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 部屋の戸口で室内を一瞥いちべつしたリサは、早口で尋ねた。

「アージェントは?」

 彼女の問いに、シグは小さくかぶりを振って応える。

「……まだ、帰ってこない」

 彼の小さな声に、重苦しいものがリサの胸中に広がっていった。

 シグとアージェント、二人の部屋であるここには今、シグしかいない。二段の寝具──眠るときはカーテンを閉められるようになっているが、現在は開けられていて空っぽだ──と、机がある程度で、私物と呼べるような物はアージェントの三日月琴トゥルアくらいしかない、簡素な、さほど広くない部屋。だから一人の不在は、ひどく影響が大きい。

 メルの瘴気を抜いた後、彼女の体調が安定していることを確認するために、明日シグやアージェントに謝ることを約束したり、リサが考えた昨日のお話の続きを披露したりしていたのだが、メルの様子におかしい所は見られなかったので、とりあえず今日はもう大丈夫だろうと判断して、リサはメルの部屋を出てきた。そしてとおりすがりのぴこぴこメイドに、アーネストに寝室に香草茶を持ってきてもらうよう言伝を頼んでから、疲れた頭と体に気合いを入れて、シグとアージェントの部屋に向かったのである。

 できれば今すぐ自室に戻ってばったりとベッドに倒れ込みたいくらいにへとへとで、時間的にも少しばかり遅いのだが、せめて寝る前に一度、謝っておいたほうが良いと考えたからだ。

 しかしそこでは、手持ち無沙汰をを紛らわすためか、シグが一人で教本を片手に、黙々と文字をつづる練習をしていたのである。二人用だからと少し大きめの机の上に、ぽつんと一個だけ置かれた、砂の入った平たい容器が、妙に寂しい。

「どこに行ったか、知ってる?」

 再びリサが問いかけると、シグは困ったような、どこか泣き出す前のような表情でかぶりを振った。

「……知らない。ついてくるなって、言われた」

 リサは、唇を引き結んだ。

 なぜそこでアルを一人にするんだと、シグを責めるのは筋違いだ。二人だから、大丈夫だと思ったけれど──まだ早すぎたのだ。シグはそこまで強くないし、アージェントはまだシグを信頼しきってはいない。

 ──失敗、だったかも。

 後悔はつのる。けれど、今はそれよりも、アージェントを探して、謝らないと。そう思って身を返しかけたリサだったが。

「……リサ。アルに言ったのは、どういう、意味?」

 シグに投げかけられた問いに、リサは首をかしげた。いったいどの言葉のことを言っているのだろうと訊き返す前に、言葉足らずに気づいたのか、シグは付け加えた。

「……あなたは綺麗だよ、って、言ってた。あれは、アルが優しいって、意味だと、思ったんだけど──アルは、違うって」

 リサは、少し考えて、訊き返す。

「アージェントは、他になんて言ってた?」

「……言いたくない、って」

 その答えに、リサはためらいながら、口を開いた。

「アージェントがそう言うなら、私も、言いたくない」

 シグの困惑したような表情に、かすかに別の色が混ざる。これは、不安、だろうか。それとも──不満だろうか。彼の顔を観察しながら、リサは慎重に続けた。

「──あの、ね。アージェントが、ううん、皆が、ここに来る前、どんな風に暮らしていたかっていうのは、皆が、それぞれ、教えてもいいと思った人に、言えばいいと思うの。だから、アージェントが言いたくないってことは、アージェントがあなたに秘密にしたいことで、それを私の口から言うのは、良くないことだと思う。だから、言いたくない」

 リサの言葉を、シグは理解はしたのだろう、こくりと頷くが、そのまま顔を伏せてしまう。

「……おれが、……言っても、分からないと、思ったのかな」

「そんなことはないよ」

 リサは足早にシグに歩み寄り、その両手を取った。はじかれたように顔を上げる彼を見上げ、その目を見つめて言い聞かせる。

「自分にあった嫌なことを、人に言える人もいるけど、そうじゃない人もいるっていうだけだよ。アージェントは、人にあまり弱みを見せたがらない性格みたいだから。……でもね、シグ。私、あなたたちに──あなたとアージェントに、聞けるような間柄になってほしいと思ってる。何でも相談できたり、言えたりするような、友だちに。弱いところも、ちゃんと支えあっていけるような風に、なってほしいと思ってるの」

「……なれる、かな」

 シグは不安そうに、きゅ、と眉を寄せた。

 ──ここは頷くところだよね。多分とか言っちゃだめなところだよね!

