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D-4

シメオン=アージェントの場合




 薄暗い室内に、三日月琴(トゥルア)の音が響く。


 内海に接したこの街は、年間通して比較的温暖な過ごしやすい気候である。また大陸西部の交易の要所ということもあり、自治都市として繁栄していることから、各国のお偉方や豪商などがこぞって別邸を建てていた。享楽と歓楽の街。そう呼ばれることもあった。

 そんな街の享楽の一端を担う、高級娼館の一室。

 訪れる客のために最高級のものがそろえられた部屋が、彼の世界のすべてだった。

 

 彼は今夜の客を待っていた。


 彼は美しかった。美しすぎる少年だった。さらさらとした長い銀の髪は、さながら上質の絹糸。日に灼けたことのないようなその白い肌を覆うのは、透けるようなうすぎぬを幾重にも重ねたもの。彼の体の輪郭を諸処隠しながら浮かび上がらせるそれは、帯を解くと簡単に脱げるようなものだった。

 豪奢な寝台の上に座る彼の右足首には、金の足輪とそれにつながる細い金鎖、そしてその皮膚の上を這うように施された、薔薇の刺青。白い肌に絡みつくようなそれは、妖しいまでのなまめかしさで見る者を誘う。

 異国の香が焚かれるその部屋で、彼は手すさびにつまびいていた三日月琴から手を離し、テラスに降りる白い月影をぼんやりと眺めていた。


 ──誰も来なければいいのに。


 宵の刻は既に十過ぎ、新たに客が来るには遅い時間だ。真夜中の刻を告げるまでに誰も来なければ、今夜、彼は静かに眠れる。秋口に入りかけたこの時期は、社交界が華やぐ時期でもあり、そうなると彼の客は少なくなる。

 賢姫と呼ばれる高級娼婦であるならば、貴族の同伴などで社交の場に呼ばれることもままあるが、彼のような子どもを、しかも少年を夜の相手にするというのは、一般的には眉をひそめられる行為であり──それにより、彼はこの娼館で大切に、厳重に囲われていた。彼を求める者たちの金払いは大層なもので、一晩に金貨千枚が動くことも珍しくなかった。

 そんな客の顔も名前も、彼は知らない。

 客が来る前に、いつも目隠しをされるからだ。それが客の訪れをあらわすサインで、彼の心を重くしたが、はずしてほしいとは思わなかった。

 目隠しをしていれば、何も見ないですんだ。相手の顔だけでなく、自分が何をされているか見ないでよかった。与えられる痛みにこぼれる涙も、吸い取ってくれた。

 

 ──シメオン、可愛いシメオン。

 ねっとりと囁かれる声の主の顔など、見たいと思わなかった。

 名を呼ばれる度に、彼は自分の名を嫌悪するようになった。



 望んで受け入れた境遇ではなかった。

 彼の美しかった母親が病に倒れたために取られた処置だった。この娼館の賢姫だった母は、手厚い──不必要なほどに手厚い看護を受けた。その分の金を彼が稼ぐように、と。

 しかし治療の甲斐なく母は亡くなり、娼館の主は彼の人気に気をよくし、莫大な治療費を払えと告げた。

 それが終わったら自由にしてやる、と。

 けれど彼は我慢できなかった。彼を縛っていた鎖である母は亡くなった。

 逃げ出した彼は──しかしあっけなく捕まり、連れ戻された。


 ──逃げ出すような悪い子には、仕置きが必要だね。


 わずかに笑みを含んだような声で、その男は言った。

 押さえつけられた台の上で、彼は、自分の右足首に光る刃物が埋められていくのを目の当たりにした。

 泣き叫んでも、革の帯でできた拘束具は緩みもせず。

 白い台に広がる鮮血と痛みに彼が気を失い、次に目を覚ました時、腱を切られた彼の右足からは歩く力は失われ、代わりに金の足輪と鎖が与えられていた。

 けれど、終わりではなかった。

 

 ──これは痛みをなくす薬なんだがね。

 皮膚に針を突き立てられ、痛みに身悶えする彼の目の前で、男は白い粉の入った小さな瓶を揺らした。

 ──もう逃げ出さないと約束するなら、これを使ってあげよう。

 彼は、泣きながら哀願した。

 もう逃げない、と。なんでもする、と。

 そして薬は与えられ、彼の右足には枯れない薔薇が咲いた。

 

