一日目 その3
侍女になりたいの、とリサは言った。
「私の父は、魔界で公爵をやっていて、このままだと私は魔王様のお妃にさせられそうなの。でもそれが嫌だから、人界で働きたいの。で、どこかのお城で侍女をやりたいんだけど、そういう所の侍女っていうのは、偉い人の紹介がないとなれないみたいなの。だから、あなたたちに偉い人になってもらって、紹介してもらおうと思ったの。で、ここに連れてきたのは、一緒に勉強とかをした方が、安心して紹介とかしてもらえると思ったからなの」
ほんのり頬を染めながら、リサは続ける。
「……その、自分でもちょっと遠回りだなーとは思っているから、あまり言いたくなかったんだよ……本当なら、見習いとして潜り込むこともできるわけだから。でも、そのう……いきなり一人でやっていく勇気がまだ出なくって」
だから。
「立派な大人になってほしいっていうのは、そのままのことなの」
そう言った彼女に、レインはようやくほっとしたような表情になって、頷いた。
「分かった。──頑張るよ、僕」
その様子を眺めながら、アージェント──アルは思う。
──変な奴。
勘違いもひどいし、結構うっかりみたいだし。こんな奴がリサの役に立てるようになるとは思わないんだけれど。
レインが言い放った、リサによる世界征服というとんでもない話に、驚いたけれど、悪くないと思ってしまったので、余計になんだか悔しい。
──というより、リサが侍女とかいう方が、おかしいと思う。
公爵というのは貴族の中でもとても偉い人だ。着ているドレスだって、アルの知っている女性たちよりはずっとシンプルなものだけれど、柔らかさや手触りから上質なものだというのは分かったから、リサはお嬢様なんだろうとうっすらとは思っていた。が、公爵の娘ということは、お姫様とでも言うべきひとではないか。
おまけに、リサはこんなに綺麗で可愛いのだから、お城などで働いたら、王様や王子様に目を付けられてしまうと思う。それは、とても気に入らない。
アルとしては、勉強をするというのは、嫌なことではない。読み書きならば娼館で教わったから特に不自由は感じていないけれど、魔法が使えるようになるというのは、いい話だと思う。ただ、それだけではリサのそばにずっといることは難しいだろう。
──もしもリサが本当に侍女になるのなら、お城に入ることができて、リサの側にいられる仕事を考えないと。
リサから離れる気などさらさら無い彼は、当然のようにそう考えた。
──あと、やっぱり走れないのは悔しいから、練習、しないと。
決意を固めて、アルはレインを見た。
ふと視線を感じたのか、レインがアルを見返してくる。その緑の眼をにらみつつ、アルは思った。
──とりあえず。こいつには負けたくない。
む、とレインの眉がひそめられ、にらみ返される視線をまっすぐに受け止めるアル。
二人の様子に気づいたのか、リサがぽん、と近くにあったレインの肩を叩いて、苦笑しながら言った。
「──それでね。男の子たちは、二人ずつ組になって生活してもらおうかと思っててね。とりあえず、レインはウェンと組んでみない?」
「え?」
リサの言葉にレインはきょとん、とするが。
「レインはしっかりしてるから、日常生活──ええと、暮らしていくのに必要なことを、ウェンにいろいろ教えてもらえると嬉しいんだけど」
「うんっ」
しっかりしているという言葉で途端に嬉しそうに笑うレイン。アルはそれが少し面白くないけれど、かといってレインと組むことになるのは正直嫌だし、ウェンよりもまだシグの方がきちんと意思疎通ができそうだったので、アルは隣に立つシグを見た。
「で。シグ、アージェントは足が本調子──まだきちんと動かせないから、ちょっと気遣ってほしいの」
「……どうしたら、いいの?」
シグはぼんやり気味ながら、少し困ったような顔になっている。そんな彼に、リサは優しく訊いた。
「シグは足を怪我したこと、ある?」
「……うん」
「そういう時、自分で思っていないけど、怪我した方の足をかばったりして、もう片方の足も痛くなってきたことはない?」
「……あった、かも」
「アージェントもそうなったりするから、移動する時とかに辛そうな顔をしてたら、支えてあげてちょうだい。こんな感じで」
言いながら、リサはするりとアルに近づいて、左肘を曲げた状態のところを下から支えるように手を添える。そして大丈夫? と言いたげにアルを見るので、アルは問題ないと小さな頷きを返した。それにリサはにこりと微笑んで、シグにやってみるように言う。