 逃げてはいけないという理性の命じるままに、リサは笑みを作って大きく頷いた。

「なれるよ、きっと」

「……うん」

 ようやくわずかに緩むシグの表情に、リサは微笑みながらも内心でほっと息をつく。

 ──二人に、友だちになってほしいとは、思ってるけど。

 本当は、何でも言える間柄がいいとは思っていない。親しくなればなるほど、見せたくない部分というのが出てくることもあると思っている。大切だから、嫌われたくないからこそ、隠しておきたいところが。

 しかし現在とても疲れているリサには、それを上手に伝えられる自信がない。頭がきちんと動いていないのが分かる。そんな状態で迂闊な発言をして、シグの懸念をこれ以上大きくしたくないのである。言ったらだめだと以前に言ったから、シグは口にしなかったけれど、口ごもった時に、おそらく、自分がばかだからと言いたかっただろうから。そういうわけでは、ないのだから。

 ──こうやって、大人は嘘をつくんだな。

 アージェントには本当のことを言って、シグに嘘をつくことに、苦い物が胸中をよぎる。今日一日で思い知らされた自分のずるさを、見ないふりをしたいけれど、大人はそれをしてはいけないのだろう。

 ──いずれ、嘘つきと責められる覚悟をしよう。

 そして自分がその時どうするべきかを、考えておこう。

 そう意を決して、リサは口を開いた。──ここに来たもう一つの目的を果たさなければ。

「あと、ね。メルの、ことなんだけど。……さっきは、すぐに止められなくて、ごめんなさい」

 手を胸元に持ち上げ、合掌するような形をとりながら、リサは謝った。シグの手を取ったまま。

「メルもね、ちゃんと反省してた。メル、髪短いの気にしてて、アージェントの長い髪がうらやましかったんだって。だから、シグに言われてアージェントが髪を切っちゃったのが、悔しかったんだって、言ってた。もう遅いから、謝るのは明日にしようってことにしたけど、明日きちんと謝るから、その時は許してあげてくれないかな」

「え、うん……」

 曖昧な感じで頷くシグの鳶色の目をひたと見つめて、リサは続ける。

「ね、お願い。許してあげるって、言ってくれる?」

 ──できれば、言質げんちが欲しい。

 言葉にするとしないのではかなり違う。たとえ本心でなくても、一度言葉にしたことを撤回するのは、心理的負荷がかかる。子どもたちの間に波風立たせたままなのは今後に差し障るだろうし、友だち(重要ワード!)のメルのためにも、ここはどうしてもシグから「許す」という言葉を引き出しておきたいところなのだ。

 きゅ、とシグの手を握り、じっと彼の目を見つめてシグの答えを待つリサに、彼はややあって頷いた。

「……ゆ、許す、よ」

「──ありがとうっ」

 思わずこぼれる安堵の微笑み。リサはするんと手をほどいて、シグの細い体に抱きついた。

「あ、う、うんっ……」

 抱きつかれたシグが耳朶を染めるのには気づかず。

 ──これで多分メルが謝ったときも大丈夫かな! ちょっとはデコボコ減らせたと思うけど。

 初めての友だちのために自分にできることがあることはいいことだーと喜んでいるリサは、自分のやっていることが、端から見たら「好意を持たれている相手に手取りうるうる眼で可愛くおねだり&叶えられたら可憐に微笑みプラスぎゅー」という、大変罪作りな、ありていにいえば小悪魔的行為であるなどとは、全然、認識していないのだった。



 シグに先に寝ているよう促して、二人の部屋を出ると、そこではぴこぴこメイドが二体、小さな手足を動かしながら相談らしき行動をしているところだった。リサに気づくと、てててっと寄ってきてそろってリサを見上げる。

