事情 その2
廊下を駆け抜け、自室に飛び込み、靴を蹴るようにして放り出して、メルは寝台に跳び乗った。
けれど着地したら、膝の傷が布にこすれて痛みを訴える。
「いたぁ……」
その拍子に今までこらえてきた涙があふれてきて、メルは乱暴にお布団をめくり上げてその中に丸まった。頭まですっぽりと掛布をかぶって、自分の体を抱きしめても、震えが止まらない。
しゃくりあげながら、メルはぼろぼろと涙をこぼした。
──なんで、あんなこと、言っちゃったんだろう。
ばかなことを言ったのは自分だ。シグにも、アルにも、ひどいことを言った。
すごく、嫌な子だった。それに。
──リサに、きらわれちゃったかも……っ。
いつも優しく自分の名前を呼んでくれるリサが、あんな声を出すくらいに、自分は悪いことをしたのだ。
嫌な子で、駄目な子なんて、最悪ではないか。
自分の息づかいと嗚咽が響く中、控えめなノックの音が聞こえた瞬間、メルはびくりと身を震わせた。
ぎゅっと体をより小さく丸め、掛布の端を握り、固く目を閉じて、メルは外界を拒絶する。
けれど。
「──メル」
呼ぶ声が、元の様に戻っているのが嬉しい。追いかけてきてくれたのが嬉しい。でも、でも。
どんな顔をしたらいいのかが分からない。
何て言えばいいのかが分からない。
──こんな嫌な子で駄目な子が、リサのそばにいて、役に立てるようになるのかが分からない。
それなのに。
「ね、メル。……泣いているの?」
そっとお布団の上に手が置かれた。ちょうど、背中に当たる位置。
たったそれだけのことなのに、じんわり伝わる温度が、涙が出るくらいに嬉しい、なんて。
「顔、見せてくれないかな?」
「……見ちゃ、だめ……」
声を絞り出すと、「ん」という声と一緒に、背中に触れる感触の面積が広がった。ついで、そっと頭に当たる位置に、手が置かれる。
ゆっくりと、撫でるようなそれが、ひどく心地よい。
「メルは、アルが嫌い?」
だから、ゆっくりと問いかけられた言葉に、メルはかぶりを振った。
「じゃあ、シグが嫌い?」
再び小さくかぶりを振る。
「アルが、髪を切ったのが、いけなかったの、かな?」
今度の問いかけには、すぐには答えられなかった。
──いけないんじゃ、ない。
ただ、悔しくて。苦しくて。
でも、それは、メルの、わがままなのだ。
「……ごめんなさい」
つぶやいた言葉に、けれど返ってきたのは、静かな声。
「ううん。こっちこそ、ごめんね。……剥がすから」
宣言と同時に、リサはメルがかぶっていたお布団をべりっと剥がしてしまった。抵抗する間もなかった。
そんな、と思うと同時に体を引き起こされて、メルはリサに背中から抱きしめられていた。
「……っ」
背中から伝わる温もりに、メルの心臓は早鐘をうちはじめる。そんな彼女の耳元に、リサは囁いた。
「顔は見ない。ね、だから教えて……? 何に、謝っているの?」
耳朶にかかる吐息が、少しくすぐったくて、ぞくりとする。
なんだか顔とか体が熱くなってきて、メルはぎこちなく顔を背けた。
「ねぇ……メリスメル」
──リサはずるい。
そんな優しい、なのにどきどきするような声で、名前を呼ぶなんて。
人を、全然、考えられなくしてしまう。
「……昨日の、続き、が」
「続き? ……アージェントのお話、の?」
「うん。……全然、できなくて」
話している内に、また涙があふれてきて、息を詰まらせたメルの目に、そっと柔らかいハンカチが触れて、涙をぬぐっていく。そして柔らかく一定のリズムでそっと腕を軽く叩かれて、ハンカチが離れたところで、メルは再び話し出した。
「アルは、走ること以外、なんでもたくさん、できて。私、全然、できなくて。リサの、役に、たてなくて……っ」
「……アージェントが、うらやましかった?」
問われて、メルはこくりと頷いた。
「私、髪、短くて。伸ばさせて、もらえなかったから。なのに、アルは、あっ、あんなに、綺麗なのに、要らないって、切ってしまって。だ、から、ひ、ひどいこと、言ってしまった、の。すごく、いやな、こ、なの、私」
