一日目 その2
食堂の机の上に並べられた皿には、色とりどりの野菜のサラダと、黄色と白がきれいな目玉焼き。その下にはカリカリのベーコンが敷かれ、隣には湯気のたっているきれいな黄色のスープのカップが並び、こんがりキツネ色に焼かれた、表面がすべすべした丸っこいパンが小さな籠に盛られていた。
──ただし、四人分。
「さ、どうぞ。冷めないうちに食べて。ちなみにこの家での食前のあいさつは、いただきます、だよ」
右からレイン、シグルド、アージェント、メリスメル、ウェンデルベルトの順に並んで席に着いたのだが、ウェンデルベルトの席の前には、緑色の器に入った白いものだけがぽつんと置かれているだけで、彼は右隣──メリスメルと彼の間の小さな椅子に座っているリサに金色の眼を向けた。
「いただきます」
素直に言って食べ始めるレインに続いて、他の面々も口々に「いただきます」を言って目の前の食事に取りかかるものの、自分達とウェンデルベルトの前の差が気になるようで、ちらちらと視線をよこしている。
そんな中、リサは緑色の器と匙を手に取ると、白いぷるんとした中身のそれをちょっとだけすくった。
「これはミルクゼリー。ウェンデルベルトは初めてのごはんでしょう? 胃とか内臓を、これまで全然使ってなかったところにいきなり普通のもの食べたら、普通の人間はおなかが痛くなったりするの。──ちなみにここがおなか」
ぽんぽん、と優しく触れられて、ウェンデルベルトは頷いた。音としての知識はあるものの、それが何を示しているのかということがほとんど分からない彼の状況を、リサは理解してくれているので、こういった風に説明を交えて話をしてくれる。
すっと唇をなぞられ、「これが口ね。……開けて」と言うリサに従い、口を開ける。そこに匙が入れられる。匙の冷たい感覚、次いで柔らかい、何か。
「で、これが舌、これが歯。そして多分今あなたが感じている感覚が、甘い、っていう、味」
ちょんちょん、と匙が彼の口の中に触れていき、じわりと湧いてくる何かが口からこぼれそうで、彼が口を閉じる直前に、すっと匙が引き抜かれる。
「今出てきたのが唾液。で、ゆっくりと、舌でゼリー……今食べたものを動かしてみて」
頷いて、彼は言われるとおりに舌を動かしてみる。ちょっとしかなかった柔らかいゼリーは、しかし、すぐに口の中で溶けてしまう──ごくん、とそれを呑み込んで、ウェンデルベルトは言った。
「甘い」
「うん。じゃ、もう一度──上の歯と下の歯を合わせてみて。そうそう、上手。で、口を閉じながらそういう風に……よくできました、それが噛むっていうこと。次はよく噛んでみようね」
先ほどより大きなかたまりが口に入れられるので、彼はがんばって噛んでみた──すぐに消えるが。
「なくなる」
「柔らかいからね。でも、噛む力は大事だから──皆、ちゃんと噛んでる?」
くるりと後ろをリサが向くと、一様にウェンデルベルトをうかがっていた四人が、こくこく頷きながらもぐもぐと口を動かしている。
「ちゃんと噛まないとだめなんだよ。顎が細いと大きくなったときに歯並び悪くなっちゃうし、噛めば脳が刺激されて──ええと、賢くなるための準備になるんだよ。脳っていうのは頭の中にあるもののことね」
「……そうなの?」
問うたのはシグルドだ。リサはウェンデルベルトにもう一口を与えつつ頷く。
「そうだよ。一度で三十回くらい噛める量を一口で食べるのがいいらしいよ」
「さんじゅう……」
「うん。──みんな、カード準備ー」
リサの言葉に、どこからかぴこぴこぴこぴこと集まってきた人形達。小さな手には文字の書かれたカードをよいしょとばかりに持っている。そして自分達の背後にカードを何枚か積み上げて長机の前にずらりと整列すると、一番左側の人形がぴこ、とカードを持ち上げた。そこに書かれているのは、「一」を示す文字。
「あれが、一。──次、二」
ぴこ、と「二」を示す文字のカードが上がり、「一」のカードは下げられる。ウェンデルベルトだけでなく、全員それを注視していた。リサは次々と数字を上げていく。
「──十。はい皆、手止まってるよ? 一口食べて、もう一度一から数えてみるね──さん、はい」
