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一日目 その4

 夜。

 子どもたちがベッドに入ったのを見計らい、リサは自室にしのばせておいた瓶を握り、ミアンの部屋へと向かった。

 ノックを二回して、中からの「どうぞ」の声を聞くと共に、鍵のかかっていないことを確認し、そっと扉を押し開ける。

 落ち着いた青色を基調とした室内では、ゆったりとしたソファに、ゼスが書物を開く夜着姿のミアンを膝に乗せて、一人グラスを傾けていた。入ってきたリサを見て、その琥珀の目を細める。

「やっと来たか」

 予測済みなことはリサも承知だ。ここに来た理由もゼスはおおかた察しているだろう。

 ──それでも、やらなければならないことはあるわけで。

「……ごめんなさい」

 ソファの横、あと一歩というところまで近づいて、リサはふかぶかと頭を下げた。待たせたことへの謝罪ではない。

「──あの人が、あなたにひどいことをするとか、考えてなかった」

 ひどく苦いその声に、ゼスはミアンをちらりと見た。ミアンがその視線に心得たように微笑むと、ゼスは彼女をそっと膝から自分の隣に下ろす。

 立ち上がったゼスは、リサの下げたままの小さな頭に、硬い手のひらを載せた。

「……気にすんな、っつってもダメだろうな。でも俺はおまえのせいとは思ってねぇよ。……頭上げろ」

 応じてゆっくりと上げられた、本来なら愛らしいその顔に浮かぶ表情はひどく苦しそうなもので、ゼスは喉元の毛を撫でつけながら小さくため息をついた

 ──分かっていたが、本当に、こいつは。

「……本当に、似てないな。おまえらは」

 予測はしていたのだ。自惚れではなく、事実として認識していること。この少女が、ミアンのおまけ扱いかもしれないが、ゼスをそれなりに大事に思ってくれていること。そんな彼を傷つけたのが、父親と呼びはしないけれど、憎い相手ではないディナレンス公爵であれば、当然リサは自分を責めるだろうと。開き直ることなどないだろうと。

 もちろん、ゼスはリサを責める気などはない。それでもあの場で言及したのは、理由がある。

 脳裏に浮かぶのは、冷めきった蒼氷色の眼差し。

 一人で行動していた彼を路地裏で待っていたのは強制転移の術で、跳ばされたのは、おそらく、公爵閣下の執務室。

 床に転がった彼を書類片手に見下ろし、公爵は傲然と命じた。

 ──しばし付き合え。報酬は出す。

 そして否という余裕も与えずに指先の一振りでゼスを浮かせた後床に叩きつけた。

 ──お前の何処があの子の気に入ったのだろうな?

 抗魔耐性など何の役にも立たない、圧倒的な魔力でもって彼を拘束し、ずたずたに引き裂いた上で鞠のように床を転がし、失血死しそうになったところで治癒し。

 ──案ずるな、殺しはしない。傷一つ残さずに帰してやる。あの子の大事な玩具を取り上げる気はないからな。

 酷薄な笑みをその秀麗な美貌に浮かべ、宣言したその通りに、ハーヴェルカディスはゼスを何度も瀕死にさせ、その都度回復し、そして再び苦痛の渦に叩き込んだ。

 常人ならばいっそ殺してくれと請い願うようなその責苦に、ゼスはただひたすら耐えた。自分でさえも疑問に思う、それができたのは、合間に彼が、ミアンにも同じことをする気かと問うた時に、ハーヴェルカディスが否と答えたためかもしれない。だから彼は、許しを請うこともなく、公爵閣下の八つ当たりに黙って耐えてやった。朦朧とする意識の中で、笑って言ってやったが。

「優しいあいつとは大違いだな。だから父親認定されないんじゃねぇか?」

 まあその一言が公爵閣下を激怒させたのは確実で、受けた激痛に死を覚悟したりもしたのだが、次に気がついたら、半裸の美女三人に寝台の上で撫でられており、金貨の詰まった小さめの鞄はしっかり用意されていた。そんなわけで金だけは受け取り、すがりつく女は振り払って、彼はさっさと撤収したのだが。

 腹立たしい気持ちは、ある。──けれど、力の有無が魔界での序列だ。弱肉強食が世の摂理、公爵のあり方がむしろ当然。

 異質なのは、リサの方なのだ。

 公爵と同様──いや、それ以上の魔力をその身に宿しながらも、その力を他者に振るうことを厭う少女。

 誰かを傷つけたいわけではないから、と。自分と、大事なものを守るためのすべとして彼女が選んだのが結界術と転移術──基本戦術は防御と逃走。絶大な魔力でもってそれを完璧に為してみせる彼女は、端から見たら度し難いほどのお人好しだ。

 持てる者の余裕というには、いささか行き過ぎていると感じるほどに。

 そんなリサが、子どもたちが迂闊にも逃げ出してその結果行き倒れになったり、公爵閣下に知らずにたてついて殺されたりしたら、どれだけ自分を責めることか。もしもを考え、ぐるぐると後悔しまくって暗鬱になるのは目に見えている。

