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最初の歩みを

 リン・ウォーテンがやってきて数日。

 朝食の時間を過ぎたジェストリア邸三階の廊下で、せっせと窓ふきをする少女がいた。しかし彼女の衣服は、ウォーテン家の召使とも、ここジェストリア家の召使とも違う。

 それもそのはず、この少女は正式には召使ではないのだ。


 彼女、レイガ・ルクヴァーンシュは、ジェストリア邸の『メイドさん』である。

 ただし自称でしかないが。


 実際は魔界の名門貴族の筆頭であるルクヴァーンシュ家の養女で、社会勉強のためにこの屋敷に滞在している『客人』である。目的は違えど、つまりリン・ウォーテンと同じ立場だ。

 彼女は魔族を象徴する長い黒髪を揺らし、大勢いる召使に混じって働いている。とはいえ客人ではあるので、基本的には窓ふきや食材の下処理など、実に簡単なものばかりなのだが。


「んっふふー」


 きゅ、きゅ、と高く良い音を出しながら、レイガは窓を拭いている。

 彼女が着用している服は、女性の召使用に屋敷が支給しているものを好みなどに合わせて適当に改造したものだ。普通では足首から下しかみえないような長い丈は、動きやすさのために膝丈に。本人的に邪魔な袖は短めに。申し訳程度のエプロンは、腰から下だけのものを。

 そしてスカートの裾などにシンプルなフリルをあしらい、腰の後ろで結わえたエプロンの紐はかなり長く、彼女が動くとまるでしっぽのようにゆらりとした。足は黒いストッキングをまとわせているが、これは魔界の技術者が作った『戦闘用』で、ティエラ王国の騎士団が着用している装備品と同程度の強度を誇っている。改造済みの衣服も、いろいろ加工してあった。

 なぜそんな重装備かというと、単純に丈夫だからだ。そこそこいいお値段のストッキングを一日で三足潰した伝説を作り上げたら、誰だって丈夫さを求めるだろう、と彼女は主張する。

 当然のことながら、彼女がそそっかしく走り回った末の惨事、という自覚はない。

「まぁ、こんなもんっすね」

 ふふーん、とにんまり笑って磨き上げた窓を見る。

 この屋敷に来て二年ほどだが、ずいぶんと炊事洗濯はうまくなった。これならいつでもお嫁さんになれるわねぇ、とはこの屋敷在住の三姉妹の長女の言葉。悲しいのは褒められても相手がいないことだが、そこら辺はどうにでもなるっす、とレイガはどこまでも前向きである。

 次の仕事は特にはない。

 せいぜい昼食や夕食の下ごしらえの手伝いだが、それも今日は当番ではないし。ということはこれからは自由時間だ。まぁ、元々レイガは召使ではないので自由時間も何もないのだが。

 まだ起きてきていないがソフィアやユーリィを連れて、教会にでも行こうか。

 併設されている孤児院のちびっ子と、走り回るのも悪くない。


「……う?」


 どうしたものか、と思案していたレイガは、窓の向こうの通りに見覚えのある姿を見かけて目を凝らした。赤い髪を簡単に結い、獣のような耳としっぽを持つ小柄な体格。

 あれは最近この屋敷に『戻ってきた』という、騎士団長の次男。

 この街にいろいろ曰くがあって、だから外に出ないだろうなとレイガが思っていたその特徴的な姿が、なぜか屋敷の前の通りを中心部に向かって走って行くという、謎の光景。

「何すか、あれ」

 雑巾を握ったまま、彼女は呆然と小さくなる姿を見ていた。



   ■  □  ■



 レイガが三階から信じられない思いで、その少年の外出を見かけた少し前。

 妹の部屋にある大きい鏡の前で、部屋の主に何とも言えない目を向けられながら身支度を整えるヒューゴの姿があった。いつもよりちゃんとした格好に加えて、帽子などのアイテムまで使っている。もっとも変装ではない。耳は隠せてもしっぽが残るし目の問題もある。

 ただ、その方がおしゃれだから、というだけのことだ。

 髪のハネ具合一つにさえ気を使う兄を、ソフィアは怪訝そうに見ていた。

 今まで、身だしなみというものにはあまり興味が無い兄。普段は最低限の、人前に出られる程度には整えているようだったが、その兄がいきなり『おしゃれ』を始めたのだ。

 それも妹の部屋にある鏡を使って、かなり熱心に。


「……っていうかさぁ」


 と、ソフィアは服をチェックし始めたヒューゴに声をかけた。なお、さっきから髪と服を交互に整えてすでに三十分、そろそろ終わってもいいのではないかと彼女は思っている。

「そのニカさん? って人さ、大丈夫な人なの?」

「どういう意味だ?」

 わずかだが確かな怒りを含んだ声と、振り返った兄の『お前は何言ってんだ』と言いたげな顔にソフィアはため息しかでない。この兄は、よく言えば純粋だが、悪く言うとバカだ。


