兄と弟
応接室を飛び出したリンは、曲がり角の向こうに赤いものが一瞬揺れたのを見た。
確かグレイは、やけに豪華な装飾を施した、赤い上着を羽織っていた。ずいぶんときれいなものだったからリンの記憶に残されたその赤と、あれは同じものだったように思う。
はしたないと怒られるのも承知で、見えた方へと走って行く。何が何でも、自分は彼と一緒にならねばいけないのだ。それを第一の目的として、わざわざこんなところまで来たのだ。
逃げられるわけには、いかない。
「待ってください!」
赤いものが消えた角を曲がると、階段で上へ行こうとしている彼の姿があった。振り返ったその視線は冷たく、青い色もあって氷のように感じられる。だが、怯えるわけにはいかない。
数回の呼吸で息を整え、リンは彼に歩み寄った。
話をするつもりはあるのだろう、グレイは数段上がっていた階段を降りてきた。腕を組んで不機嫌さを隠しもせずに、目の前に立ったリンを睨むように眺める。
「何か僕に用事でも?」
「私に至らないところがあるならおっしゃってください、ですから」
縁談の話を考えてほしい、了承してほしい、そう続けようとした。
だがその前にグレイが笑みを浮かべる。天界の社交界で時折感じる嘲りに似た、こちらの言葉を受け入れる気のない言葉だ。ぐっと手を握り唇を引き締めて、続く言葉を待ち構える。
先ほどの態度から、こちらにいい感情を持っていないのは明白だった。直接的には関係ない理由から縁談を拒否しているようだったが、だからといって引くことなどできない。
彼という存在を手に入れた、という結果のためなら。
それこそ、何でもできるとリンは思った。
「――至らないところ、ね」
かつん、と廊下に足音が響く。グレイが近寄り、リンは思わず後ろに下がった。ほとんど無意識に近い後退で、しかしグレイはなおも詰め寄ってくる。じとりと、彼女を見下ろして。
「そんなものは一つだけだ」
比較的明るい、高い声だったはずの音は、しかし今はとても低い。まるで青年のような声色が地をはうように迫る。もしかして、不用意に近づきすぎたのかと後悔するも、もう遅い。
ゆっくり迫られ、後ろに下がってを繰り返し、壁際まで追い込まれた。
「確かに君は素晴らしい令嬢だろう、それは認める。だけどだからといって万人に好かれるなんて、まさかそんなことを思ってはいないよね? そう、素晴らしいからといって誰も彼もに愛されるとは限らない。誰も彼もに愛されて、本当に欲しい一人に愛されないこともある」
角に追い込まれ、リンは身動きをとれなくなってしまう。
少し視線を上げたら、笑み一つ無い双眸が自分を見ている光景があった。
「君は『彼女』じゃない。僕の最愛の『彼女』ではない」
だから愛することもない、とグレイは断言する。
その声はどこか悲しげでもあり、何かを悔いる声のようでもあり。自分に対する言葉でもないというのに、その瞳の鋭さがどきりとした波打つような鼓動を引き起こす。
ほんの少しだけだが、そこまで思われる誰かが気になってしまった。
「……その、彼女、というのはどこの誰なのですか」
「君に言う必要はないことだよ。僕がどこの誰をどう思おうと君には関係ない。例えば僕に恋人がいたとしても、すでに結婚していても。ジルエール血統が濃い僕である限りは、何が何でも君は僕と結ばれなければいけない。天界にいる一族のために、不本意だろうと構わずね」
そうでしょう、と告げられた言葉にリンは、小さく息を吐きだして答えた。
「ご存知……なのですね。ご自身の血統のことを」
「腐っても魔界の学園を主席卒業だしね。一応調べるぐらいはしたよ」
父方らしいよ、と自嘲気味に告げられた言葉に、リンはぐっと息を呑む。
彼は気づいているのだ。祖母の叔父が掴んだ情報、己の出生の秘密に気づいている。
その見目が意味するのは天界の神官家ジルエールの血統が濃いということ、力はその濃さが尋常では無いという証。彼はきっと、天界にいるジルエール血統の、誰よりも血が濃い。