 実際傷ついた魔獣の仔を拾って傷を治してやり、それを敷地の外に出して数ヶ月後、追跡調査をしてみたら魔獣ハンターの手によって殺されていたと知った時の落ち込み方は酷かったのだ。「お仕事だからさー仕方ないけどさー」と口で言いながらも、気がつけば物陰にしゃがみこみ、陰鬱な表情で何やら考え込んでいる始末。それが十数日続いたのだ。

 ほんのしばらくそばに置いただけであの有様である。甘やかすと決めた相手がそうなったらどれほど落ち込むか。

 甘いと言われようが、ゼスはリサにあんな顔をさせたくないのである。

「……そろそろ自覚しろ、リサ。おまえは優しすぎる。それだとこの先いろいろキツいぞ」

「……違うよ。考えが、足りないんだよ」

 ゼスの言葉をやんわりと否定しながら、リサは持っていた瓶をソファの前の卓に置いた。

「レインにしても、そう。あんな風に思ってるなんて全然考えもしなかった」

 必死に、リサの役に立ちたいと訴えたレイン。そうでなければ、自分のすべてが失われると言わんばかりに。

 あの姿を、それを表す言葉を、リサは知っていた。

「あれは、依存っていうんだ──良い状態じゃ、ない」

 目を閉じて、リサは深く息を吐き出した。

「あんな風に、心を縛るつもりは、なかったのに」

 ──そうさせるほどの強い想いでは、なかったのに。

 何がしたいのか──そう問われて、答えにくかったのは説明した部分だけがすべてではない。

 できることは、増えた。魔法を使えば、その場で何かをどうこうするような、だいたいのことは望み通りになるだろう。──けれど。

 ──私は、何をしたいんだろう。

 世の中に五人のような境遇の子どもたちは、多分まだまだたくさんいるのだろう。でも、それを全部助けて回るだけのことは、多分できない──というよりする気がない。あいにくリサはそこまでの全方位型善人ではないし、助けた後のことを考えると、自分の手にはあまるのが明白で、これ以上他の誰かに迷惑をかけるのはためらわれる。

 かといって、本気で侍女になりたいのかと訊かれると、実のところ弱いのだ。半ば興味本位の自覚があるから。

 だめだなぁ、とリサは自省する。

 ──もっと真摯にならなくちゃ。あの子たちは、一生懸命なんだし。私がやるって言い出したんだし。

 そうは、思うのだけれど。

 水原理沙だった時は、何かになりたいとは思っていなかった。そんな余裕がなかった。──ただ、生きたいと、願っていた。

 生きて、何かをしたかった。

 でも、今、余裕ができてみて、選べる自由を手にした時、リサは改めて思う。

 ──自分の進路を自分で決めるって、怖い、な。

 臆病なのは自覚していたけれど、我ながら想像以上だとリサはため息をついた。

 そんな彼女の頬に、そっと柔らかい指が触れる。

「──大丈夫よ、リサ」

 かけられる優しい穏やかな声に、リサはゆるゆると目を開けてその主を見た。

「……ミアン」

 兎耳の美女は、艶やかな顔立ちに優しい微笑を浮かべてリサを見下ろしている。

「まだ始めたばかりなのだもの。それほど気に病むことはないわ。──それに、一人で抱え込む必要はないのよ?」

 レインのことを言っているのだというのは分かっていた。けれどその言葉はリサの状況に合いすぎていて、その声の優しさが心地よくて。

 じんわりと温かいものがこみ上げてきて、リサは泣き笑いのような表情を浮かべた。

「ありがとう、ミアン……大好き」

 するりとミアンに抱きついて少し背伸びすると、ちょうど胸の間に顔をうずめられるので、リサは柔らかいそれに甘えることにした。


 ──そりゃもう、全力で。


 顔をうずめているから多少うふえへ顔でも大丈夫! とりあえずよだれには気をつけとけば存分にすりすりできる! ああっもう柔らかいよーあったかいよーふにょぷにょ感素晴らしいよー! さすがおねんね前仕様! ああしかしっ、ゼス独り占めずるいよー独占禁止法違反だよー公取に捕まってしまえばいいよー! さっきのお風呂ではメルを洗うのについ夢中になってしまったから反省! あんまりミアンに甘えられなかったのが悔しかったからその分プラスで! しかも後ろ頭を撫でなでしてもらえるという素敵なオプション付きです相談に来て良かった!