 ものいいたげな彼女たちだが、その様子を訊く前に、リサは早口で問うた。

「アージェントがどこに行ったか、知ってる?」

 こくこくと頷いたぴこぴこメイドの一体が、いそいそと小さな体で精一杯大きな四角を描き、その真ん中の高さあたりを押し開けるような動作を示してみせた。そのジェスチャに少々リサは考えこむが、すぐに息をのむ。

「まさか、外に行ったの?」

 大きくもう一体のぴこぴこメイドが頷き、目の下に両手を当てて少しうつむいてみせる。──この仕草は。

「泣いていたの?」

 こっくり。同時に大きく頷くぴこぴこメイドたち。お行きくださいといわんばかりにぴこ、と掲げられた小さな手が、正面玄関のある広間側を示すとほぼ同時に、リサは身を翻して走り出した。

 ──そんな。普通の人間に、外は危ないのに。

 ゼスだってそう言ってたじゃない──不安にさいなまれながら廊下を全力で駆け抜け、吹き抜けになっている所でちらりと階下を確認したリサは、目当ての人物を見つけて、勢いよく手すりに飛びついた。

 ゆっくりと広間を歩く銀の髪の少年の名を、思わず叫ぶ。

「アージェントっ」

 その声に、慎重に歩を進めていた彼は、ゆるりと顔を上げた。

「……リサ」

 唇が動いて彼女の名前をつむぐが、距離がありすぎる。遠目に異常は見られないが、泣いていたというし、とにかく近くで様子を見ようと判断したリサは、階段を駆け降りるのももどかしく、手すりを飛び越えて──今だけだからと心の中でアーネストに言い訳をして──白い部屋着の裾を揺らしつつ軽やかに着地し、そのまま彼に駆け寄ろうとして──はたと気づいた。

 ──先ほどの状況では、まだ怒っているかもしれない。

 リサは、数歩の距離を開けてぴたりと立ち止まり、アージェントの様子をうかがった。

「……リサ?」

 突然の停止を不思議に思ったのか、首をかしげて再度リサの名前を呼ぶアージェント。その顔には、険悪な様子は見られない。けれど。

 ──どこか、雰囲気、違ってる?

 髪を切ったせいだろうか。女の子のような顔立ちはそのままなのに、顔つきがどこか違って見えるのは。

 ただ、その水色の眼がまっすぐに自分を見返してくるので、あまりまじまじと観察するのもはばかられて、リサは少し視線を落とした。なにせ今からするのは先ほどの言い訳である。特に今回は圧倒的に自分に非があるわけで、真正面から見る勇気は、なかなかでない。

「あ、あのね、さっきのはね。そのう……アージェントとかとは、友だちになりたくないってわけじゃなくて、その、同じくらいの歳の同性のお友だちって、特別というか、前から憧れだったというか……」

 しどろもどろになりながらも説明を開始するが、口をつく内容が自分でもあきれるほど断片的である。謝らなければいけないという勢いで来たものの、これでは全然納得できまい。

 ──うう、もう少し何言うかきちんと考えてくるんだった。

 いかんなぁ、と思いつつリサはちらりとアージェントの様子を窺うが、彼は怒っている様子を見せていない。それどころか。

「──うん。協力者候補だもんね、僕たちは」

 やたらと凪いだ声。そこには何の皮肉の色も感じられない。

 ──なんで、怒ってないの?

 この穏やかさが、かえってなんだか怖い。そう思いながら、リサはおそるおそる尋ねた。

「あ、あのう……お外で、何か、あった?」

「うん。……ゼス先生と、話をしてた」

「ゼスと?」

 ──何なのだ。いったい何を吹き込んだのだ。

 ゼスがあることないこと吹聴する輩ではないのは承知しているが、事実だったら結構あっさりしぱっと言っちゃうタイプだとリサは認識している。アーネストの前ではかなり猫を被っているリサだが、ゼスの前ではミアンとの初対面のときのこともあり、隠す必要性をあまり感じなかったので、つい地が出てしまっていて──そういった過去の所行をバラされたために、あきれ果ててしまったとかそういうことなのだろうか。

 しかしそのわりには、アージェントの表情に軽蔑の色が含まれている様子はない。

 できることなら事情聴取を行いたいところだが、いかんせん現在立場が弱いのは自分の方だ。今度ゼスから何話したのか聞き出そう、と脳内やることリストに追加して、やや目を伏せつつ、リサは口を開いた。