たどたどしく、けれど一生懸命、メルは言葉をつむいだ。
と、リサがそっと、メルの唇に縦に人差し指を押し当てる。
「メルは、いい子だよ」
柔らかくてなめらかなその指先に言葉を止められ、また告げられたその言葉を信じたくて、メルはリサをうかがおうとしたのだが、泣き顔をあまり見られたくないという気持ちが湧き出て、動きを止めた。
そんなメルに、リサは言う。
「あのね。私も勉強不足だったの。──魔界の空気には、瘴気っていうのが混ざっていて、それは人間の体に溜まっていくと、精神的に不安定……ええと、イライラしたり不機嫌になったりしてしまうんだって」
だからね、とリサは続ける。するりと、その指先が唇を少しばかり撫でて離れていくのが、少し寂しいと頭の片隅で思いながら、メルはその声を聞いていた。
「メルは悪くないの。多分、その瘴気が、いけないんだと思うのよ」
「ショウ、キ……?」
「うん。だから、今から、抜こうと思うの。……ただね、まだ不慣れだから、初めはちょっと痛かったりするかもしれないから、その時は、すぐ、言ってね」
メルは、その言葉に少し考えた。
「それを抜いたら、……私、嫌な子にならなくてよくなるの?」
「メルは今だっていい子だよ?」
「いい子は、あんなひどいこと、言わないわ」
思ってしまっていたから、口に出てしまったのだ。
けれど、リサは言った。
「ひどいって、分かってるから、ちゃんといい子だよ。これから、言わなければいいの」
「……思ってしまったのに?」
「自分に無いものをうらやましがるのは、誰だってそうだよ。……私は、ゼスみたいに大きな男の人がうらやましいし、被服班長みたいに絵がかけるのがうらやましいし、じいやみたいにおいしいお茶を入れられるのがうらやましいもの。……でも、後の二つはともかく、大きな男の人にはなれないってことは、分かってる、けど、時々すごく腹が立って八つ当たりしたくなる時あるもの。でもしない方がいい子かなと思うから、しない」
「……思うことは、悪いことじゃ、ないの?」
「私は、悪いことじゃ、ないと思うよ。思っているだけだったら、何も伝わらないもの。言葉にしたり、表情にしたり、動いたりして、ようやく伝わるものでしょう?」
それにね、とリサは続けた。
「髪は伸びるし、読み書きも計算も、これから頑張れば、どれだけでもできるようになるよ。それに、メル……他に、おとぎ話を聞いたことがある?」
訊かれて、メルは頭を振った。
「……神殿では、聞かせてもらえなかったの。昔、小さいときに、聞いたことが、あるかもしれないけど、もう、忘れちゃった」
「メルは、いつごろから、あの神殿で暮らしてたの?」
「ずいぶん前のことだから……、よく、覚えていないの」
──父さんと母さんの顔も、もう、思い出せない。
「神殿では、何をしていたの?」
「お祈り、してた。……それしか、させてもらえなかった」
からっぽの体に刻まれているのは、祈りの句だけ。
何百何千回唱えても、何も変わらない聖句だけ。
そんなメルの頬にそっと触れて、深くため息をついて、リサは言う。
「私が、いけなかったね。知らないものを言えっていっても、出てこないのは、当たり前だもの。……材料が何もないのに、何かができるわけないものね」
「ざい、りょう……?」
「そう、考える材料。知識とか、経験とか。……そういうのを、メルは、もらえなかっただけなの。だからね、これから、本を読んだり、いろいろやってみたりして、蓄えていけばいいの」
「リサ、待ってて、くれる?」
「もちろん」
力強い断言に、ほっとして。
メルはしばらく黙りこんで、リサの言葉を咀嚼した。
──これから、で、いいなら。
やっぱり自分は、嫌な子で、駄目な子だとは思うけど。
でも、それでも。
自分の思いを言葉にすべく、メルは口を開いた。