そっとアルの腕に添えられるシグの腕は、細いながらも意外な強さで彼を支えた。
「……どう、かな」
おずおずと問われて、アルは答える。
「──うん。大丈夫」
正直に言えば、リサが良いのだけれど、それは言ってはいけないだろうとは考えた。ほっとしたように緩むシグの鳶色の眼を見上げ──シグの方が少し身長が高いのだ──アルは小さく頭を下げる。
「よろしく」
「……うん」
こっくりとシグはそれに頷いた。見ていたリサは優しく笑う。
「代わり、っていったらなんだけど。アージェントはもう字の読み書きができるみたいだから、シグはいろいろ教わればいいと思うよ」
アルは少し驚いてリサを見た。できると言っていないのだけれど、どうして分かったのかと思ったのである。
そんな彼に、リサは首をかしげる。
「アージェント、朝ごはんの時、カード読み上げてたでしょう。だから読み書きできると思ったんだけど。違うの?」
「違わない、けど」
──なんだか、嬉しい。
実のところ、協力者候補というのが他に四人もいるのは気に入らなかったのだが、リサはきちんと自分を見ていてくれるのだと分かり、アルは表情をほころばせた。そんな彼に、リサは言う。
「あとね、アージェント。焦る必要はないから、辛かったら素直に頼ればいいと思うよ。がんばることと無理をすることは違うからね」
頷きかけたアルの頬に、微笑んでリサはすっと指を触れさせた。
『それと。──シグには、絶対にばかって言わないで』
突然頭に響いたリサの声に、アルは少し目を見開く。前にいるリサは、シグに笑いかけているが。
「シグも、アージェントが無理してるって思ったら、そう言ってあげてね」
『シグは何も言わないかもしれないけど、お願い。あなただけは、言わないであげてほしい』
耳で聞こえる声と、頭に聞こえる声。頬に触れたままの指に、アルは悟る。──他の人には、聞かれたくないのだと。けれど、初めに言わなくてはいけないと判断したのだと。
自分が女の子みたいと言われたくないように、シグにとって、言ってはいけない言葉なのだろう。
言葉を選び、そっと頬に触れているリサの手に自分の手を重ね、その紫水晶の瞳を見つめて、アルは口を開いた。
「……気を、つけるよ」
「うん。──よろしくね。シグ、これからお願いね?」
「……うん」
こっくりと頷くシグ。
相変わらず反応が少し遅いのが少々気になるけれど、リサの言うことだ、仕方ない。
そう思い、アルは彼を見る若干ぼんやりとした鳶色の眼に小さく頷いてみせた。
◆ ◆ ◆
ちゃぷん、と、お湯が手のひらからこぼれ落ちると、ふわりと優しい甘い香りが漂う。
ほんのりと紅く色づいたその湯に浸かりながら、シグルド──シグはぼんやりと壁のモザイクタイルを眺めていた。
整然と並ぶつやつやした色とりどりの石たち。幾何学模様を描くそれを、なんとはなしに目で追いかける。
白い湯気で靄がかっている浴室内はそれなりに広く、シグや他の子たちやゼスが一緒に入ってもなんら窮屈ではない。彼が浸かっている浴槽も広く、たっぷりのお湯がはられている。
シグの知っているお風呂というのは、お湯を沸かして熱い湯気でいっぱいになった小さな部屋で、汗と一緒に垢や汚れなどを吹き出させて、最後に体を拭くという方法だった。これまで湯に浸かるという習慣がなかったシグにとって、初めてとなる入浴であるが──実は昨日アーネストによって入れられているが、本人意識が無かったので──彼はかなり気に入っていた。
温かくて、心地よい。
再び湯を手にすくい、こぼれ落ちさせながらシグは思う。
──リサの香りと、少し違うなぁ。
ほんのり甘い香りが湯からはするので、初めは彼女に近づくと感じるのはこれかと思ったけれど、違うようだ。花の香りともまた少し違う、リサの香り。
ずっと包まれていたいと思うようなそれを思い、シグが目を閉じると、今日ですっかり聞きなれた、あきれたような声がかかった。
「寝ると、溺れるよ、シグ」
「……寝てない」
目を開けてその声の主──アルを見上げると、北国育ちのシグよりもなお白い肌の少年は、長い銀の髪を面倒そうに手でぎゅうぎゅうと絞りながら浴槽の縁に立っていた。──シグも初めはレインと同じように彼を女の子だと思ったけれど、うん、アルは男の子だ。
ただ、その右足には、シグの見知らぬものが描かれていた。
「……それは、絵?」