「ええと、ね。……シグのこと、せっかくかばってくれたのに。お願いしたの、私なのに。……ごめんね」

 ここにいるのが嫌になったら、元の居場所に戻す計画ではあったが、そういう訳にもいかない。かといってどこにでも置いてくるわけにもいかないから、もう少しここにいてもらいたいが、気分の悪いままで過ごさせるのも申し訳ない。怒っていないように見えるとはいえ、何を考えているのがさっぱり読めないのだ。我慢しているだけかもしれない。

 だとしたら、機嫌を取っておくに越したことはないだろう。

 ──安易な手段だと、思うんだけど。

「だから──その、お詫びって言ったら、なんだけど。何か欲しい物あったら、何でも言って?」

 リサとしては、物で釣るというのは、正直なところあまり良くない手段だと思っているのだが、他の良い方法を思いつかない以上致し方無い。

 ただ、この世界の男の子はどんな物を欲しがるのか見当がつかない。おもちゃとかは、そのもの自体を見たことが少ないだろうから、やっぱりお菓子とかだろうか。さほど好き嫌いは見せていないけれど、アージェントは何が好物なんだろうかと、リサは頭の片隅でぼんやりと考えながら彼の答えを待った。

 だから。

「……何、でも?」

 微妙にこれまでと調子の違う彼の声。妙に平坦な──強い感情を押し殺したためにそうなってしまったかのような──声よりも、その内容に気を取られたリサは、慌てて両手のひらを振った。

「あ、あんまり無茶なのはできないよ! 一個だけ。あとその……皆と遊んだりすることができるようなものなら良いんだけど、そうじゃないなら、皆には黙ってる、あんまり見せびらかさないって約束してもらえたら」

 いいんだけど、と続けようとしたリサは、すっと距離を詰めてきたアージェントに言葉を止めた。

「物じゃ、なくて。リサに、してほしいことなら、あるんだけど」

 ──私に、してほしいこと?

 きょとんと見つめたアージェントの表情は穏やかなのに、なぜだろう──彼の水色の瞳の底が、ちっとも見えない。心の奥が妙にざわざわするのは、罪悪感のせいなのだろうか。

「うん、ええと、何かな? 私にできることなら、するよ」

 こくんと頷くリサの右手を、アージェントはやんわりと握る。冷たいその手にリサがふと目を落としたところへ、銀色の髪の少年は告げた。

「体、洗って欲しいんだ」

「…………………………え?」

 反射的に見返した彼の顔は、とても真剣だった。冗談を言っている様子には、見られない。

「な……んで? さっき、お風呂入ってたよね?」

「……僕が綺麗ではないから──汚れているから、リサは僕と友だちになりたくない、っていうわけじゃ、ないんだよね?」

 ゆっくりと、確かめるような問いかけを、リサは大きくかぶりを振って慌てて否定した。

「そんなことないよっ! アージェントは全部綺麗だよっ。それにね、その、友だちになりたくないっていうわけじゃなくって、ええっと、その……」

「──信じたいんだ。だから、リサに洗って……綺麗にしてもらいたいんだ。そうしたら……」

 途切れた言葉。信じられると思う、といわんばかりに、リサの手を握る彼の手に少し力がこもった。ひたとリサを見つめてくる水色の眼差しが、リサに突き刺さる。

 ──やっぱり、気にしてたんだ……。

 もっと早くメルを止めなければならなかったと思うけれど、言っても遅い。止められなかったことを申し訳なく思う。

 しかし彼が求めるその行為には結構大きな問題があるわけで!

「い、いやでもね、あの、アージェント、男の子だし……」

「……でも、シグには頼めないし。リサには、あの恰好見られてるから……まだ、恥ずかしくない、し」

 ──そ、そうかもしれないけれどっ!

 いやでも子ども同士だったら大丈夫なの? 私が気にし過ぎているだけなの? 信用されてるってことなの? てっきり嫌われちゃったかと思ったけどそれはそれでありがたいことなのかもだけど、でも信用されてるからってやっていいことなの? 私中身大人だよ? 外側子どもだったら大丈夫なの?