「あの、ね、リサ。──私、頑張る。頑張るけど、リサの役に立てるような、立派な人には、なれないかもしれない、けど」
緊張で声が震える。目頭がまた熱くなってくる。
けれど、この思いだけは、伝えたくて。
メルは、リサに向き直った。
綺麗な紫水晶の瞳が、優しい光を浮かべていることに、勇気をもらって。
メルは、言った。
「それでも、私、リサのそばにいたいの。……いさせて、ほしいの」
メルの見つめる前で、リサは一瞬目をみはって。
ついで、見ているほうがとろけてしまいそうな、優しい微笑みを浮かべて。
見とれていたら、ふわりと抱きしめられて。
「うん。……私からも、お願い。そばにいて」
耳元で囁かれる声は、ただでさえどきどきするのに。
「私の──友だちに、なって、メリスメル」
告げられた言葉が、嬉しくて、たまらなくて。
メルは、真っ赤になった顔で、こくんと頷いた。
◆ ◆ ◆
一方。
頷いたメルを改めて優しく抱きしめて、リサは。
──どうしよう! メルが! 可愛い!!
いやいやあぶないあぶないあんまりにも可愛いからついうっかり「お嫁さんになって」とかプロポーズしちゃうところだったよ! ふうやれやれなんという危険な罠だったんだ……!
そんなろくでもないことを考えつつ内心で汗をぬぐうふりなどしてみていた。
落ち着いて考えてみれば、友だちなどという単語を使ったのは、リサにとってものすごく久しぶりのことだ。ミアンは友人だとは思っているけれども、どちらかというとおねえさんみたいなものだから。──いやお嫁さんでもいいんだけどね邪魔者さえいなければ。
などと考えつつ、リサはメルに微笑みかける。
頬を薔薇色に染めて、応じるように微笑むメルはもう本当に可愛い。
メルと友だちになりたい、とアージェントに言ったのは、ほとんど考えていない、なかば反射的なものだったけれど、ひょっとしたら本心だったのかもしれない。まあ少々実際の年齢は離れているけど、そこは気にしないことにする。
そもそも、水原理沙だった時は、引きこもり生活だったために、ネットワーク上での知人は居たが、現実での友だちはいなかった。
発症する前はそういう子もいたけれど、自分が、遠ざけてしまった。
せっかくお見舞いに来てくれたのだけれど、あの時はまだ痛いのを上手に隠せなくて、泣かせてしまったから、「もう来ないで」と言って。
大好きな可愛い友だちだったから、自分のことで泣かせたくなかった。優しければ優しいほど、自分のことを思ってくれるほど、その人たちは「何もできなくてごめん」と言うのだ。悪いのはポンコツな理沙の体だったのに。
それが苦しくて、だから遠ざけた。
寂しいのは、諦めた。
それを思えば、今はとても恵まれている。
ちゃんと自分は元気で、こんなに可愛い子に「そばにいさせて」と言ってもらえて、ちゃんとそれを受け止めることができる。
──おかしな話だ。
誰かの悪口を言うのが悪い子で、悪い子には罰が与えられるというのなら、リサは何百回と罰を受けなければならないはずなのに。
恵まれすぎていて、なんだか気が咎める。
そんなことを思いながら、リサは言った。
「じゃあ、瘴気を抜いてみるね。──私がメルのおへそに指を当てて、それで、左手を重ねるの」
「……うん」
メルは小さく頷いて、もぞもぞと体を動かした。体育座りのようになると、ワンピースタイプの夜着の裾をたくしあげて、ほんのり頬を染めつつおへそを見せた状態でリサをうかがう。
「これで、いいの?」
「……うん、いいよ」
メルさん下着まで見えてますとは言わずにリサはにっこりと微笑んだ。何せ今は二人きりだ別によいではないか。ほんのり淡いピンク色の生地はとてもいいですね。被服班ぐっじょぶ。
再度メルを背中から抱きしめて、そっと彼女のおへそに触れる。くすぐったいのかぴくりと身じろぎするメルは。
──にしても可愛いなぁもう本当に可愛いなぁ……! もうあれだよ、嫁にはやらんって感じだよ!
