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冥府の畔

 いつか、もう一度あの人に会えた時。

 胸を張ってその前に立てる、そんな自分になりたいと思った。



   ■  □  ■



 世界はざっくりと、三つの階層に分けられるという。

 中心にもっとも広大な人間界が位置し、その空の向こうに天界、地の底へと魔界。魔界は通常の領域と霊界と冥府に分けられるが、基本的には三つだ。それぞれにヒトが国や集落を構築して暮らしていて、魔界、そして魔界と地続きになっている人間界には魔物がいる。


 そして、その黒髪の少女が佇んでいるのは魔界。

 魔界洞と呼ばれる長い長い洞穴の、第五階層と呼ばれる場所の一角だ。

 ここは全部で十階層あって、それぞれ大きさ広さが異なる。

 第四より上は魔物が多くひしめき合う場所で、人々が暮らせるのは第五階層のみ。

 第六は立ち入り禁止区域、そして第七より下は死者の領域だ。

 彼女がいるのは第七階層への入り口付近。通常は、一部の限定されたものしか接近を許可されていない場所だ。能力のないものがうかつに死者の領域、霊界に近づけば災いを招く。

 さっくりと殺されるくらいはまだいい方だろう。

 乗っ取られでもしたら、何が起きるかわかったものではないのだ。


 しかし、霊界の死者など気にもならない者にとって、霊界も魔界も変わらない。

 魔界とは魔界洞のことであり、霊界も冥府もすべてひっくるめて魔界。

 どこにでも行ける者に、その違いは作用すらしないのだ。

 ここは巨大な体躯を持つ魔物の周囲を駆け回りながら、その四肢を切り落とすに充分なだけの広さを誇る『筒』で、土壁がむき出しであるがゆえぶつかると少し歪なアザができる。

 壁の向こうを血管のようにめぐる魔素を吸い上げる仕組みのランタンが、何をするにも満足行くだけの明るさをもたらしていて、主要な区域は馬車などが通れる程度に整備されている。

 たったそれだけの『場所』でしかない。

 とはいえ、それらの多くが何の意味もなかった。

 霊界の奥に住まいを持っているこの、黒い髪を長く伸ばした少女にとっては。


 少女の名はエナという。

 フルネームはエナ・カーランカイネル。


 魔界に住む魔族の中でも特別な血筋である『黄金月』の血統。

 その中でも王族すら持たない、もっとも古きものを受け継ぐ魔女だ。魔族の特徴でもある艶やかな黒髪を長く伸ばし、その呼び名の通り月の如き鮮やかな金色の瞳を持っている。

 袖のない黒いワンピースを着る少女は、憂鬱そうに魔界洞の壁を指でなぞった。膝の高さにある裾がゆるりとなびき、腐臭にも似た雰囲気を持つ霊界の空気が周囲に漂い始めた。

 ねぶるような接近を感じ、少女の瞳が細くなり。


「随分と節操のないクズ霊魂どもなのだわ」


 鼻で笑い、エナは霊界の方に視線を向ける。

 この腐臭は霊界の住民、死者が、彼女を狙って近寄ろうとしているからだ。正式な手続きを持ち要らなければ、霊魂はとても正気ではいられないほどの悪臭を周囲に撒き散らす。

 霊界にいれば感じないそれは、少しでも生者の領域に入ればほとばしる。

 軽く指先を振るって、エナはそれらを追い払った。

 数人の霊魂が消し飛んだが、別に構わない。


「お前達は転生作業の残りカスであると、自覚するべきなのだわ」


 ぱきん、と音がする。

 エナの足元から青白い光が周囲に糸を張り巡らせて、そこに膜が生まれた。これで霊魂はこちら側へは出てこない。定期的に『これ』の管理に気をつけるのが、今の彼女の役割だ。

 霊界の死者は、魂の核の外側。

 転生するに不必要な部分。

 冥府に落ちるほどの力もないそれらは、生前の意思と形すらうしなった。だからこその残りカスであり、それゆえにたちが悪い連中なのだわ、とエナはため息混じりにつぶやいた。