 勘弁してくれ、という言葉と共にぐるぐると高速で同じ所を回る思考。そこにアージェントはもう片方の手を重ねてリサの手を包む。冷たいそれが、彼が外で悩んでいただろう時間の長さを伝えてきて、リサはうっと息をのんだ。

 彼の水色の瞳は、じんわりと潤みを帯びてきており。

「……やっぱり、僕が、汚れているから、嫌?」

「ちがっ、そうじゃないよっ」

 それはない。絶対にない。

 けれどリサ以上に色々実体験をしてきたであろうこの少年は、人が嘘をつくのを知っているのだ。だから、言葉だけで否定したところで──だめなのだ。

 たまらず、リサは、こう言っていた。

「わ、分かったよっ。お風呂、行こうっ」



 数分後。

 風呂場ということもあり、濡らさないように部屋着を脱いでシュミーズ姿になったリサは、床に膝立ち状態でがっしゅがっしゅと洗い布をこすりあわせて泡立たせつつ、うつろな目で自らの行動の正当化を図っていた。

 ──やむをえなかったんです。

 何でも言えと言ったのは私です。できることならすると言ったのも私です。あとこれは保護者的行為であってやましい気持ちはなんら持っておりません。だからこの動悸は慣れないことをするための緊張でありっ……!

「──温まったよ、リサ」

「へ、あ、うんっ」

 かけられた声に裏返った声で返事してしまい、さらに加速する動揺。必死で自分に言い聞かせる──落ち着け、落ち着け、落ち着いて──いられるかああああああ!!!!

 心のちゃぶ台を三つほどひっくり返しても、冷静さは戻ってきてくれない。自己正当化もできそうにない。いつもなら癒される、はちみつ入りでほんのり甘い香りのする石鹸も全然役に立たない。どう考えても取り繕ってもこの状況はおかしい。おかしいのだけれど。

「これに、腰掛けて」

 自分の側にある低い木の丸椅子を示して、リサはできるだけこっそり深呼吸しながらアージェントの方に向き直った。

 とりあえず冷えた体を温めるためにと、お湯に浸からせた彼の体は、ほんのり赤みを増している。腰に手ぬぐい一枚巻いただけだからよく分かる。分からないのは自分の心理である。

 ──おかしいよ、私ショタコンじゃないはずなのに!

 出会った時のアージェントの恰好もかなり扇情的なものだったと思う。けれどもちっともときめかなかった。

 なのに、何故今はどぎまぎしているのだ。露出が大幅に増えているせいなのか。アージェントが不必要なくらい過剰にまき散らしている色気のせいなのか。だとしたら。

 ──私、ひょっとしたら、よくじょー、してるのかなぁ。

 それはリサにとって、単語は知っているものの、なじみがなさすぎて実感の伴わない感情の名前だ。

 でももしもそうだとしたら、アージェントに対してどうしようもなく申し訳ない。子ども相手にそんな欲望を持ってはいけない。いいはずがない。

 なのに自分の感情すら分からない状態で、彼に触れていいのか。それは彼の信頼を裏切ることにならないのか。

 まっすぐにアージェントを見ることができずに、リサは視線をさまよわせる。けれど。

「……リサ?」

 おずおずといった風に、椅子に座ったアージェントがリサの腕に触れてくる。反射的に見返した彼の表情は不安そうで──今逃げたら、もう彼は自分を信用してはくれまい。

 それともこの思考すら、彼に触りたい自分への言い訳なのだろうか。分からない。けれどこのまま放置しておくわけにもいかない。風邪をひいてしまう。

 だからリサは、とても無理矢理ではあるが、アージェントに微笑んで見せた。

「──腕から、洗うね。痛かったら、すぐ言ってね」

 そして「私はおかん」と自らに言い聞かせながら、彼の腕をそっと取って洗い始める。

 華奢な少年の体だ、そう大して時間はかからない。両腕、背中、胸部、腹部とアージェントの白い体を泡が覆っていく。おへそに達するあたりではリサはそれなりに余裕を取り戻していた。