 意識の切り替えが早すぎるだろうと言われるかもしれないが、それを為させるのがミアンのおっぱいである。なんて素晴らしいんだろうとリサはほぅっとため息をついた。

 薄い布地に包まれた柔らかくて温かいそれに、しあわせーだいすきーという思いを籠めながらすりすりしていると、ややあってミアンが若干うわずった声を上げる。

「……リサ、あ、あのっ、魔力送ってくれるのは嬉しいんだけど……っ、今日はすごく濃くてっ、酔っちゃうっ」

 少し焦ったような、けれどどこか甘やかな響きのそれに、リサは上目遣いでミアンを見上げた。魔力や精気を糧とするミアンにはそれらの「味」が分かるそうで、その味は感情や体調によって変わるのだという。

 酔ったという言葉を示すように頬を赤らめたミアンはもう色っぽくて可愛くて──ああ、本当に。

「そろそろゼスにとどめ刺した方がいいかな……」

「殺害予告やめろマジやめろ阿呆。怖えだろうが」

 リサのつぶやきに即座にゼスが突っ込んでくるので、リサは目だけ動かしてゼスを見た。

「だってゼス独り占めしようとするんだもん。異議ありっ」

 リサが持ってきた瓶をさっさと開けて、透明な薔薇色の酒を含んでいたゼスは、グラスを傾けつつ半眼で言った。

「百呼吸数えてやった。いい加減離れろ。あとこれ美味いな」

「よかった。高いの買った甲斐があったよ。ってわけであとちょっと」

「や、ん、だめぇ」

 ゼスよりも先にミアンに駄目出しされてしまったのでしぶしぶリサは体を離した。

 ──嫌われたくないので素直に聞いてあげるけれど、普通の男の人ならそんな声と表情で制止されても多分聞いてくれないと思います。むしろいっそういきりたつと思います。ゼスだったら「誘ってんのか」くらい言いそうです。……いや言うどころじゃ済まないな多分絶対。

 などと思いながらちらりとゼスに視線を走らせると、こちらを見ていた琥珀色の目がまだ邪魔ださっさと出ていけモードではないので、おや、と首をかしげる。

「何か、あった?」

「そ、そうなの。リサ、これを見て」

 身を返したミアンがさっきまで読んでいたらしい書物を見せてくるので、リサはそれをのぞき込んだ。

「この本、魔界に落ちてきた人間の観察記録なのだけど──魔界の空気は、人間の体には少し良くないらしいわ」

「……えっ」

 ミアンの言葉に少々動揺しつつ、リサは本──というよりは手書きのノートのような冊子であるが──の内容に目を通す。几帳面な性格だったのか、整然と並んだ文字は手書きではあるが読みづらいというほどではない。

 ──瘴気ってやつ……みたいなものかなぁ。

 ゲームの中では時折見かけたことのあるものだ。時間の経過でダメージを被るという奴だが、ここのものはそんな有毒ガスのようなものとは違うようで、一安心する。ただ、体に蓄積されることにより、精神的に不安定になったり、体調を崩したりするらしい。

 淡々と事実のみがつづられている本の記録者に「このヒト何考えてこの記録つけようと思ったんだろう」と思わないでもないが、自分と違う生き物をじっくり眺めまわして記録するのはファーブルさんとかもやっていたことだし、それ以上思考をはせるのは今は止めておいて、リサはページをめくる。

 予想通り、そこには対処法がいくつか書かれていた。

 夢魔による吸収、薬品の投与──習慣性があるから注意ってそれはどう考えても麻薬じゃないかと──そして、魔力を流し込む方法。人間にそのまま流し込まれる魔力は有害だが、個人に合わせて調整した魔力を流し込んで溜まった瘴気を追い出す、ということができるらしい。

 ──ただ真っ先に書かれているその方法が交接によるものというのが若干気になるんだけど記録者!

 いや相手が受け入れる態勢になった方が効率が良いって書いてあるけれど。それには納得せざるをえないんだけど。傷を治す時なども、相手が受け入れた方がずっと効きがよいものだし。

 十年くらいもしたら慣れにより必要なくなったということも書いてあるのだけれど、それってストレスか何かじゃないのか? とも思う。

 かといって、あのこたちで実験してみるというのはためらわれる。もしも本当で、つらい思いをさせることになるのは嫌だったので、リサは黙々と続きを読み、小さく頷いた。

「──基本的には接触と魔力の調節と灌流かんりゅう、か。……良かった。これなら私にもできそう」

 リサのイメージ的には、腎臓の透析のようなものだ。実際は長時間じっとしていなければならず、たいそう苦しいものという話を聞いたが、たぶんそこまで時間はとらなくても大丈夫だと思う。

 それほどすぐに蓄積されるというわけではなさそうだし、毎日一人ずつやればいいだろう。そう結論して、リサはミアンを見上げて微笑みかけた。

「教えてくれて、ありがとう、ミアン」

「お礼を言われるほどのことじゃないわ。この本を見つけてきたのはゼスだし」

 そうなの? とリサが目だけで問うと、琥珀色の瞳がそんなんどうだっていいからそろそろ出ていけモードになってきていたので、リサは簡潔に礼を述べた。

「ありがと、ゼス」

「──ん」

 次いでリサはミアンを見上げ、訊いた。

「この本、借りていっていい?」

「あ、あの。……もう少し待って、まだ……全部読めていないから」

「……うん、分かった」

 歯切れの悪いミアンの制止に、リサは大変物分かりよく頷いた。──内容がやっぱりちょっとアレなんだね。

 おやすみなさいとあいさつして、リサは部屋を後にした。

 



 


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