 そして冥府に落ちた彼らは、誰も来ない場所で眠り続ける。

 誰に呼ばれるわけでもなく静かに、そう、ただ静かに眠るだけ。

 それは、たった一人でも世界を変えられる。

 強大な力を有する彼らを、隔離するためのシステム。

 その管理者たるエナは、長い黒髪を揺らすようにして視線を遠くに向けた。

 微かに聞こえる、その騒がしさを眺めるように。



   ■  □  ■



 がちゃり、と扉が開く音。

 かつん、かつん、と自宅の中を黒いワンピースの少女が進む。

 彼女、エナのテリトリーは第七階層より下であるが、霊界ではない。

 そもそも魔界と言っていいかも、定かではない。

 霊界の最下層、つまりは第十階層の奥地。

 もはや誰も立ち入らない、旧王家の王廟を通り過ぎた更に奥。

 直接、魔術を用いて飛んでくる方が早いだろう場所、冥府の畔に家がある。ごく普通の一軒家であるそこがエナ・カーランカイネルの家。魔女が終の棲家として選んだ場所だった。

 その傍らには、錆びているが太い鎖で厳重に縛られた、大きな門がある。


 その通称は『冥府の門』。


 安直にそう呼ばれているそれは、しかしその名の通り冥府に通じるものだ。

 エナ――いや、カーランカイネルの民が管理、制御してきたもの。


 魂というものは核があり、その外側をコーティングするように年月を重ねていく。たとえるならば真珠だろう。そして死後、霊界を通りぬけるうちに核だけが分離し、再び輪廻の循環へと舞い戻っていくのが一連の流れだ。核を失った外側部分の多くは霊界を漂う有象無象へと変ずるのだが、力が強いものは生前の力と記憶と姿を持ったまま、この冥府へと落ちてくる。

 つまり、あの門の向こうには誰もが知るものが、数多く存在している。今も昔も、これから先も生前の力や記憶を持ったまま。冥府とは、ある種の『隔離施設』でもあった。古今東西の有名な存在が、そこら辺をうろつかれたらわりと切実な意味ではた迷惑というものである。

 だから霊界には有名人などいない、彼らは冥府で眠っている。霊界を対象とする死霊術で彼らが出てくることはないし、降霊術で呼び出すことなど不可能に近い。冥府へのアクセス権限を有するのは黄金月の血統者、それも現在ではエナただ一人となっているのだから。

 それは魔界の民、魔族にとっては当然の現実で。

 しかし、天界に住まう天の民にとっては、愚かしい戯言。

 黒など暗い色彩の髪を持つ血統が多い魔族と異なって、基本的には金髪や銀髪など明るい色彩を養子に持つ天界の民は、魔族とは異なる生死の循環を提唱している。

 すべての魂は自分達の魂は高くそびえる『門』と呼ばれる建造物の向こう側へ、転生するのではなく魂丸ごと旅立っていくものだというのだ。その向こうには楽園があるのだと、だが。


 ――あの向こうにあるのは、墓標と地獄だけなのだわ。


 確かにあの門は、この家のそばにあるそれよりも神々しい。

 白磁の石で作られた、荘厳な装飾をふんだんに施したものだから。

 しかし一皮むけば、向こう側にあるのは醜悪な悪夢。

 何も知らないということはとても幸運で、幸せなことだとエナは嘲笑する。くっく、と肩を揺らして口元を抑える。月の瞳は嘲りの色でゆらぎ、知人が見れば彼女が怒っていることをすぐに理解するだろう。怒るからこそ蔑み、それを隠さず表に出して嗤うのだ。

 その声を聞き、彼女が戻ったばかりの家の扉を叩くものがいた。

 どうぞ、と声をかければ影のない少女が入ってくる。黒いドレスに身を包み、引きずるほど長い不透明な布をすっぽりとかぶり全身を隠す、かすかにまばゆい銀髪が見える少女が。

 おかえりなさい、と綴る言葉に。


「別にあなたが行くことはなかったのではないかしら、エナ」


 と、続けて少し笑う少女の声は、とても美しい。

 それを用いた歌を聞けば、誰もが崇めるだろうと思うほど。

 ふわり、と足音を立てない影なき少女は、かつて冥府に落ちた魂だ。冥府と霊界の管理に追われるエナの代わりに、そのどちらかを手伝って歩く『黒衣の姫君』と呼ばれる立場にある。

 その呼び名の通りに喪服の如き黒衣で身体を包み込み、動く姿はまるで亡霊だ。

 彼女は生者のように物体に触れることが叶うが、結局は死者。

 故に影はなく、足音も立てない。

 そんな彼女は少しばかり、不満そうな目をエナに向けている。

 行くことはなかった、と彼女がいうように、霊界の管理はその少女の仕事だ。エナは冥府の門を管理すればいいだけで、だが基本的には何もすることがない。一昔前は公的にそれなりの地位も持っていたが、もはやそれも捨てた。世捨て人、と時の君主は言うだろうか。