なぜなら誰一人として彼のような力を持たず、ゆえに彼を求めたのだから。
「ウォーテン家は、大国といえど宰相家程度になびくような家じゃない。たった一人の優良な孫娘を、他国に差し出す愚策は侵さない。しかし僕という存在がいた。この銀色の髪と青い瞳とあの力で、君は僕を『見初めた』わけでしょう? こんな見目や力も無ければ、そもそもこうして相対することもなかった。互いに存在は知る程度か、知らないままに終わった」
「それは……」
「とはいえ、それは『僕』でなければいけないこともない。そして結婚しなければいけないというわけでもない。君はただ僕との間に子供が欲しい。……政略にも劣る程度の関係性だね」
どん、と耳元で音がする。
口元を歪めるように笑う彼が、その距離をさらに詰めて来た。
「まぁ、ご希望とあらば『できるまで』お相手ぐらいはするけど?」
「な……っ」
「あぁ、安心して。子どもの教育に口を出す気はないから」
僕の子供を生むべきは『彼女』だけだからね、と。
囁くグレイがすぐそこに迫って。
全身がこわばって、早鐘の音もしていて。だがそれゆえにリンは動けなかった。その気に慣ればどうとでもなるというのに、すぐそこに迫る彼の――狂気のような冷たい目線が、まるで全身を凍らせるように絡めとっていって、呼吸すら浅く、ままならない。
それでも彼は近づく。
息がかかるほど、すぐそこに。
確かに、確かに最悪は子供だけでもいいと思わなかったわけではない。それも選択肢に入れていなかったわけじゃない。覚悟していた、覚悟をしたつもりだった。そのはずだったのに。
いざその選択肢を相手が勝手に選んでしまったら、身動きひとつ取れなくて。
「――それくらいにしてあげたら?」
これ以上はもう無理だ、と目を閉じた時、そばから聞き覚えのない声がした。
階段からゆっくりと降りてきたのは、黒髪を少し伸ばした少年。どこか先ほどまで一緒にいた宰相キオを思わせる顔つきに、まさかと思ってそっとグレイの様子をうかがう。
少年をじっと見ていたグレイはふっと、柔らかい笑みを浮かべた。
まるで別人になってしまったかのような切り替わりに、リンは驚きを隠せない。
「やぁ、エリル。久しぶり」
「ん、久しぶり」
リンのことなど忘れたかのように、グレイは少年に歩み寄っていく。エリル、という名前には聞き覚えがあった。確かグレイの双子の弟で、一応婚約者となる候補の一人だ。
見た目は兄よりも父親に似ているが、目の色は違っている。
黒髪に緑の瞳が意味するのは、カルティールという天界の貴族だ。男はもちろんのこと、女であっても剣術を嗜む『軍神』の一族――その分家筋で、人間界にも多くいるという。だからその容姿をしているということは、別に特別ということはない。ありふれた見目の一つだ。
まったく異なる容姿をしている弟、その頭をグレイは何度か撫でた。
「元気そうで何より」
「そっちこそ、相変わらず好きじゃない相手には辛辣だね。ソフィアとかが見てたら箒で突っつき回されて蜂の巣にされてたよ。少しは加減ってのをしてあげたら? 相手を考えてさ」
「ずいぶん擁護するねぇ……」
「別にそういうつもりじゃないけど」
頭を撫でる手を払いのけながら、エリルがリンの方へ一歩進む。その緑の瞳が一瞬こちらを見たような、そんな気がした。だがすぐに視界に映るのは、艶やかな黒髪が揺れる背になる。
エリルはまるでリンを守るかのように、兄と彼女の間に立った。
ふぅん、とグレイが意味深げに笑う声がして。
「そんなに彼女が気に入ったら、君がもらったらどうだい、エリル?」
「……彼女は物じゃないよ」
「そうだね、彼女は物じゃない。だから僕はいらない」
グレイは軽く手を降って、今度こそ階段を登っていく。
その後姿を、リンはただ呆然と見送ることしかできなかった。
■ □ ■
ぎしぎしと階段が軋む音が遠ざかり、エリルが小さく息を吐く。
「気にしないで、グレイはいつもああだから」
振り返った彼は呆れたようにそう言った。
