不穏な海と一つの出逢い
久しぶりのティエラ王国、故郷は、何も変わっていなかった。
いっそ笑えるほど、自分に注がれる目は冷たいままだ。この屋敷の中にいる限り、そんな視線から逃れることはできるけれど、いつまでもそんな調子でいるわけにはいかないわけで。
早朝、誰もいないリビングでヒューゴは一人頭を抱える。いつものように夢見は悪く、少し寝ればすぐに目を覚まし、眠っていた時間はそれなりにあるが何とも言えない疲労感がある。
部屋にいることに耐えかねて、そのままリビングのソファーに沈み込んでいた。
微かに聞こえるのは、屋敷で働いている人々が動く音。
そろそろ朝早くから仕事に行く兄や父や、あるいはそれ以外が起きてくるだろう。妹あたりはもっと眠っているはずだ。本人曰く『寝る子は育つのよ』だそうだが、見たところほとんど成長した感じはしない。言ったら言ったで怒られるので、曖昧に濁して明言は避けるが。
明るくなった窓の向こうを見ながら、ヒューゴはぼんやりと座り続ける。
いっそ外に出て剣でも振るっていようかと、そんなことをふと思った時だった。
がちゃ、と控えめな音が聞こえたのは。
「……あれ、ヒューゴ早いね」
そこに起きてきたのは、意外にもエリルだった。
いつもより細められている目は、彼がまだ睡魔にとりつかれていることを意味する。乱暴気味に目元をこすり、ふあ、とあくびを噛み殺しながら彼はヒューゴの向かい側に座った。
そういえば、と殺しきれないあくび混じりの声で、エリルが尋ねる。
「ヒューゴはいつごろ向こうにいくの? 帰る時は港まで送るけど」
「あー、それなんだけどさ、できれば今日にでも帰ろうかなって思って」
などと言いながら、情けない、とヒューゴは苦笑する。
これでは完全に逃げているも同然だ。
だけど――やっぱり、まだ『怖い』のだ。身についた恐怖が、拭い切れない。誰かが一緒にいてくれれば、多少なりとも強くあれるけれど。だけど、いつまでもそういうわけにはいかないのはわかっているのだ。街に怯えることと同じで、誰かに縋ることも長くはできない。
結局、勇気と自信が足りなかった。
きっと、それが足りない。
――フィルさんに恥じない力を、と思ってたのにな。
こんなことで怯えて、怖れて、逃げ出すことをすぐに考えて。あの人は子供でも普通では無い存在に相対して、そしてヒューゴを守ってくれた。逃げず、怖れず、立ち向かった。
そんな強さが好きだった。
優しく頭を撫でてくれるのも大好きだった。大きくて温かい手で撫でられて、簡単な剣術の基礎なんかも教えてもらって、そう、まるで弟子になった気分だった。そんな感じだった。
なのにその人を、この世界から失わせたのは自分なのだ。
あんなによくしてもらった自分が、彼を。
「ヒューゴ」
「……え、あー、なに?」
「何かあったら僕やグレイに言うんだよ。父さん、役に立たないから」
「そんなことないって」
役に立たないなんてことはないと、ヒューゴは思っている。むしろ、何もできない立場なのだから役に立たなくても、何の問題もないのだ。それは仕方がないことなのだ。
そのことを恨みに思ったことはない。むしろ申し訳なく思う。
キオに限らずそれ以外にも、あれから迷惑をかけ続けているのはわかっているのに。
――それでも、俺はまだ動けないんだな。
自嘲も虚しいほど、滑稽な姿だった。大丈夫だ、悪くない、気にするな、と何度言われても一度感じが痛みが『忘れるな』と言うかのように鮮やかに蘇ってくる。それを何とかしたいと思っていても、凍りつく身体は意思を受け付けない。震えないだけ、まだマシだろうか。
どうしようもないな、と俯いていると、エリルが小さく息を吐き出す。
それは、ヒューゴが抱いているものと同じ色を持ったため息だ。
「……ごめんね、何もしてあげられなくて」
「だからいいって。俺は今でも充分なんだって、ほんと」
いざという時に矢面に立ってくれたり、守ろうとしてくれたり。エリルに限らず、多くの人々に自分は助けられているとヒューゴは思っている。そうでなければここには、きっと一章返ってくることもなかった。誰かがそばにいるから、何とか足を踏み入れるぐらいはできた。
そうでないなら、きっと今頃は港の船の奥の方で、息を殺していただろう。