 ――あたしも人のこと言えないけど、ここまでじゃないし。


 少なくとも、昨日あったばかりの相手と二人っきりなんかにはならない、と思う。

 ニカというその女性との出会いの話を、一応ソフィアは聞いていた。ひったくりにあった彼女を助けたことで、今日お茶に誘われたのだと。まぁ、実際にかばんを取り返したのはグレイとエリルらしいのだが、それよりそばで手を差し伸べてくれたヒューゴが気に入ったらしい。

 普通に考えておかしいじゃん、とソフィアは思う。

 どうしてそこでヒューゴだけなのか、と。

「あのね、お兄ちゃんは危機感があるようで危機感が無いアホの子だから……」

「お前に言われたかねぇよ」

「とにかく、アホの子でチョロいから、妹様が気を使ってあげてるの」

「レウラディーネ家なら、充分信用に足るだろ。つかチョロいってなんだ、おい」

 さすがにバカにされたことはわかったらしいヒューゴが、不機嫌そうに妹を睨む。

 だがソフィアも、ふん、と鼻で笑って睨み返した。

 兄のためにも、妹としてここで引くわけにはいかないのだ。確かにレウラディーネ家は騎士家系として有名なものの一つで、数少ない貴族の位を持っている家柄だ。だからヒューゴは心を許しているのだろうが、ここはティエラ王国で、そして相手は騎士なのだ。

 相手は、兄を傷つけるかもしれない。

 未だかつて無いほど、傷つける『毒』かもしれない。

 警戒するのは当然のことだった。誰だって気にするし注意もする。何のために、自体の収集ではなく忘却を望み、ヒューゴを他国に逃したのか。そうすることで守ろうとした意味が。

 よりにもよって本人の、浅はかな行動で全部終わってしまうかもしれないのだ。

 自覚がない、自覚が薄いというのが、実に問題である。

「美人にコロっといかされて、おデートにいそいそ出かける様を『チョロい』と言わずして何をそう呼称せよと? レウラディーネって言ったらうちと同じ騎士家系じゃない。しかもカイ兄ちゃんの話だとそのニカさんって人も騎士で、ひったくりに負けるように思えないし」

「それはそうだけど」

 だけど、と弱々しく視線がそらされた。

 あぁ、これはだめだ。ソフィアはため息をこぼす。これでは何をいっても、物理的に止めない限りはどうしようもないだろう。そして、ソフィアにそこまでの力などあるはずがない。

「まぁいいわ、とにかく気をつけなきゃダメなんだからね! 美人は怖いの! クリスさんとか見てればわかるでしょ? うちのお母さんとかラーナさんもそうだけど、きれいな人は恐ろしい生き物なの、近寄るな危険、触るな危ない、うかつに近づいたら貪られちゃうんだから」

「へぇへぇ」

 再び背を向け、鏡に向かうヒューゴは、もう妹のことは気にしていないようだ。

 よし、と小さく聞こえた声は、身支度が整った合図。

 歩き出す背から目を背けて、ソフィアはベッドに突っ伏して叫んだ。


「あぁもう! グレイがちゃんとお兄ちゃんを美人慣れさせてないからぁ! もしもメギツネにお兄ちゃんが穢されて弄ばれて傷物にされたら、お兄ちゃんの嫁入りが絶望的に……っ!」


 うわぁん、と泣いたふりをすれば、部屋を出て行きかけた足音が止まる。

「嫁入りじゃねーし、どっちかっていうと婿入りだろうし、男に傷物とかねーし」

「とにかく気をつけてね、何かあったらオトナを呼ぶんだよ! 絶対だよ!」

「……もういい、つっこむの疲れた」

 いってくる、と妹に手を振ってヒューゴは部屋から出て行った。玄関から外へ出て、太陽が浮かんだ青空を見上げる。かざした手で光を遮るようにして、目を細めた。今日は実にいい天気で出かけるのにちょうどいい。眩しい、とつぶやいたヒューゴは、視線を前に戻す。

 人通りがない、まだ静けさに満ちた屋敷前の通り。

 だけどこれから向かうところは、すでに人が多く行き交っているのだろう。

 震えるように動きを止める両方の足を、ヒューゴは軽く叩いた。歩け、そして動けと痛みを持って命じるように。震えるな、みっともない姿を見せるな、覚悟していれば怖くはない。

「……よし」

 踏みしめるように、噛みしめるように。ヒューゴはゆっくり足を動かす。屋敷から離れるごとにあの刺すような視線を感じ、そのたびに逃げたくて逃げたくて、すぐに帰りたくなって。

 決めていたはずの覚悟は、しかしあまりに役に立たない。

 だけど待ち合わせたカフェに、その姿を見つけてしまったらもうダメで。


「――に、ニカさん!」


 強がりの声と笑顔を携え、静かに本を開いていた彼女に駆け寄る。今日はこれから彼女と二人であちこち歩きまわる予定で、十年近く離れていたヒューゴに街を紹介する感じだという。

 行きましょうか、と立ち上がるニカが手を差し伸べ、ヒューゴがそれを握り返す。

 周囲からの視線も忘れ、顔に集まる熱と緊張に耐える時間。

 所詮、それはデートというものだった。

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