 とはいえ、エナには心がある、ヒマを持て余すこともある。

 黒衣の少女が仕事を奪われた結果、同じものを抱いたように。


「ヒマだったし、気が向いただけのことなのだわ。それよりもセレニス」

「なんですの?」

「しばらく魔界洞の方には行かないほうがいいのだわ。特に第五階層には」


 そろそろあの時期だから、とエナが言うと、黒衣の姫君――セレニスは、あぁ、と少し考えてから返事をする。エナが自分に何を言いたいのか、すぐにはわからなかったらしい。

 今の立場になって日が浅い彼女は、魔界のことを詳しくは知らない。

 元々、天界の名家の生まれだった彼女は、魔族との接点すら存在していなかった。

 家族に囲まれ、それなりに平凡に生きて死んだ天の民。黒衣に隠した髪は、それな見事な白銀色。被った布の奥で怪しく細められるのは、うっすら紫がかった透き通る青の瞳。

 誰がどう見ても、天の民であることは疑いようがない。


「今年の卒業予定者には、天の民もいるようだし」


 余計なことは嫌でしょう、と言われ、セレニスは頷く。

 天の民の生死の循環は独特だ。転生というものを基本的には否定する。だが、一部の強い力を持つものは、天のために新たに身体を手に入れるためそれをする、という都合のいい解釈すらなされている。例えばかつて天を収めていた天帝シエルは、何代も前の優れた王の生まれ変わりだ等と言われていたし、そのうち彼の生まれ変わりと言われる子も生まれるだろう。

 そこへきて、セレニスの容姿は天界の、とある名家を象徴するものである。直系が失われて久しいその一族の容姿は、それゆえに知れ渡っていた。もし天の民の前に彼女が立てば、長く生きてきたエナですら想像しきれない混乱が生まれ、面倒なことになるのは明白。

 故に出歩くな、と釘を指す。

 当然、面倒なことの渦中に叩き込まれるセレニスは、言われるまでもなく出歩かないが。


 先ほど、魔界洞を歩きまわって偶然見かけたある集団のことを思う。黒髪に金色の目を持つ女に導かれる、まだまだ弱く幼い子供達。しかし強い意志を持ち、武器を手にした者達。

 女は、現在魔族をまとめ魔界を統治する女皇帝。

 そして子供らは、魔界が誇る学園の卒業予定の生徒達。

 もうそんな時期かと思い、エナは笑う。

 毎年恒例の、女皇帝による実戦形式の卒業試験。それが始まったのだ。もうじき魔界には魔物に追い回される生徒の悲鳴が響き、あるいは魔物を追い回す生徒の怒声がこだまする。

 元々、魔族に魔物と相対する力を与えるために作られた学園は、他国からも生徒を受け入れ武術などを教える場となった。毎年、有能な人材が巣立ってはそれぞれの故郷を支える。

 その中に天界からの留学生を見かけ、それ故に告げたのが先ほどの忠告だ。

 とはいえ魔界の底に滞留する霊界の瘴気は、魔族にはそうでもないが天界の民にはきついものがあるという。脅すように忠告したが、霊界との境目に向かう程度では出逢うことはない。

 だが人間を相手にしたケースより少ないとはいえ、それなりに天の民と魔族という組み合わせの夫婦は多く、大抵の場合は魔族の血統が子供に強く受け継がれる。やはり、しばらくセレニスにはおとなしく、霊界の奥の方に引っ込んでおいてもらう方がよいと判断できるだろう。


「わかっておりますわよ、それくらい」


 つん、とした様子でセレニスは背を向け、そして去っていった。

 残されたエナは、苦笑を浮かべ――目を閉じる。

 セレニスの、その銀色の髪を見ていると思い出す面影がある。

 忘れているわけではない。

 ただ、改めて存在を刻むように認識する。

 二年前に聞いた慟哭は、今も色褪せることはない。

 類まれな力を有して生まれ落ちた一つの星。白よりも白い魂の光。己の無力を、今も咽ぶように嘆いているあの魂は、今生の今際に何を得ることを自らに許すことができるのだろう。


「……いいえ、彼は何も得ない。永劫に何も求めず、得ないまま眠るのだわ」


 彼女しかいない部屋の中。

 泣くような響きを孕む魔女の嘆きが、静かに溶けていった。

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