だが今のままではいられない。
このままでいたくもない。
今でも充分だなどと言うのではなくて、もう必要ないと言いたい。守られなくても、前を向いて立ち上がって歩いていける、そんな自分にならなければいけないのだろう。
「ただ、そうだな。いつか俺も向かい合わなきゃいけないし、その時にちょっと背中を押してくれたら、俺はそれだけでいいかな。いつになるかわからないんだけど、いつか、きっと」
「……その時は、蹴り飛ばす勢いで押してあげる」
任せて、とエリルは笑った。
■ □ ■
朝食の前、散歩を兼ねてヒューゴは外に出た。
起きてきたグレイと、それからエリルの二人を連れてだ。
とはいえグレイはまだ半分寝入った感じなので、ほとんどエリルが手を取り引きずりながら歩いているのだが。それでも例の派手な羽織――の青いものを着用している辺り、見栄っ張りというか妙に気取りたがるのだなと呆れる。髪はさすがにおろしたままではあるのだが。
「それ、おいてきた方がよかったんじゃね?」
「いいんだよ。ヒューゴにちょっかい出す相手を迎撃するための道具だから」
「……お前、自分の兄弟を何だと思ってんだ?」
いや、確かにそういう使い方はできるけどさ、とヒューゴは苦笑する。
身内に甘く、身内を大事にするグレイは、その『敵』への対処も容赦がない。半分寝入った状態だったとしても、もしヒューゴに直接何かをしようとする者がいれば反応するだろう。
エリルは、それを見込んで連れてきたようだが。
――なんていうか、弟を『エリィ』って呼ぶ兄も兄だが、その兄をこうして道具みたく使ってる弟も弟っていうか。似たもの同士って、こいつらのことを言うんだろうかなぁ。
見た目は全然違うのにな、と双子を横目にヒューゴは思った。
そんな二人を連れて、ヒューゴは港までやってくる。
「……ちょっと、波が荒れてるな」
入口付近で足を止めたヒューゴは、腕を組んでつぶやいた。ヒューゴの仕事は船乗りでも水夫でもないが、ほぼ毎日港に行く関係から波が平常時のものかどうかの見分けがつく。
今日の波は少し高く、荒れた感じがした。国が違えばそういうものも異なってくるのだろうとは思うのだが、少なくともヴェルアード公国であればこの波は荒れ気味と言えた。
やな感じだなぁ、と思いつつ足を進める。
港の奥の方、昨日乗って来たあの船を見つけた。だが、ヴェルアード公国に向けての出港準備をしていそうな時間にもかかわらず、その周囲に船員などの姿はほとんどない。甲板には船長が一人いるだけで、彼は近寄ってくる三人を見つけると大きく腕を振り走ってきた。
「おぅ、チビの旦那」
「おはよー、船長。……船、やっぱ出れない?」
「旦那にはわかるか。この辺はそうでもないんだが、沖の方がなぁ」
と、船長はひげを撫でながら空を仰ぐ。つられて見上げた空はそれなりに雲が多い。もしかするとこちらもそのうち荒れてくるのだろうかと、外にでる用事はないが少し気分が沈んだ。
だが、それより気分を沈めたのは、船が出れないということだ。
そしてその原因は、海だけにあるわけではなかった。
「波が荒れ気味なのもあるんだが、それ自体はそれなりに回避できるんさ、旦那。ただ海に住んでやがる魔物どもが、その回避――迂回ルートなんだが、そこら辺にいるらしくてよ。迂回通ったのが一隻沈められかけたらしくてさ、そっからこっちに連絡が飛んできたんでよぉ」
「げ、マジかよ」
ヒューゴは思わず顔をしかめた。
人間界の海に出る魔物には鋭い牙がある。鱗など身体も固く、魔界洞に出現する魔物と比べてもかなり硬い部類に入った。そんなものが水の中を高速で移動し、数匹ずつ船に体当たりをしてくるので最悪沈没の可能性もある。群れるが水中にいることが多く、討伐は困難だ。
広域をカバーする魔術を使えばできなくもないのだが――。
「さすがに海賊と違って、魔物ってヤツは退治して回るにも限界があるしねぇ」
と、横から割り込んだのはグレイだった。
まだ眠そうにしているが、さっきよりは目がしっかりしている。
「そうなんだよ旦那。退治するはいいんだが、船が先にやられちまう。せめてもう少し数が散らないことにはどうにもなんねぇよ。それなら海が大人しくなるのを待つが得策ってもんさ」