 ──大丈夫大丈夫メルとおんなじ感じ。

 違いがあるとすれば、体の前面を洗う際、メルの場合は後ろに座って抱きしめるような形で洗っているのだが、アージェントの場合は彼の右横に座って洗うような形になっていることくらいだ。だから体の左側を洗おうとしたら、少々手を伸ばして前かがみになる必要がある。

 上半身を洗い終え、リサは一息つくため身を起こした。

 ──あとは、足洗って、終わり。

 そう思っていた、のだが。

 ふう、と息をついたリサの前で、これまで従順に、なされるがままになっていたアージェントが、おもむろに膝を床につき、両手も床について、四つん這い状態になる。

「……え?」

「──座ってたら、洗いにくいよね?」

 思わず漏れた声に、アージェントは当然のことだと言わんばかりの様子で応える。

 ──いやあのまさか。

 リサの中で急激に膨れ上がる焦燥など全く気づかぬ様子で、アージェントは首をかしげた。腰の右横にある布の結び目に手をやり──。

「これ、外した方が、洗いやすい?」

 ──っひいいいいいいいっ!?

 ぶわっと吹き出る冷や汗と跳ね上がる心臓。漏れそうになった悲鳴を胸中に無理矢理押しとどめることには成功したものの、受けた衝撃になぎ倒された思考はなかなか元には戻らない。

「まっ、そっ」

 待ってくださいそこは想定外です予想外です普通他人に触らせるところじゃありませんと言いたいのだが、口がまともに動いてくれない。

 あうあうと無駄に口を開閉する目の前でアージェントが結び目に触れると、少々緩んでいたのか、それは簡単にほどけ、ぺろんと前側の布が垂れ、彼のそれが開帳──される寸前に、リサは洗い布をべしょっと床に叩きつけるように手放し、電光石火の早業で布の両端をつかんできゅっと結ぶ。──見てない! 見てないよ! 見てないったら!!

「大丈夫だから! ちゃんと洗えるからつけてて!」

「……うん、分かった」

 恥ずかしそうに頬を染めながらも小さく頷くアージェントと対照的に、はっと息をのんだリサの表情はひきつった。──今私、やるって言ってしまったようなものだっ……!

 頭の中でびーっびーっと鳴り響く警告音。脳内裁判は高らかに判決を告げる──有罪ギルティ、有罪、有罪!! 分かってますどうみてもアウトですそもそもメルのだってそこまで洗ったことないのに!

 いやそういう問題じゃない、やっぱりおかしい、そういうのは普通好きな人にやってもらうことであって自分がするべきことじゃあないんではなかろうか!

 そう判断したリサは、衝撃でよれよれの頭のままではあるが、懸命に説得を試みた。

「あ、あのね、アージェント、そこは、その……大事なところだと、思うんだけど」

「……リサ、嫌?」

 ──いや嫌とかいうのはアージェントの台詞であって、私がどうこう言うことじゃ……あれ、いいの? だめなの? っていうかこのままだとまた自分が汚れてるからって言い出しかねないよ? でもここじゃセクハラって言っても通用しないよ多分そんな概念ないよ? 正確にはセクハラ・シャラスメントだっけ? あれなんか違う?

 大混乱に陥った頭はまだ回復しきっておらず、思考は高速ながらも現実逃避ぎみに無駄なところを空回りするばかり。さらに。

「お願い……」

 きゅ、と寄せられた眉に上目遣いの水色の瞳は、少年とは思えない色香をだくだくと溢れさせつつ、潤みながらじっとリサを見つめており──ああああ卑怯だと思います上目遣いは卑怯だと思います!

 アーネストが聞けば「嬢様がおっしゃいますか……」と言うようなところだが、リサにも言い分はある。──だってこれまでされる立場になったことがなかったんだもん……! 