今でもこんなに可愛いのだから、大きくなったメルは男の人が放っておかないだろう。メルは上を向く意志がある。きっと素敵な女性になるだろう。
神殿に戻すつもりは絶対にないし、メルがこの先どんな道を歩むかはわからないけれど、メルがやりたいことがあるなら全力で応援したい。人界ではまだまだ女性の権利が保証されているわけではないようだから、リサが思っている以上にいろいろ窮屈で大変だろうけど、支えたいと思う。
そして、メルが誰かと一緒に生きていきたいと思うんだったら、お邪魔虫要員として適度に頑張るのだ。多少の邪魔で諦めるような生半可な気持ちの奴になんか絶対に渡すものか覚悟しろー。
──友だちだったら、そういうことができるものね。
そんな未来図を頭の中で描きつつ、リサはそっと左手をメルのそれと重ねた。
レインにやった感じを思い出しながら、意識を引き絞る。
「力抜いて、楽にして。……スカート、下ろしていいよ。おなか、冷えたら良くないし」
「うん……んっ」
魔力を流し始めると、すぐにぴくん、とメルが体を震わせる。
「どうかな? レインは、お風呂に入ってるみたいだって言ってたけど……」
「……なんか、変」
もじ、と太股をこすりあわせてメルは言う。
──やっぱり、個人差があるんだ。
なんとか、その差を見つけられないだろうか。そうしたらきっと、もっと簡単にピッチ調整ができるんだろうけど。
「ごめんね。……これは、どうかな?」
「……まだ、何か、変……」
「じゃ、これ……」
「やんっ!」
びくん! とメルが体を大きく震わせる。赤く染まった頬で涙目でリサを見てくるので、リサはだんだん焦ってきた。
「ごめんね……っ、痛かった?」
──どうしよう。こんな事態を避けたくて、レインに練習させてもらったのに。
なんとか、もっと上手にできればいいんだけど。
「いたく、ないん、だけど、何か、変なの……」
「気持ち悪い? ちくちくする、とか?」
リサの言葉に、メルはかぶりを振る。
「ちょっと、違う……かも」
「本当に、ごめんね……どう?」
「まだ、違う、感じ……」
何度も謝りながら、調整を続けること数十分。
そしてようやく、「気持ちいい」流れを見つけられて、ほっとしたのもつかの間。
「あの、メル……大丈夫?」
「うん。……温かくて、気持ちいい」
メルが微笑みを浮かべられるようになったのはいいのだが、リサは再び困惑していた。
ちょうどいいのを送れるようになってから、かれこれもう二十分ほど、魔力を送っているのだが。
──戻りが悪い。
レインの時に感じたあの淀み。それが、ほとんど感じられない。そして、還ってくる魔力も、ひどく弱い。送った分の数割しか、還ってきていないのだ。これもレインとは違う。
つまり、メルの体に、リサの魔力がどんどん溜まっていっているような状態なのである。
「メル、何度も聞くけど、本当に大丈夫? 気持ち悪いとか、ない?」
「うん。……あれ、治ってる」
メルが、膝に目を落として、言った。
確かにあった擦り傷は、いまやきれいに跡も残さず消えていた。
「リサ、治してくれたの?」
「ううん……何もしてないんだけど」
──どういうことだろう。
大丈夫なんだろうか。いくら個人にあわせたとはいえ、魔力をそんなに取り込んで、普通の人間が大丈夫なんだろうか。
リサがまだ幼い頃、魔力の調節ができずにだだ漏れ状態だった時、魔界の住人でさえもが、リサの魔力で酩酊したようになっていたのに。
普通の、人間なら。
「……あ」