 ──逃げようとは、もう、思えなかった。


 死にたいとは、何度も思った。

 刃物は遠ざけられていたけれど、その気になれば、布で首をくくることはできたかもしれない。

 けれど、怖くてできなかった。

 失敗したら、次は何をされるか分からなかったし、興奮した客に首を絞められたときの苦しさを、彼は知っていた。

 自分で死ぬことができなかったから、彼は、諦めた。

 すべてを諦めて生きていた。


 温暖な気候とはいえ、夜はさすがに多少は冷える。

 けれど、開け放たれたテラスへの扉から見える白い光は美しく、彼はそれをつくづくと眺めていた。

 夜中に誰かが閉めに来るまで──それが、仕事をしなくてもよい証。

 彼は黙って、真夜中を待っていた。


 ──とん、と妙に軽い足音が聞こえた。

 耳慣れないそれに、彼は、はっと息をのんだ。白い光に照らされ、室内に伸びてくる黒い影。そして。

「こんばんはー」

 若干ひそめられた、けれど美しい声と、月光に照らされて波打つ黄金色。

 美しい女たちなら何人も目にしてきた。候補として育てられている少女たちも、美しい娘ばかりだった。

 けれど、彼が目にしてきた中でも、その少女は最も美しかった。実のところ、彼の記憶の中の母親が、彼にとってこれまで一番美しいひとだったが、それよりもなお少女は美しかった。大人になれば、誰もが振り返るほどの美女になるだろうと確信させる、そんな少女だった。

 室内に入ってきた少女は、右手に細い鎖のようなものを下げており、左腕に籠をぶら下げ、柔らかい光を放つ玉を持っていた。物珍しげにくるりと周囲を見回し、そしてすぐに寝台の上の彼に気づいたようで、にこりと微笑む。

「ごめんなさい。もう寝ていた?」

 すたすたと近づいてこられ、彼は少し身じろぎした。なぜだかこの美しい少女に今の姿を──客を待っていた姿を見られたくなくて、視線を周囲にさまよわせるが何もないので、仕方なくぎゅっと三日月琴を抱えた。

 その姿をおびえているととらえたのか、少女は寝台に近づききる前に立ち止まり、再びにこりと笑う。が、その表情はすぐにいぶかしげなものに変わった。

「あれ……あなた、もしかして、男の子?」

 彼は、顔を真っ赤にしつつも、小さく頷いた。

 ──どうしよう。

 恥ずかしくて、いたたまれなくて、たまらなかった。ぎゅっと目を閉じた彼に、そっと声がかけられる。

「怖がらないで、大丈夫。あなたを傷つけるためにきたんじゃないから」

 その言葉に、彼は再びおそるおそる少女を見た。白く光る石が寝台におかれていて、それに照らされた少女は、やはりとても綺麗だった。そして、気遣わしげに彼を見ていた。

「あなたは……ここで、働いているの?」

 答えたくなかったが、彼はためらいつつもうなずいた。少女は彼と同じくらいの年齢のようだったが、彼がここで何をしているかを理解しているようだった。それが分かって、彼はますます身を縮こまらせた。恥ずかしかった。