 既にリサの処理能力いっぱいだったところに、駄目押しとばかりに食らった泣き落とし。おかしいまずいやばいとがなりたてるだけで、ちっとも打開策をひねり出せない役立たずな脳内倫理委員会に代わり、リサの防衛反応はとにかくさっさとこの状況を終わらせてしまえと彼女の体に命じる。

 それに促されるまま、リサは先ほど取り落とした洗い布を拾い上げた。小さく、手が震えるが、ぎゅっと布を握りしめる。

 ──どうか、している/アージェントがやってほしいっていった。

 彼の後ろに移動し、そっと太ももに洗い布を押し当て、そのまま上へ滑らせる。

 ──まちがって、いる/なかれるのは、こまる。

 視線を手元に落とせない。アージェントが自分の様子をうかがうのが分かるが、彼の顔もまともに見られない。肩胛骨のあたりだけを見つめて、リサは手を動かす。

 ──こんなの、ゆるされない/もうやだ、つかれた、さっさとねむりたい。

 面積でみればたいして広いわけではない、でこぼこしていて洗いにくいだけ。手触りは感じない。ぜったいぜったい、記憶しない。幸いなことに、心臓の音がうるさい程頭に響いて、諸々の感覚を遮断してくれる。彼が小さく「んっ」と声を漏らしてぴくん、と体を震わせた時にはつられてびくりとなったけれど、それ以上の思考を強制的にシャットアウト。機械的に手を動かせば、すぐに終わる。

 布の下が終わったので、足に移行。右足の薔薇は思わず何回かこすってしまうけれど、四回目で落ちないのだと思い至り、左足へ。ふくらはぎ、すね、くるぶし、かかと、それから爪先で──完了。

 そしてシャワーで彼の全身の泡を流し終えると、リサは──すぐさま体の向きを左に回転させてべたっと両手を床につき、大きくうなだれた。

 ──ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!

 自分でもどこに謝っているのか分からないまま、それでも謝らなければならない衝動に駆られ、リサは心の中でごめんなさいを繰り返した。せき止めていた思考と感情は、押さえつけた分だけ反動をもって彼女に襲いかかり、打ちのめす。

 ──やってはいけないことを、した。

 それは確かだ。言い訳を重ねたところで、やってしまったのはリサなのだから。本当は触りたかったからやったんだろうと言われても、それは違うと断言できる材料がない。

 ──私、大人なのに。アージェントは、子どもなのに……っ。

 今してしまったことが、多分、「好意につけこんだ」という奴なのだろう。

 ──でも! ……もうしない。絶対絶対、しない。

 胸中で固く、決意して。でも。

 ──どうやって、償ったらいいんだろう。

 二度としないという誓いだけで、いいんだろうか。

 顔も上げられずに煩悶するリサだったが、その髪をそっとかき上げる手にびくりと身をすくめた。

 けれど、次に訪れたのは──頬に、柔らかい感触。

 ──え。

「……ありがとう、リサ。我がまま言って、ごめんね。でも──嬉しかった」

 耳元で囁かれた言葉に、リサの体から力が抜ける。まったく現金なことだと思いながらも、それでもどこか気が休まったのは確かだ。けれど自分への戒めもあり、リサはいやいやいかんいかんと小さくかぶりを振って身を起こす。

 リサの隣にぺたりと座るアージェントは、言葉通り、嬉しそうな、柔らかい笑みを浮かべて彼女を見ていた。

 ──嫌われては、いないん、だろうなぁ。

 多分、それなりに、好かれてはいるんだろう。──ほっぺたにキスされる程度には。

 ぼんやりとそう思いながら、リサはもぞもぞとアージェントに向き直る。

「綺麗に、なったから。──もう、言わないでね」

 何をかは、言う必要がないだろう。その予想通り、小さくアージェントは頷く。

「……うん」

 素直な返事にとりあえず安堵したリサは、ついでしかつめらしい表情を作った。自分がやっておいてなんなのだが、さすがに一言、きちんと言っておかなければならないだろうと思ったのである。

「それから、ね。あの……こういうことは、本当は、好きな人にやってもらうことだからね。簡単に、誰にでもさせたら、だめなんだからね。分かった?」

「──うん。分かってる」

 あっさりと頷くアージェント。あまりにあっさりしているので、リサは本当に分かっているのかと彼の表情をうかがってしまう。それに気づいたのか、何か? と言いたげに首をかしげる彼に、何でもないとかぶりを振って立ち上がり、右手を差し出す。