リサは、ある事実に思い当たり、声を上げた。
「どうしたの?」
メルが不思議そうに聞いてくる。が、言ってもいいのだろうか。
──聖女だから、って。
メルはそういう風に言われるのを、嫌がっていたのに。
「え、と。ちょっと別の方法を、考えてたの」
適当にごまかしながら、リサは頭をフル回転させていた。
ひょっとしたら、メルは、瘴気とか魔力とかを取り込みやすい体質なのかもしれない。聖女と呼ばれていたわけだから、本人に自覚はなくても、何か特別な力を持っているのかもしれないし──見ている分にはぜんぜんわからないけど。むしろ見た目で分かるほどのウェンが規格外れなんだろうけど。
しかし本当に大丈夫なのだろうか。リサにとっては微々たる量の魔力とはいえ、腹を立てた時に漏れでたごくわずかの魔力でさえシグたちを怖がらせたのに。
そして瘴気を取り込みやすいというなら、なるべくせっせと抜いた方がいいのだろうけど、こんなに時間がかかるようだとリサとしても大変だ。
例えるならば、水のたっぷり入った大きなバケツをかかえて、小さな杯に水をこぼさないように一滴ずつ入れているようなものなのである。
そんなわけで、リサはいい加減、疲れてきていた。
さらには。
──どうしよう。時間もかかりすぎているよ。
実のところ、この後アージェントの所にいって、謝っておこうと予定していたのだ。一晩たつとしこりになってしまうかもしれないから、せめて一言詫びておこうと思っていたのである。
けれどこんなに時間がかかっていては、先に寝てしまっているかもしれない。
それに、毎日これを続けるのは、正直しんどい。他の子たちもやらなくてはいけないのだから、せめてもう少し簡略な方法をとりたい。
──もっと効率よく簡単にできる方法って、ないかな。
基本的にリサは極めて慎重派だ。いろいろと事前に想定をし、計画をきちんと立ててから物事に着手する。
それはつまり、想定外の出来事には弱いからだ。
そして現在進行形の予想外の出来事にたいそうテンパっているリサは、自分がなんとかしなければという義務感とあいまって、ミアンが見せてくれた本に「夢魔による吸収」という方法が書いてあったことを完全に失念していた。
「ごめん。ちょっと、考えさせてね」
いったん指を離して、リサは深呼吸し、ついで自らに落ち着くよう言い聞かせながら指を折っていく。
一、メルは瘴気とか魔力を取り込みやすい体質、かもしれない。不確定。
二、現段階ではまあ瘴気を完全に抜ききっていない様子。不確定、だけどレインの場合よりまだ少ないのは事実。というわけでほぼ確定。
三、人間の体がどれくらい魔力を取り込んでも大丈夫かどうかが分かっていない。つまり不確定。
四、メルはどうやら魔力を取り込んでもそれなりに大丈夫らしい。自己申告だけどほぼ確定。
五、毎日瘴気を抜くためには、もっと効率の良い方法がのぞましい。疲れるから。確定。
リサは三十秒間思案を巡らせて、メルと対面になるようにベッドの上をよじよじと移動した。
きょとんとしているメルに向き直り、真剣な面もちで告げる。
「あのね、メル。……口づけ、してもいい?」
メルは藍色の目をみはった。
リサはメルを可愛い、よって愛でるべきとは思っている。けれど、それとキスしたいかという話は別だ。
ただ単に効率を重視したための結論である。
なぜならこと他者に対しておこなうなら、指で触れるよりも吹き込む方がずっと効率がいいからだ。魔術的には口は入口であり出口である。受け入れる側も効率がいい、らしいし。