「……そっかぁ」
参ったな、と頭をかく。
海が荒れているぐらいならともかく、魔物がいるとなると少しややこしい。例えば明日の海が穏やかになっていたとしても、すぐに船が出せるとは限らないのだ。まずは魔物がどうなっているのかを調べてから暫定航路を設定しなおして、それから物資を詰めて出発となる。
魔物の調査には時間がかかるため、それだけでも最低でも一週間はかかるはずだ。魔術師が遠見などを使って丁寧に魔物を調べていくのだが、大体が討伐任務を兼ねる仕事だという。
遠見の魔術は典型的な『儀式型』の魔術で、供物は軽いが負担が重い。並みの術者では一時間も持たないため、すべての調査などが終わるまでに結構な時間がかかるのである。
船長に別れを告げた三人は、人が増えてきた街中を屋敷に向かって歩く。
自分でもわかるくらい頭上の耳は元気をなくし、しっぽも力なくへにゃりとしている。
「まぁ、いいじゃない。うちにしばらくいれば」
そんなヒューゴの頭を、ぽむぽむと撫でてくるのはグレイだ。
「僕もしばらくは家で大人しくしているつもりだし、だからその間に行きつけのお店とか連れてってあげる。安心して、僕がおごるよ。だから一緒に肩身の狭い思いをしよう、ヒューゴ」
「……肩身狭いの、グレイだけだと思うけどね」
ひどいなぁ、と弟の言葉に、だがまったく傷ついた感じを見せないグレイ。二人がこうして一緒にいるのを見るのは久しぶりだが、やっぱりなんだかんだで仲の良い兄弟だと思う。
かつてと立場が逆転というか、グレイはすっかり以前の姿を自ら捨てて、見る陰もなく落ちぶれた元天才少年になってしまっているし、その代わりにエリルが優秀な後継者になってしまってもいるけれど、こうして一緒にいる二人は昔と何も変わらず、仲の良い兄弟のままだ。
何やら縁談やらで慌ただしそうだが、このまま仲の良い二人でいてくれれば。
そんなことを思いながら、少し後ろを歩いていた時だった。
「きゃああああっ」
朝の静けさを叩き壊す、女性の悲鳴。
ほとんど同時に三人は声がする方へと走り、逃げ去る黒い背中を見た。遠ざかるそれとの間には一人の女性が座り込んでいて、どうやら彼女があの悲鳴をあげた張本人らしい。
「かばん、かばんが……」
「ひったくりか……僕が行く」
動けない様子の女性の横を、エリルが走り抜ける。
グレイも足を少し踏み出したが、その前にヒューゴの方を振り返った。そしてにやり、という感じの意味深な笑みを浮かべ、別れを告げるかのように軽く手をふっってから。
「ヒューゴはその人をよろしく」
そう叫び、グレイがエリルを追いかけていく。残されたヒューゴは、座り込んだままの女性に駆け寄った。怯えているのだろうか、俯いたままじっとしている彼女に手を差し出す。
本当は少しどころではなく、こちらの方が怖かった。
彼女はおそらく二十代で、きっと『英雄殺し』の話も知っているはずだ。その容姿、特徴や名前だって、記憶できないほど幼かったわけがない。だから、差し出す指先が震えてしまう。
だけどドレス姿の女性を、このままにもしていられないという。
ただそれだけで、ここに踏みとどまっている。
「あの、立てます?」
「……っ」
声をかけた瞬間、わずかに女性の肩が震えた。見たところ、それなりの生活を送っているお嬢様か何かなのだろう。一人での外出でこんな目にあったのだから、怯えるのも当然だ。
もしかしたら、グレイはそこら辺を考えた上で、あえて自分をここにおいて行ったのかもしれないとヒューゴは思う。自分で言うのも悲しいが、見た目では一番無害そうではある。それから人助けをして、ヒューゴに対するイメージの改善でも狙ったのかもしれない。
だったら、できればどちらかは残っていてほしかったなと、思わないでもないのだが。
「あ、はい……大丈夫です」
ゆっくりと視線をあげた女性は、小さな声でそう答える。それから恐る恐る、といった様子で腕を伸ばして、差し出されていたヒューゴの手をとって立ち上がった。
ヒューゴはわずかに視線を上げ、目の前に立つその姿を眺める。さらりと波打つ金色の髪が揺れて、よほど恐ろしかったのか青い瞳は潤んでいるようにも見えた。
すごく綺麗な人だな、と。
ふと、ヒューゴはそんなことをふと思った。




