Plan 計画をたてましょう
水晶の中にともる光に照らされた部屋で、リサは一生懸命書き物をしていた。時折その小さな手が止まり、紫水晶にたとえられる瞳が宙をさまようが、それもわずかの間のこと。すぐに視線は机上の紙に戻り、インクを付け直して羽ペンを滑らせる。その仕草で、彼女の幼いながらも美しく整った顔を縁取る黄金色の巻毛が、かすかに揺らめいた。
乙女と称するにはまだ早い少女の、小さく華奢なその背に流れる腰程までの髪は、結い上げずとも豪奢で美しいと賛辞を受けるものであるが、今は無造作にリボンで一つに束ねられている。その身を包むのは柔らかな薔薇色のドレス、しかしその右袖にはインクにじみ。付着に気づいた時に拭き取ろうとしたのだが、かえって広げてしまったものだ。
革張りの装丁がなされた重厚な本が並ぶ大きめの机の上には、書き上げた紙がインクを乾燥させるために広げられている。そこに書かれている流線型の文字と、彼女の左手側に置かれた小さい紙を埋める、直線を多用した文字とは、明らかに異なるものだが、彼女は時折その小さい紙に目を落としながらペンを走らせる。
そして最後まで書き終え、始めからざっと目を通すと、満足したかのように大きく頷き、リサはよいしょとその背からは少し大きな椅子から降りた。そこへノックの音が響き、彼女は「どうぞ」と応える。
「ずいぶんと根をつめておいででしたな、嬢様」
入ってきたのは、砂色の混じる白髪を後ろにきちんと撫でつけた男。目尻に刻まれた皺や口元を覆う整えられた白い髭は、彼がそれなりの年齢であることを示しているが、燕尾服に包まれたその背は伸びて、老いの衰えを感じさせない。
部屋の入口側に置かれた小さな円卓に、用意してきた焼き菓子や茶器などを並べていく彼に小さく頷くと、リサは先ほどまでせっせと書いていた紙を手にして近寄った。お茶をカップに注ぎ終えるのを見計らい、ひょいとそれを差し出す。
「良い香りね。ありがとう、じいや。……ま、座って、これを読んでほしいの」
じいやと呼ばれた彼がそれを受け取ると、リサは椅子に座り、カップに口をつけた。温かい茶にほっこりと微笑むその姿はひどく愛らしいものであり、じいやことアーネストは目尻を下げたが、渡された書類に目を落とした彼は、その見出しに軽く眉を寄せた。
「……協力者育成計画……?」
「うん」
こっくりと頷くと、リサは無造作に手を伸ばして焼き菓子を取り、一口食べて顔をほころばせる。常ならば主のご機嫌なその様子を微笑みつつ見守るアーネストだったが、彼は何度も書類とリサの顔を見比べ、珍しいほどの動揺を見せた。
「……嬢様」
「なあに? 分からないところ、あった? ちゃんと理由も書いたつもりだけど」
確かにきちんと書いてあった。人界は身元が不確かだと上流階級で雇用がなされにくいこと、そのためそういうところで働くためには身元保証人となる者が必要であること、なるべくその保証人とは信頼関係を築いておいた方が、彼女の素性がバレたときにもやりやすいこと。丁寧な字で書かれたそれは共通語、決して読めないものではない。しかし。
「……嬢様。──いえ、リーシャディエト・シェルニル=フィール・リグ・ディナレンス様」
リサの正式名を口にし、アーネストは小さな主を見た。
「この魔界の筆頭たるディナレンス公爵家のご令嬢である貴女様が、なにゆえ人界で雇用されなければならないのでございましょう?」
常になく困惑の表情を隠せないアーネストに、彼の主は重々しく頷いた。
「そう。ちょっとあの人が偉すぎるのよね」
ちょっとどころではない。御前会議の六貴族に名を連ねるディナレンス公ハーヴェルカディス、由緒正しき魔人族の長にして魔王陛下の側近たるその人がリサの父親だ。
しかし彼女は、決して彼を父とは呼ばない。
言葉を発するようになり、初めて対面した時も、当時三歳のリサは「パパですよー」と笑み崩れるハーヴェルカディス──外見年齢は人間換算で二十五歳程度、超絶美形かつ冷酷非情と名高い彼には大変珍しい表情であったのだが──に、丁寧な口調ではあるが、硬い顔つきで言い放ったのだ。
「申し訳ありません、あなたを父と思いにくいので公爵閣下とお呼びいたします」
ちなみにその言葉で凍り付いた公爵の表情など史上初モノのレアさ加減であった。以降、どれだけ言い聞かせてもなだめても頑として譲らないリサに、結局アーネストは諦めたのだが、公爵本人は未だにパパと呼ばれる野望を抱いている様子である。