ぴこぴこと上下するカードと一緒に口を動かし、十を三回繰り返して、ごくんと呑み込む。「スープが冷めるから先に飲もうか」とリサが言うまで四人は無心に三十回噛みを繰り返した。ウェンデルベルトもかなりがんばった。リサが匙を渡してくれたので、こぼさないように気をつけつつ口に運ぶ。そうしながら、言われる数とカードの文字を頭に刻む。
「じゃあ次は三十まで数えていくよー」
十一以上は文字の数が増えた。けれどそれは規則的なもので、二、三回もすると覚えることができた。そのころにはウェンデルベルトの器は空っぽになっていたので、リサはにこ、と笑って彼の頭を撫でて、言った。
「じゃあ次、ウェンデルベルト、数えてみて。──カード、場所変更おねがい」
彼は頷き、人形たちはぴこぴことカードを持ってその位置を入れ替えた。
「一」ぴこ「二」ぴこ──彼のカウントに合わせて人形達がカードを上げ下げする。そして、ウェンデルベルトが「十三」と言うと、ぴこぴこ、と二枚のカードが上げられた。リサは、彼女に近い方の手を取り言う。
「こっちが右、そっちが左。あのカード、正しいのはどっち?」
「──右」
彼の答えに、人形達はカードを手放し、全員で拍手もどきをした。「よくできました」とリサも微笑んで撫でてくれるので、彼は真似をして口の両端を上げてみた。
そんなクイズを全員に当てておこない、次に出されたカードが何の数字か当てていくクイズをおこないつつ、初めての朝食はつつがなく終わった。
しばらくたってもウェンデルベルトのおなかは痛くならなかった。次は皆と同じものが食べれそうだね、とリサは微笑んでくれた。
◆ ◆ ◆
食後、全員で歯磨きの仕方とお手洗いの使い方を教わった。レインは「リサもトイレするの?」と思わず訊いてしまい、リサは「するよ」とあっさりと返答した──が、実のところ彼女ら魔人族の消化吸収機構はリサにとってかなり謎で、はっきり言うと、人間と同じく排泄のための器官はあるが、普通に食事をしている限りでは特に必要がない。リサもうっかり苦手な辛いものを食べて、水をがぶ飲みした時にお世話になったくらいで、「どうなっているんだろう」と自分の内臓の中をがんばって見てみたものの、見た目ではよく分からない上に気持ち悪くなって追求を諦めた過去がある。
ちなみに涙目で「じいや、おしっこしたい……トイレどこ?」と訴えざるをえなくなったのはリサにとっては葬り去りたい黒歴史であるが、アーネストにとっては忘れがたいリサ七歳のメモリアルである。──もじもじと頬を赤らめてふるふる震える嬢様のお可愛らしさを忘れられるわけがございません。
閑話休題。
「これからいろいろ教えてくれる先生二人を紹介するね」
リサがそう言って五人を連れていったのは、扉以外の四方の壁にずらりと本が並ぶ、ほぼ正方形の部屋である。大きな長方形の机が真ん中に置かれており、椅子が六個その周りに並べられていた。
その奥にある長椅子の前には、朱色の長衣に身を包んだ、青っぽい黒髪の女の人が立っていて──。
「え……?」
その綺麗な女の人の頭には、柔らかそうな白い兎の耳が付いていて、レインはぽかんと口を開けた。
「この人はミアン。ええと……人界には、獣人がほとんどいないっていうから、多分見るのは初めてだろうと思うけれど。兎型の獣人と夢魔の合いの子の魔族なの」
「……よろしくね」
少し恥ずかしそうに微笑む彼女は優しそうで、そして見ていてなんだかどきどきしてきて、レインは困惑した。
が。
「──見とれすぎだおまえら」
低い声。女の人の陰からのっそりと起きあがったそれに、レインはぞっと青ざめた。彼だけではない、五人ともが思わず一歩下がった。メリスメルなどは、小さく悲鳴を上げてリサにしがみついている。
そこにいるのは獰猛な獣。立ち上がった体は巨大で、爛々と輝く瞳は琥珀色、巨大な口元からのぞく鋭い牙──犬歯などという生やさしいものではない──は、人間の体など簡単に引き裂けそうだ。実物を見たことなど一度もないが、黄色と黒と白の縞模様に、レインは聞いた話を思い出した。
「虎……っ!?」
裏返った声が漏れる。森の中や林の中にいることがあるという、大型の獣。──どうして、それが、ここに?
逃げようにもこの場所は狭すぎるし、背中を見せたとたんに襲われそうで、彼はじっと相手を観察した。
──違う。ただの虎じゃない……虎の頭の、人間?
