

 その気になったら、数年前には戻れていた。

 戻らなかったのは怖かったから。

 選択肢すら思いつかないくらいに怖くて、ずっと背を向けて俯いていた。戻る理由なんかないし望まれてもいないし、今更何もできないし。それよりお店の手伝いが忙しいし。

 そんな風に理由を並べて、足を止めたままだった。

「あれは全部、質が悪くないだけの『現実逃避』だったんだろうなって思うんだ。剣術やってれば、ギルさんのとこで働いていれば、他にもいろいろしてれば、頭からっぽにできたから」

 だけど――それではいけないと、ここに戻ってきて気づいた。

 いや、ずっとわかっていたことだったはずだ。わからないということにして、目を閉じ、耳をふさいで黙りこんで、そんなものの存在には気づいていない、知らないということにした。

 しかし気づいてしまった、自分でちゃんと目を向けた。

 もう、逃げることはできない。

 そんなことは、もうしたくもない。

「ニカさん、俺、騎士になるよ」

「ヒューゴ君……」

「すぐは無理だってことはわかってる。だけどいつか、いつか――」

 空を見上げる。


「あの人に恥じない『騎士』に、なるんだ」


 昔、自分を大事に思ってくれたあの人のような。十年もかけてやっと前を向けた、こんな弱い自分のためにたった一つしか無い大切な命をかけてくれたあの人のような。

 誰かを守れる、立派な騎士になろう。

 もし、そんな騎士に慣れたなら。


 ――もっとちゃんと、俺はあなたのそばに立てるだろうか。


 言葉を飲み込んで、代わりにさよならを。軽く手を上げて左右に揺らし、笑顔のヒューゴはニカに背を向けた。彼女が目を見開いて立ち尽くしていることなど、知りもしないまま。



   ■  □  ■



 最後に残ったのは自己嫌悪だった。

 彼が別れに添えた笑顔が、脳裏に焼き付いて消えてくれない。


 ――私はひどい、汚い、汚い汚い汚い!


 叫びたい声が、しかしなけなしの矜持の前に音をなくして重なっていく。泣きたい、泣き喚いて崩れてしまいたい。こんな名ばかりの薄汚い矜持など今すぐに消えてしまえばいい。

 あの笑顔の前に、ニカの中ですべてが崩れた。

 自分が陥れようとした存在の、その尊さに気づいてしまった。

 本当は、最初から全部知っていた。

 自分という存在がどれだけ汚れているのかも、彼がどれだけ綺麗なのかも。

 彼はあんなに素晴らしい、彼はあんなに騎士らしい。しっかりと前を向こうとして、ゆっくりとだろうけれど自分の足で立って歩いている。嫌悪しながら、憎みながら、しかしそんな相手に頼って生きてきた自分と何もかもが違っていた。違って見えた。見えてしまった。

 どうしてこうなったんだろう、なぜ、こうなってしまったんだろう。

 後悔と疑問とありえた可能性で思考を満たす、彼女の前。


「ヒューゴとのデートは楽しめましたか?」


 笑う少年が佇んでいた。

 長い銀色の髪、宝石のように澄んだ色彩の青い瞳。薄く浮かんだ笑みは、柔らかそうでいて酷薄な形をしているように見えた。それは、間違いなく嘲りの笑みだとニカは思った。

「……何か、御用でしょうか」

「あぁ、別に取り繕う必要はありませんよ。僕はあなたの本性には興味が無い。わざわざヒューゴに近づいた理由や、あなたを矢面に立たせたその向こうで、あの浅ましいフィメリ家がどんな愚劣な考えを浮かべていても、その結果を含めて、僕的には別にどうでもいいですから」

「それは、どういう」

「一応、僕のプランではこの一ヶ月ほどで、フィメリ家は死にますので」

 死体を蹴る趣味はないんですよね、とグレイが笑う。

 彼は、グレイは、何を言っているのだろうか。

 相手はあのフィメリ家だ。この国でも並ぶ家柄が限られる名家中の名家。

 そんな家がたった一ヶ月で死ぬなどありえない。例えば一族郎党を皆殺しにするような何かが起きない限りは、フィメリ家はこの国にあり続けるのは明らかだ。

 しかも彼のプラン、彼個人の計画ごときで傾くわけがない。しかも言い切った、死んで貰う予定とかいう言葉ではなくて、死ぬと、はっきりとその喉は音を作り唇が外に放った。

「あなたは、何を言っているのですか……っ!」

 ニカは思わず叫んでいた。

 フィメリ家が、一体どういうものか知らないとでも言うのだろうか。その程度、この国の社交界では常識だというのに。それがわからないほど、目の前の少年は物を知らないのか。

 あぁ、だけどそれは考えられることだった。

 かつては年齢が離れているニカでも知っているほど、グレイ・ジェストリアという少年は類まれな才能に恵まれた天才であると有名だった。同年代の少女らがこぞって彼の花嫁になりたがったという話は、彼自身のスペックも合わせて社交界でも有名だったと記憶している。

 しかし、ある時期を境に彼の名声は消えた。

 天才で名を通し、将来を有望視されていた少年は放蕩三昧を始めた。

 今ではこの国でも比類なき『ダメ息子』。

 それが彼の、現在の称号だ。最初のうちはニカも、そしてそれ以外も彼に対して同情的ではあった。少なくともニカはそうだった。なぜなら彼が変わったきっかけは――母親の死。