蓄積された魔力がどんな影響を及ぼすかは分からないけれど、メルがなんともないと言っているので、今は瘴気を抜く方を優先した。
そうっとそうっと流し込むよりも、短時間で瞬発的に流した方が勢いが良くなって、戻りも多くなる気がするし。
問題はもちろんある。どれくらい流しても大丈夫かが分からない状態でのぶっつけ本番だから、メルの体に負担がかかる可能性がある。
──何かあったらすぐに誰か呼ばないと。後は心肺蘇生法は、ええと胸のほとんど真ん中を押すんだよね確か百回パー分、三十回につき呼吸二回。気道確保して鼻つまんで。多分大丈夫。
脳内情報を思いだす。どちらかというと自分はされる方だろうなと思いながら説明を聞いていたが、一応覚えていた。
後の問題は、自分の気持ちと、メルの気持ち。
──まあ私大人だしね。唇くっつける程度どうってことないよ! したことないけど。
まあメル相手ならファーストキスだけどいいよねメル可愛いし、減るものじゃないし。
何か間違っている気がしないでもないが、そうリサは自分に言い聞かせてみる。
残りはメルの気持ちだが──女同士ということでとりあえずノーカンにしてもらえないだろうか。あるいは身内ルール(例:パパは相手に含みません)適用とか。
「その方が、瘴気が早く抜けるんじゃないかと思うの。まだ全部抜け切れていないみたいだし。ただ、ひょっとしたら少しメルの体には悪いかもしれないんだけど、試してみたいの」
リサの言葉に、まだ赤いままの頬のメルは眉尻を下げた。
「だから、口づけ、するの?」
困惑しているらしいその表情に、さもありなんとは思う。体に悪いって言われたら、嫌だろう。
「うん。なるべく、頻繁に抜いた方がいいと思うから、これだけ時間かかるのは、ちょっと疲れるから、困るし」
「リサ、大変、なの?」
「……うん」
この言い方は正直卑怯かな、とは思う。メルは優しい子だから、多分こういう風に言ったら、頷いてくれるだろう。まあどうしても嫌というなら、口づけじゃなくて、お願いしてリサの指をくわえてもらうか、おへそに唇つけて吹き込むような形になるかだが。
悪い大人だな自分、そう思いながらメルの反応を待つと。
「……リサが、いいなら」
メルがこくんと頷いてくれたので。
「ありがとう、メル」
リサはできるだけ怖がらせないよう、なかば無理に微笑んだ。
ベッドの上で、膝立ちになって、リサはメルと向かい合う。右手でメルの体を支えて、左手はつないだままで。
「血は、全身に流れてるでしょう? だから、受け入れた物を全身に巡らせる感じを想像してみて。目を閉じて。──少しだけ口を開いて」
リサの言葉に従って、ほんのりと頬を染めつつも、そっと目を閉じるメル。
その唇に、リサは自分のそれを、重ねた。
次の瞬間、後悔した。
触れた唇の柔らかさに、すさまじい罪悪感がこみ上げるが、それを無理矢理押し殺す。
──集中。引き絞れ。──巡れ。
短い吐息と共に、魔力を送り込む。
メルの体が震えて、よろけるのを右手で抱き寄せて支えながら、左指に淀みを感じて安堵する。──良かった、ちゃんとうまくいった。
リサは顔を離してメルの状態を確認する。
呼吸に問題はない。血色悪くない。表情にも、痛がっている様子はない。多分体の方には問題がない。問題は。
──うわああああごめんメルごめんなさいたいしたことあった! あれはだめだひょいひょい許しちゃだめだ! なんか本当にごめんなさい未来の好きな人にたくさん上書きしてもらってください!