首から腕、胸元まではふさふさとした毛に覆われているものの、その腹部は日に灼けた人間の肌の色がのぞき、その下は黒革のズボンを履いているため分からないが、確かに二本の足で立っていた。──ミアンという女の人の細い腰に腕を回して。
「レイン物知りだねぇ。彼は虎の獣人のゼス。──大丈夫だよメリスメル、ミアンを口説かない限りゼスはそんな簡単に怒らないし、人間は基本的に食べないから。安心して? ゼスも、いきなり睨むのは止めて」
リサはそう言って、かたかた震えるメリスメルの髪を優しく撫でる。それに鼻をならし、ゼスという名の虎型獣人はどさりと再び長椅子に座った。──ミアンをその膝に乗せて。
「ちょっと、ゼスっ……」
ミアンが焦ったように身じろぎするが、ゼスの腕は彼女をがっちり拘束していてびくともしない。リサは小さく息を吐いた。
「ええと。……見ての通り、二人はとても仲がいいので、ミアンを口説こうとする時は死ぬ覚悟を決めてからにしてね。その時の責任は持ちません」
「リサ、訂正しとけ。──触ったら殺す」
「ちょっとゼス何言ってるのっ」
「そうだよゼス、不可抗力ってこともあるわけだし」
「んじゃ意図的に触ったらその腕ぶったぎる。それでいいな?」
ぎろっと琥珀色の目がレイン達を見回す。どう見ても本気なその眼差しに、一同こくこくと頷いた。──多分やる。本当にやる。気をつけないと!
「……相当大人げないよ、ゼス」
深いため息をついてリサは言うが、立ち上がろうとするミアンを引き寄せつつゼスは半眼でリサを見た。
「おまえな、六年間こいつら育てる気でいるんだろうが。ガキの六年はデカいぜ? 結構あっさりデカくなりやがる。今から伸びるだろうがこいつら」
「うんまあミアンはとっても可愛いから、何もしなかったらうっかり好きになるのは当然だけど」
リサは重々しく頷き、五人を振り返った。
「まあ、二人は分かってもらえたと思うから、この子たちを紹介するね。この可愛い子がメリスメル、朱っぽい金色の髪の子がレイニール、茶色い髪の子がシグルド、銀色の髪の子がアージェント、黒髪の子がウェンデルベルト」
「名前長ぇよ」
間髪入れずにゼスがうんざりという口調で言い放つ。
「その娘っこがメル、気の強そうなのがレイン、ぼけっとしてんのがシグ、生意気そうなのがアル、妙に魔力強いのがウェンでいいだろ」
端的な──あんまりにもな表現であるが、言われた子どもたちは素直にこくこくと頷いた。反対して睨まれるのは怖いし、特に反対する理由もない。ミアンは呆れたようにため息をついているが、リサは五人を見て首をかしげた。
「皆、いい?」
「うん。元々そう呼ばれてたし」
レインが頷くと、他の面々も再度こくりと頷く。
「じゃあ。──ミアンは私の先生でもあってね、魔法の勉強を教わっているの。一緒に勉強しようね」
「僕たちにも、使えるの?」
訊いたのは、アージェント──アルだ。リサの視線を受けて、ミアンが頷く。
「ええ。確かにその黒髪の──ウェンの魔力は強いわ。人間ではとても珍しい。でも、普通の人間も、個人差はあるけれど、魔力はあるの。訓練すれば、上手に引き出すこともできるようになるわ。……あなたたちのなかに、ゼスのような抗魔体質の人はいないみたいだし」
「……こうま?」
シグの問いに、ゼスは肩をすくめて答える。
「魔法や魔力の影響を受けにくい体質ってやつだ。だから俺は魔法は使えない。あくまでも、受けにくい、であって、受けない、というわけじゃねぇからな、そんな便利な物でもない。魔法が使えた方が楽だと思う時のが多いな。人界だと魔法使いの数は少ないみてぇだからな、余計にそうだろう」
「そうね。魔法を使う時に、魔力の強弱──強いか弱いかは、効果の範囲や効き具合を左右するけれど、実際に使うとなると、魔法を使う技術の方が重要になるわ。魔族は魔力は強いけれど、制御がなっていないという人も多いから、研鑽を積めば、人間でも魔族にかなわないということはないわ……普通の相手なら」
「ええと……普通の相手じゃないときは?」
レインの問いに、真顔で答えたのはゼスだ。
「相手になった段階で終わりだ。死にたくなければ敵に回すな。逃げようと思っても無駄だからな。ひたすら従順になれば運が良ければ生きていられる。まあその前に殺してくれって言いたくなる目にあうかもしれんがな」