閑話休題。
「あの人は私をまおーさまの妃とかにするつもり満々みたいだし。別の公爵とかのところに潜り込もうと思っても、魔人族って人数少ないから、顔が割れたらすぐ分かるみたいだし。そうすると魔界だと私を雇ってくれそうな所はなさそうでしょう? だから」
リサの返答に、アーネストは小さくため息をつき、内心でひとりごちた。
──「賢い」公爵様にしては、ずいぶんと迂闊な失敗をなさったものですな。
四年前の事件の折、血相を変えてかけつけてきた公爵が漏らした言葉を、リサは聞き流してはくれなかったらしい。
「魔王陛下が、お嫌いでございますか?」
「会ったことがないから分からないけど怖いしあまり会いたくないし……とりあえずお妃様って面倒そうだし」
おそらく最後が本音だろうとアーネストは思った。彼の嬢様はその気になれば──例えば公爵の前であるとか──公爵令嬢にふさわしい淑女のふるまいを完璧にやってのけるが、基本的にはその美少女然とした姿を裏切る無駄と面倒が嫌いな合理主義者で、かなりざっくりな性格である。──それでも非常にお可愛らしいのだが。
アーネストは、再び手元の書類に目を落とした。できるかどうかはさておき、主が何を真に望んでいるか把握するのが彼のつとめ。
どうやら彼の主は、人界の上流階級──王侯貴族の元で雇用されようとの意向である。嫁ごうとしているわけではない。つまり。
「侍女になることがおのぞみでございますか?」
「うん」
頷いて、リサはお茶を一口。
「まあ、まだ、この形だから。今すぐどうこうというわけじゃないわ。子供の内から特別教育しておいて、がんがん出世してもらって、私が大きくなった時に身元保証人になってもらえば都合がいいでしょう。教育には時間がかかるものだし」
御年十歳の彼女は、現在の外見は人間の十歳とさほど変わらない。純粋な魔人族は、成人するまでは比較的人間と同様に外見が成長していき、成人してからはきわめてゆっくりと歳をとる種族だ。
アーネストが書類のすべてに目を通し、深々と息を吐き出すと、それを見て取ったリサはカップを置いて姿勢をただした。
「私一人だと手に余ることで、じいやには何の得もないことなのは分かってるの。でも、お願い……協力してもらえないかな?」
その上目遣いの表情は卑怯でございます──内心で呟き、アーネストは再度深く息をついた。その愛らしさが彼の心をがっくんがっくん揺さぶるのだが、何より彼の大切な主君である嬢様は、やると決めたことはいかなる手段を用いてでもやりとおそうとするのだ。彼女が誕生して十年、産まれたときから彼女を見守りつづけてきたアーネストはよく分かっていた。こんな計画書を用意する段階で、もう彼女にはやり遂げるつもりしか無いのだ。
ここで迂闊に止めた場合、彼女は確実に──家出する。これまでの経験で彼はきっちりそれを理解させられていた。慎重に、口を開く。
「ここでの暮らしは、お寂しいですか?」
「……そういうことは、感じないわ」
ゆるゆるとかぶりを振って、リサはいらえた。
「すごく良くしてもらってる。でも私、あの人の望むようにはなれそうにないから──役に立たないから。だから、大きくなったら一人でも生きていけるようにならないと」
言いにくそうに告げられた言葉に、なるほど、とアーネストは小さく頷いた。
父と呼ぶ気は無いけれど、世話をしてもらっていることには感謝している。しかし公爵が望むように妃にはなれない──というかなりたくない──ために、ずっとここにいられるわけではないと考えている、と。
けれど彼女は知らない。なぜ、彼女を溺愛している公爵が、本邸ではなく、辺境の地にあるこの小さな別邸に彼女を住まわせているのか。世間から隠すように、ひっそりと育てているのか。側付きのアーネストが、そのことでどれだけ公爵から嫉妬されているか。
いずれ分かること。今はまだ、知らせる必要のないこと。
「嬢様。……ここは、この家の主は、嬢様でございますよ」
アーネストは、小さな主に微笑みかけた。
「嬢様のなさりたいようになさいませ。そしてわたくしのことは、如何様にもお使いくださいませ」
彼の言葉に、リサは安堵したのか、花開くように微笑む。
「ありがとう、じいや」
その愛らしさに頬を緩めつつ、アーネストは静かに一礼した。