どうやらグレイ・ジェストリアというあの少年は、政略などを嫌った母親の教えを強く受け取ってしまい、貴族という立場では逃れられないそれをとにかく嫌っているのだという。
「まぁ、それだけじゃないんだけどね、この国が嫌いなだけだから」
「自分の暮らす国が、ですか?」
「いろいろ、あって……だから半年ぐらい寄り付かなかったよ。運が良かったね、グレイが帰ってきたタイミングでこっちに来れて。もし君がいると聞いたら十年でも寄り付かなかった」
そこまで故郷を嫌う理由を、リンには推測もできなかった。何かと大変な貴族社会に嫌気が差したのかと思うのだが、それにしては『嫌い方』が徹底しているというか。
――何か、私が知らない何かが、あるのでしょうか。
彼が気にしていた従兄弟とは、おそらくヒューゴ・ベルフェームという、同い年の少年のことだろうとリンは思う。事前に調べておいた情報によると、彼は天界でも名を知られた騎士に守られたとのことだ。それに関して責められて、ついには別の国に移り住んだという。
あの応接室での様子からして、彼は身内を大事にする人らしい。
ならば、従兄弟を謂れ無き罪で糾弾する人々を嫌うのは、当然のことだろう。
部外者のリンから見ても、彼への非難の声はおかしいと言える。六つかそこらの子供に何を期待しているのだろう、としか思えない。まるで誰かが、煽り立てたかのようだ。
当時を知らないリンでさえ、提出された資料を見て眉をひそめたのだ。それを目にしていた彼がこの街の人々に失望しても仕方がない。それを理由にされたら、何も言い返せない。
あぁ、こんなことではダメなのはわかっている。
自分はどうしても、何をしてでも彼を手に入れなければいけないのに。
ぐっと手を握っていると、ふと視界に陰が落ちてきた。
「諦めてないって目」
見上げた直後、自分を覗きこむ緑色と目があう。
「でも、無謀だとは思うよ。グレイは昔から『一人』しか求めてないから」
「それは『片思い』ということですか?」
「そうなるけど……片思いは無謀、意味が無いことだと思ってる顔だね」
「……貴族という立場では、叶わないものですから」
彼にしろ、自分にしろ、生まれは圧倒的に恵まれたものだ。餓える苦しみも知らず、望むものはなんだって手に入るような立場だ。その上で好きな相手とだなんて、わがままを言えるほどのモノ知らずにはなれなかった。少なくともリン・ウォーテンは、そうではなかった。
結婚は政略だ。道具だ。
だから自分は祖母に、その叔父に言われるままにここに来ているのだから。
「まぁ、初恋は叶わないって言うしね……」
背を向けたエリルが、誰に言うでもない雰囲気でつぶやく。
そして、軽く身体をひねるように振り返り。
「でもグレイにとっては絶対的な愛しい人。片思いでも、一方通行でも、思いが届くことがないとしても、彼女だけがグレイの心に佇んでいる。……だから、君は勝てないよ」
「それは、どうして?」
「現実は『思い出』には勝てない、絶対」
そんなもんでしょ、とエリル。
言葉に、リンは何も言い返せなかった。確かに思い出というものは絶対的なもので、思い出すほどに美化されていく。現実は現実であるがゆえに決して追いつけない。いきなり美しく装うこともできず、そして何よりも『忘れたくない』という思いが壁となってすべてを阻む。
自分が乗り越えなければいけないものの大きさに、リンは気が遠くなった。
しばらくの沈黙を挟んで、エリルが口を開く。
「とりあえず屋敷を案内しようか。しばらくここにいるんでしょ?」
「え、あ、はい。よろしくお願いします……えっと、私は」
「リン・ウォーテン。さすがに知ってる。僕は――エリル。エリル・ジェストリア。この屋敷の所有者の次男で、君のお目当てのグレイは双子の兄。あんまり似てないけど」
無表情に近いその顔に、うっすらと笑みが浮かぶ。
恭しく手を差し出しながら、エリルは言った。
「目論見外れて僕が相手になった時は、どうぞよろしく」
その笑みに、一瞬心が跳ね上がったのは――きっと、気のせいに違いない。