どうってことないよーとかと思っていた数分前の自分を殴りたい。なんだか妙に気恥ずかしくて、おまけにものすごい罪深いことをした気がして、正直ベッドの上でゴロゴロ転がりたいところではあったのだが、確認すべきことを押さえておかねばという義務感でリサは問いかけた。
「これで抜けたと思う。体は大丈夫? 胸は痛くない?」
メルは頷き、ほうっと息をついて、赤い顔で、言った。
「うん、平気。……ちょっと、ドキドキするけど」
「──私もだから、おあいこだね」
つないだままの手をリサは自分の心臓の上にそっと重ねてみせた。うまくいかなかったらどうしようと思っていたこともあって、今の心拍数はとても早い。
伝わった鼓動にメルはちょっと目をみはった後、面映ゆい様子ながらも微笑んだ。
──うむ。とても可愛い。
やっぱりメルは笑顔が一番だよ、と思いつつそっと体を離そうとすると、メルがきゅ、とつないだままの手に力をこめたので、リサは首を傾げた。
「どうしたの?」
「あ、あの、リサ……今の、ほかの子たちにも、するの?」
真剣な面もちになったメルに、リサはきっぱりとかぶりを振る。
「その予定はないよ。メルは特別」
「そう……なの?」
「うん。レインはさっきやってた方法で良かったから、他の子も大丈夫じゃないかな。毎日必要ってわけではないだろうし」
「……私だけ、なのね?」
「そうだね」
というかだめだろう。あれは大事なものだ。ファーストキスがこんな中身ババア相手なんて不憫すぎる。きちんととっておいて可愛い女の子にかますべき。
そんなことを考えながら答えたリサに、メルはどこかほっとしたように微笑んだ。
──間接キスになるのが嫌なのかな?
メルはわりと潔癖なのかもしれないなぁ、ちょっと気を遣わないと。
心のメモに書き留めて、それからリサはメルに訊いた。
「そうだメル、朝、私を起こしにきてくれない? そうしたら、忘れないで瘴気抜けると思うの。私の部屋なら、他の子たちに見られることも、ないだろうし」
──幼なじみっていうか友だちに毎朝起こされるって、なんかラノベの主人公みたいだけど、私あんなに鈍くないもんねちゃんと配慮のできる大人だもん。何か良い香りのハーブティとか用意しとこう。あと口拭うためのおしぼりとか。
そんなことを思いながらリサが返事を待っていると、メルは少し恥ずかしそうに、けれどこくんと頷いた。
◆ ◆ ◆
時を少し遡り。
名目上はこの家の用心棒であるゼスは、夜間の見回りをしていた。
存在を知らなければ認識すらできない結界の張られたこの家を襲撃できるものなどまずいないが、どちらかというと、家畜などが脱走して畑の作物を食い散らかしていないかの確認の方が重要だ。たまにある話なので。
リサの意向もあってか、この家の料理は美味い。その材料となる物を保護するのに特に否やは感じない。かつての仲間たちが見たら驚くか笑うかするかもしれないが、別に笑われたところで痛くはない。
自分も丸くなったもんだ、と思いつつ棍を手にぶらぶらと歩いていたゼスは、正面扉が開く小さな音に気づき、すばやく身を返した。
──誰だこんな時間に。
客が来るとは聞いていない。リサは最近は特に何もやらかしてはいない、はず──ガキどもの件で忙しくしていたから──だから、公爵閣下が来たというわけでもないだろう。次に訪れることができるのはまだずっと先だ。リサや、ましてミアンやアーネストがこの時間に外をうろつくとは考えにくい。
──だとすると、ガキどもの誰かか。言ったじゃねぇか脱走すんのはやめろって……!
足早に歩を進めつつ小さく舌打ちしたゼスは、扉の前にいる人影を確認し、実のところ意外に思った。
月明かりに、短く切られた銀の髪が柔らかく照らされている。
「アル?」
白い石のポーチ、階段状になっているそこに座り込んでいたアルは、ゼスの声にはじかれたように彼を見た。
手には、髪の束。頬には、滑り落ちる涙。
──おいリサおまえ今度は何やらかした?
内心で嘆息しつつ、ゼスは仕方なく問うた。
「どうした、アル?」
アルは、ぐいっと袖口で涙を拭い、しばし黙り込んで。
ややあって、ゼスを見て、言った。
「──聞きたいことがあるんだ、ゼス先生」
ゼスはあまり良い予感がしなかった。