 目の前で母を失ったのだから、しかたがないのだと、誰もが思っていた頃があったのだ。

「何を、と言われましても」

 グレイは笑みをわずかに強め、肩を小さく揺らしていた。

 だって、とグレイが軽く首をかしげるように傾け。

「あの家は邪魔なんですよ。だから徹底的に潰させていただこうかと。手段や規模なんて選びませんよ、当然。彼らがそこらの路地裏でのたれ死のうと、僕には関係ありませんしね」

「あ、あなたは……!」

「――あぁ、それで一つ尋ねたいのですが」

 グレイが詰め寄る。

 とん、という軽い一歩で、跳躍する。


「あなたは敵ですか? それとも這いつくばって慈悲を乞う罪人ですか?」


 目の前に、青が広がっていた。息が触れ合う距離に彼がいた。腕を捕まれ、逃れられなくしてからの問いかけを、だがニカはすぐに『問い』であるとは認識できない。

 ニカの脳内を満たす混乱を、彼が笑う。

「やだなぁ、僕の大事な従兄弟を弄んでおきながら、私は被害者です、なんて言える立場だとでも? 十六歳の少年を利用して、保身に走った騎士様は、その程度もわからないとか?」

「で、でもそれは」

「やめてくださいよ、ヒューゴは言い訳も許されなかったんですよ?」

 当然汲み取られるべき、全面的に肯定されるべき言い訳一つ、口にだすことをこの街は許さなかった。幼い子供にすべてを押し付けて、お前が悪いのだと罪を突き刺しかき回した。

 あなたは、とグレイが言う。


 ――同じことを、これから彼にするのですか?


 ニカが目を背けていたものを、この数日で身体の内側に積み重なっていたものを、とても楽しそうに笑いながらずるずると引きずり出して、目を閉じられないニカの前に晒して並べた。

「レウラディーネなんて、捨ててしまえばいいのに」

 自分の意志をねじ曲げるものなど、ゴミのよいに捨ててしまえばいい。

 それは、まるで家を捨てたかのように振る舞う彼だからこそ、たやすく口にできた言葉7日もしれないけれど。できるわけない、と震える声でつぶやくニカには、絶対に言えないこと。

「できるわけ、ないじゃない……そんなこと、できるわけがないじゃない!」

 叫び、突き飛ばした。

 よろけながら、グレイが数歩下がる。

 家を、レウラディーネという名前を捨てるなど無理だ。

 できるわけがない、できるはずがないことだ。

 それが叶っていれば、自分はもっと楽に生きられた。あの少年に出会うことはなかっただろうけれど、同時に彼を傷つけることもなかったはずだった。会えないのは、彼を知った今から思うと悲しいし寂しいと思うけれど、だけど傷つけるくらいなら知らないままでいいと。

 だけど無理なのだ。

 そんな未来はニカに存在しない。

 だってニカはレウラディーネ家を捨てられない。父が守り、母が愛したあの家を捨てることなんてできるわけがない。だからフィメリ家などに縋ってでも、どうにかしてきたのだ。

 だからニカはこんなにも苦しんでいる。自分本位で、我が身可愛さで、傷つけてはいけない彼をこれから引き裂かなければいけないことに。たった数日で、もう戻れなくなった。

 いっそ、ここで泣き崩れられる弱さがあればいい。

 だが騎士として一人で立って、歩いてきたニカにそんな弱さはもうなかった。自分で決めたことだと痛みごと抱きかかえ、口をつぐんで耐えることしか自分に許せないのが彼女だった。

 そんなニカを、ただじっと見ていたグレイは。


「あなたにもこの『毒』を飲んでいただこう、とか、思っていたんですけどね」


 残念そうに、だけどどこか安堵したようにそう言った。

 苦笑と言うべき笑みを、彼は浮かべている。

「……ど、く?」

「えぇ、この国を緩やかに、あるいは一瞬で『殺す』ための毒。この『毒』によりフィメリ家は確実に死に絶えてもらいますし、そのついでにあなたに消えてもらっても、僕としてはこれといって困らないので構わなかったんですよ。これ以上、彼が傷つく必要などないのだから」

 かつん、と音がした。

 立て続けに、リズミカルに響くそれは、彼が歩き出した音。ゆっくりとニカの横を通り抜けていくグレイは、しかしちょうど隣に立った時にもう一度彼女を見上げる。

「きっとあなたの真実を知れば、ヒューゴは悲しむでしょうね」

 わかっている。

 言われなくてもニカはもうわかっている。

 口をつぐんだままの彼女に、グレイはどこか呆れたようにため息を小さくこぼして。


「だけど、それ以上にあなたが死ぬことを悲しむ」


 ヒューゴは筋金入りのお人好しですから、と続け。

「だからまぁ……それに免じて、大変不本意ではありますが、今のところは見逃してさしあげましょう。だけどあなたは、それでも勝手に自らの罪を告げるのでしょうけど。僕にはそれでもあなたを許してしまう度し難いお人好しの、腹が立つほど優しい笑顔が見えるようですよ」

 ヒューゴは趣味が悪いなぁ、とグレイはつぶやき去っていった。

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