花に見えるそれを、シグは指さして問うた。途端にアルの表情が険しくなるので、シグは背筋がひやりとする。
けれど、怒鳴られるかと思ったけれど、アルは湯に入ってきながら、つっけんどんに言った。
「これは刺青。絵の具じゃないから、落ちない。……落とせない」
最後の一言を、ひどく苦々しげにアルは吐き出した。
「……そうなんだ」
──嬉しいものじゃ、ないんだな。
初めはアルのことを、綺麗だけど、とげとげしくて怖いと思ったけれど、この綺麗な少年は、文字を書くのに四苦八苦するシグにあきれたような顔をしつつも、細かくいろいろと教えてくれた。だから今日一日だけで、シグは自分の名前と他の四人と先生二人と、リサの名前を書くことができるようになった。
間違いやすいから気をつけろとさんざん言われた二個の文字も、アルがきちんと教えてくれたから、もうきっと間違えない。
アルは、シグにばかだとものろまだとも言わない。
レインに対してはだいたい厳しい態度だけれど、ウェンにもメルにも普通に接している。リサには、すごく嬉しそうに笑いかける。──見ていてなんだか落ち着かなくなるくらいに。
だから、険しい表情になるというのは、嫌なことなんだろう。
そうシグは判断し、話を変えようと思ったのだが。
「言っておくけど、これ入れるのすごく痛いから。……入れてみようとか、思わない方がいい」
硬い声でアルが続けたので、シグは幾度かまばたきした。
「……入れ、る?」
「──針の先に、色をのせて、それを皮膚の下に刺して押し込むんだ。……何回も」
「……っ」
アルの言葉のままに想像してみたシグは、ぶるっと身を震わせた。
それは痛そうだ。すごく痛そうだ。絶対したくない。──けど。
「……アル、我慢したんだ。すごいな」
シグがそう言うと、アルはその水色の瞳をわずかに見開いて、次いでさらに硬い表情になってかぶりを振った。
「──我慢なんて、できなかった」
その声に、その表情に、シグは何も言えなくなり、黙り込んだ。どうしようという言葉だけが、頭の中でぐるぐると回る。
ややあって、シグは問いかけた。
「……今は、痛くないの?」
「うん。──今は外より内側の方が痛い。疲れた」
落ち着いた声の返事にほっとしつつ、それもそうだろう、とシグは頷く。
昼過ぎからゼスは「走れ」と言って、さんざん四人を走らせた。歩いたり、全力で走ったり、ゆっくりと長い時間走り続けたり。走れないアルは、「筋力が足りない」と言われて、しゃがんだり片足立ちしたりなど別のことをしていたが、ゼスの監視の下休むわけにもいかず、本人も一生懸命だったので、かなり疲れたのだろう。
夕食はハンバーグというもので、とてもおいしかったのだけれど、アルははじめほとんど手をつけなかった位だ。見かねたリサが、「疲れていると思うけど、体を作るもとだから、ね? あーん、して」と言って、手ずから食べさせてあげていたのが、ちょっとうらやましかったので、最後に残っていた付け合わせのタマネギをシグも食べさせてもらった。既に全部食べ終わっていたレインはちょっと悔しそうな顔をしていたけれど、「一人でちゃんと食べられてるね、えらいよ」と言われてにこにこしていた。
ちなみにリサはそれまではメルの隣で、ナイフとフォークの使い方を教えていた。物静かな黒髪の少女と話したりすると、時々、リサは見ていてなんだかどきどきするような笑顔を見せる。そしてだいたいとても楽しそうだ。
メルも、あまり喋らないけれど、リサといる時は、笑顔を見せることが多い。
多分今も一緒にお風呂に入っているはずで、ちょっと──正直に言うととても──うらやましい。
そういえば、とシグは思い出す。
「……アル、足さするよ」
リサに言われていたのだ──お風呂に浸かったら、アルの足のマッサージをしてやって、と。
そろそろいいだろうと声をかけると、アルはうん、と頷いて両足を伸ばす。
細い足だと思う。動かさないと、弱ってしまうのだと、だからアルの足は細いのだと、リサは言っていた。
下から上へ、丁寧に押し上げるように。膝は丸く撫でるように、太ももの辺りは軽く揉みほぐすようにしつつ、やっぱり下から上へ。
「……痛くない?」
「……少し痛いけど、気持ちいいから大丈夫」
ほんの少し目を伏せて言うアルに、なんだかざわざわするものの、嫌がっているわけではないのだと判断して、シグは丁寧にマッサージを続ける。
終わった後に言われた「ありがとう」の言葉に、彼は目を細めて微笑んだ。
ここに来て良かった。そう、思った。