「借金があるとか? 家族を人質にされて、脅されているとか? それとも、その……薬がもらえるとか?」

 先ほどより少しばかり低くなった少女の声に、ぞくりと何かが背筋をはしり、彼はぶるっと震えた。

「借金は、ある。でも……母さんは、もう、いない。薬は……塗り薬とかなら、たまに……もらう」

 たどたどしく答え、自分の体を抱いた彼は、少女に、頼んだ。

「あの……あまり、見ないで、ほしい……」

「──ごめん。気が回らなかった、似合ってたから」

 ぽろっと彼女の口からこぼれた言葉に、瞬間、目の前が真っ赤になった。彼は思わず叫んだ。

「似合いたくなんかないっ……!」

 思わず琴を寝台に叩きつけ、目をみはる少女に背を向け、彼はぶるぶる体を震えさせながらも、叫んだ。

「嫌だ──嫌なんだ、嫌なんだよっ! ここもあいつらも大嫌いだ! やりたくなかった! こんなことしたくなかった! 僕は女の子じゃない、こんな服なんて着たくない!」

 ほとばしりでたのは、ずっとしまいこんでいた気持ち。

「こんなところに……いたくない!」

 目頭がひどく熱くて、こらえきれずに、彼は泣いた。

 こんなことを言ってはいけないことは分かっていた。

 ──諦めていたのに。

 どうしようもないと諦めていたのに。

「……じゃあ、ここから出ようよ」

 静かな声と共に、彼の背中にぱさり、と布がかぶせられた。

 告げられた言葉に、彼の頭のどこかが冷える。

「……どうやって、さ」

「一緒にそこのテラスから」

「……逃げられるわけない。ここの奴らは金持ってる。すぐに見つかってしまうよ」

「人界ならそうかもしれないけど──魔界には、なかなか追いかけてこられないと思うよ」

「……魔界?」

 聞きなれない単語に、彼は、振り向いた。

 そこには、ただ静かに、まっすぐに彼を見ている少女。

「私はリサ。魔界に住んでる、魔族なの。で、今は協力者を探しに来てるの」

「魔族……って、そんな」

 おとぎ話の話の中の存在だ、と思ったけれど。

 しかし彼の叫び声にも、未だ誰もかけつけてこない。館の中で一番高いところにある彼の部屋のテラスは、そう簡単によじ登れるものでもない。

 余所の国には、魔法使いの学校があるという話を聞いたこともあるが、目の前の少女のような、彼と同じくらいの年齢でそこに入れるとは思えず。

 少女に向き直り、彼は尋ねた。

「ほん、もの?」

「うん。──あなたが望むなら、今すぐにでも連れていける。ここじゃないところに」

 少女はすっと身を屈め、彼の右足を捕らえる金鎖を、いともたやすく引きちぎって投げ捨てた。シャラリという音が小さく聞こえた。

「あなたは自由だよ。一緒に来てくれるつもりがあるなら、名前を教えて」

 その言葉に、彼は、再び、ふいっと顔をそむけた。

「……言いたくない」

「──どうして?」

「……<シメオン>は、弱虫だから」

 だから捕らわれてしまった。受け入れてしまった。負けてしまった。

 彼が一番嫌いな、<自分シメオン>。

 ややあって、少女は言った。

「じゃあ……アージェントっていう名前は? 銀っていう意味なんだけど。あなたの髪はすごく綺麗な銀色だし、銀は悪い物を追い払う力があるっていうから」

 どうかな? と問われ、彼は何度か口の中でつぶやき、こくりと頷いた。

 ──アージェント。……僕の、新しい、名前。

「……うん。いい」

「良かった。……あと、泣かせたのは悪いと思うけど、あなたが可愛くて、その服も今は、似合っていると思うのは一般的な目から見た事実だから謝らないよ」

 きっぱりと言い放たれたその言葉に、彼は少しむっとしたが、少女はあっさりと続けた。

「好き嫌いなくごはんを食べて、きちんと運動してれば、そのうち背も伸びて筋肉もついて似合わなくなるかもしれないけれどね。だから、今は、の話」

 そうなのか、と思った彼だったが、すぐにあることに気づいてうなだれた。

「……でも、僕、歩けない」

「え……どうして?」

「この下、逃げられないようにって、切られてから、うまく動かないんだ」

 少女は黙りこんで、彼が示した足輪をその紫の瞳でにらみつけた。小さく何事かつぶやいてそれをむしりとり、縫合はなされているものの、ひきつれた跡にそっと触れる。

「……撤回するよ。ごめんなさい。あなたが可愛いのは、あなたのせいじゃないのにね。……ちょっと、失礼」

 横座りになった彼の膝を伸ばさせて、少女は傷跡に顔を寄せて。

「……っ!」

 小さな柔らかい唇がそこに触れた瞬間、彼の体に熱がはしった。それとは別に、触れられたところから広がる優しいぬくもりに、こわばっていたものがゆるゆると溶けていくように感じ、彼はきゅ、と眉を寄せた。

 ──どうしよう。……気持ち、いい。

 ややあって──彼にしてみると非常に長く感じられたが、実際は数秒である──少女が顔をあげた。

「これで、歩けるようにはなると思う。でも、長いこと使ってなかったんだったら、うまく歩くためには練習が必要になりそう……ごめん、嫌だった?」

 真っ赤になっていた彼は、ふるふるとかぶりを振った。

「いやじゃ、なかった……」

 むしろ、もっとと思ってしまった。

 その様子を少女は黙ってしばし眺めた後、ふ、と吐息のような苦笑を浮かべて、おもむろに抱え上げた三日月琴を籠の中にするするとしまいこむと、彼に白い手をさしのべた。

「じゃ、行こうか。立てる?」

「……うん」

 シメオンからアージェントになった彼は、怖れることなくその手を取り、寝台からゆっくりと立ち上がった。




 


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