 リサの手を取り立ち上がったアージェントは、ちょん、ちょん、ちょんとリサの体の三箇所にもう片方の指先で触れた。左頬、二の腕、腰の横。

「なぁに、今の?」

「うん。……仲直りの印」

「へぇ……そうなんだ」

 ──そういう風習があるのかぁ。

 これまで聞いたことがなかったが、世界は広いのだ、おかしくはない。多分アージェントが住んでいた所独自の風習なのだろう。そう納得したリサは、おかえしをすべきだろうと思い、同様に彼に触れた。

 左頬、二の腕、腰の横。

 途端にアージェントがとろけるように嬉しそうな笑みを浮かべるので、多分間違っていないのだろうと安堵しつつ、リサは笑みを返した。──それにしてもアージェントがあんまりにも無闇やたらに色香を振りまくのはどうにかならないだろうか。無自覚だろうから言っても意味がないかもしれないが、大きくなってからでもそんな感じだと色々まずいのではなかろうか。勘違いする人がでてきてしまうのではなかろうか。このままだとアージェントのお嫁さんになる人は、多分きっと大変だ。

 他人事として頭の片隅で呟き、リサはアージェントが歩くのに手を貸して脱衣所に向かいつつ、小さくため息をついた。

 ──今夜は、反省会だ。

 もうしばらく、眠れなさそうだった。



 ◆ ◆ ◆


 

 アルがまだシメオンだった頃。

「我がことのように、語るんだよ」

 彼に物語を伝えた老婆は、彼にそう教えてくれた。誰かに物語るのなら、その話が自分に起きたことのように語るのだと。嘘っぱちの作り話も、そうしたら本当のように聞こえると。

 物語ることが、今アルが持っている武器。

 だから彼はかたった。

 嘘を道具に。リサの認識を逆手に。

 彼女が、彼が己の過去を気にしていると思っているなら──それを可哀想だと思っているのなら、その哀れみにつけこませてもらう。傷ついた者に優しくするのなら、彼は傷ついたふりを装ってやる。

 彼女が彼の母親のつもりなら、今はまだそれでいい。彼はまだ見た目はどうしても子どもだ。それならば、母に甘えるように、彼女に触れてもらってもいいということだから。その腕に抱かれ、その胸に顔をうずめることに、喜びこそあれ厭うことなど何もない。

 ──だから、今回は、なかなかうまくいったと思う。

 服のボタンを留めながら、アルは、とろりと水色の目を細めた。

 瞳を潤ませて、頬を赤くしながらも彼を洗ってくれた下着姿の彼女は、無防備で、本当に可愛らしくて──彼のどこかが、熱くとろける感じがした。嫌悪というよりも恥ずかしさのために気が進まない様子だったから、強く拒絶されたらすぐさま引くつもりではあったけれど、最後までやってくれたのは嬉しい誤算だった。

 終わった後の様子だと、もうしばらくはやってくれなさそうだけれど、ゼスに焦るなと言われていることもある。逃げられる訳にはいかないから、しばらくは様子を見ればいい。

 それから。

 ──こういうことは、本当は、好きな人にやってもらうことだからね。簡単に、誰にでもさせたら、だめなんだからね。

 彼女の言葉を思い起こし、彼は口元をわずかにほころばせた。

 ──分かっている。だから、好きな人にやってもらうんだ。

 誰にでもさせる気など毛頭ない。

 彼女にだけ、してほしい。

 彼女にだけ、したい。

 脳裏に、白い泡に包まれた彼女の姿を描き、アルはうっとりと微笑んだ。──今日の様に頬を赤らめる彼女は、きっとどうしようもないほど可愛らしい。

 その想像は、彼の胸を高鳴らせる。

 ──リサ。僕の最愛の君(シェルニル)

 優しくて綺麗で、でもひどくてずるい女の子。

 ひどくても、ずるくても、いいよ。

 ──僕が、もっとずるくなるから。

 先ほど彼女が触れた左頬に、アルはそっと人差し指を置いた。そのままつ、と横に滑らせれば、それはちょうど下唇をなぞる。

 視界の端には彼女の小さな後ろ姿。流れ落ちる美しい金色の髪を捉えて、彼はその秀麗な容貌に、妖艶としか形容できない微笑を浮かべた。

 ──油断していて。

 次は、僕が、する番だ。

 



 


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