「ゼス……そんなに脅さなくっても。刺激強すぎるよ」
青ざめる五人の顔色を見て、リサが口を挟むが、ゼスはそんな彼女を半眼で見た。
「自覚しろ、おまえらのことだ、リサ」
「私はこの子たちにそんなこと! ……ら?」
早口で言いかけたリサは、ふと眉を寄せてゼスを見た。
「──あの人、あなたに何かしたの?」
「ここで言えるか阿呆、それこそ刺激が強い」
「……なんでもっと早く言わないのっ」
「あのな。──おまえの父親に八つ当たりされたっておまえに報告したって、おまえを困らせるだけだろうが。俺にしたって恥になる話だ、吹聴したいわけじゃねえ。ただ、こいつらが血迷って脱走した時に何があるか位分からせておいた方がいいと思ったまでだ。──ディナレンス公爵閣下は間違いなくこいつらを排除したがる。おまえについたゴミとしか認識しねぇよ」
ゼスは、次いで五人を見た。
「これは脅しじゃねぇ、事実だ。──死にたくなければこの家から逃げだすな。生き延びたいなら強くなれ。魔界に来ちまったんだ、覚悟決めろ。……少なくとも俺はそういう風におまえらに接する」
レインは、ゼスの言葉に、口の中が乾いていくのを感じていた。
──事実、と、ゼスは言った。おそらくそれは確かなことなのだろう。
けれど、それなら、自分にも一つ、確かなことがある。
「……逃げないよ」
レインは、しっかりとゼスを見返して、言った。
「僕は逃げない。まだ弱いから、ここで、強くなる。──リサの望みをかなえられるくらい」
だから、と続けて。
「よろしくお願いします──先生」
頭を下げて、虎の目を再び見返すと、ゼスは鋭い牙を見せてにやりと笑った。
「……悪くない響きだ。リサ、これは本人が望んだっていうことでいいな?」
「そうなん、だけど──ゼス、ちょっと早いよ……まだ私レインにしかろくに説明してなかったのに」
リサの言葉に、ゼスは再び半眼になる。
「──それこそおまえが遅いんだろうが何やってんだ」
「ここで話そうと思ってたんだよ。っていうかゼスがそんなにざくざく話してくと思わなかったんだよっ」
「おまえが自分の子ども育てるようにって言うからその通りにしてみただけだ。知識は生き抜く術だ、与えて何が悪い」
「悪くないよっ、悪くないけどっ……」
リサは肩で息をする。可愛くて綺麗なリサだけど、ゼスと話をする時は自分たちに向けるよりもずっと表情豊かで、レインは少し、ゼスをうらやましく思う。そんな彼女に。
「……リサの望みって、何?」
訊いたのは、シグルド。リサは、少し困ったような表情で振り返る。
「何を協力したらいいの?」
メリスメル──メルが問う。
そんなことも聞いてなかったのかと、レインは答えづらそうなリサに代わって言うことにした。
「出世して、偉くなって、──リサが世界を征服しやすいように協力するんだよ」
彼の言葉に、メルはぽかんと口を開け、シグはなるほど、と頷き、アルは目を見開き、ウェンはいまいち分かっているのか謎な無表情ながら頷き、ゼスとミアンは顔を見合わせ。
「ちょっと待ってレイン!」
リサの制止に、五人はそろって彼女を見た。リサはぱたぱたと激しく手を振ってかぶりを振っている。
「いやいや私そんなこと言ってないよ? 出世してほしいとは言ったけど、世界征服なんて絶対言ってないよっ?」
「でもリサ、自分は良い魔族じゃないし、見返りを求めてるって言ってたから……違うの?」
「違うよ!」
リサは力強く否定する。そんな彼女にレインは訊いた。
「じゃあ、何してほしいの?」
「……とりあえず、立派に大きくなってほしい」
その答えは、レインにとっては十分ではなかった。──どうして、こんなにリサの口調の歯切れが悪いのだ。
「大きくなってからだよ。見返りって言ってたじゃないか。それだと、こっちがもらいっぱなしになっちゃうだろ?」
「別に、いいよ」
リサの視線はなぜか泳いでいる。それが歯がゆくて、レインは半泣きで詰め寄った。
「よくないよ! 子どもだから言えないことっ?」
「いや、そうじゃなくて……」
「リサぁっ」
レインがリサの腕をつかむと、リサはきゅ、と眉をひそめてレインを見て。
「……あの、ね。……侍女になりたい、の」
そう、言った。