初めてだらけの一日目
目が覚めると、そこは知らない寝室だった。
神殿の硬い寝台とは全然違うふかふかの寝具から身を起こし、メリスメルは周囲を見回した。
窓にはカーテンがかけられているが、そこからは柔らかい光がちらちらと漏れており、きっと今は朝なのだろうとぼんやりと考える。
床は落ち着いた茶色っぽい色合いの毛足の長い絨毯が敷いてあり、寝台の横にはちょこんと優しいピンク色の布靴が置いてあった。よいしょと寝台から滑り降りると、絨毯もふかふかでびっくりしたのだが、布靴に足を引っかけようとすると、自分の足とスカート部分を目にするわけであり、メリスメルは自分の体を見下ろした。
なめらかで柔らかい、淡いベージュの夜着。着替えた覚えはないけれど、それに不安になるよりも、これまで着たことがない、その布の質感に、彼女はしばし見とれた。そろそろと腕をさすってみる。──すごく、気持ちいい手触りだ。
胸元にはギャザーの脇にフリルがあって、とても可愛らしいその服に、メリスメルは小さく感嘆のため息をついた。
これまで着せられてきた服とは、全然違う。
と、響いたノックに、彼女は小さく身を震わせた。
「ど……どうぞ?」
「失礼いたします」
入ってきたのは、優しそうなおじいさんで、彼は彼女に一礼すると言った。
「おはようございます、メリスメル様。わたくしは当家で嬢様の側仕えを致しております、アーネストと申します。どうぞそのようにお呼びくださいませ」
じっと聞いていた彼女は、耳慣れない言葉に首をかしげた。
「──嬢様?」
「おそらく、メリスメル様には、『リサ』とお名乗りかと存じますが」
メリスメルは息をのんだ。
リサ。──彼女の名前を呼んでくれた、綺麗な、とても綺麗な少女。彼女を神殿から連れ出してくれた少女。
人界から魔界へと行くときは、少し体に負担がかかるから、眠っていた方がいいと言われ、目を閉じたところまででメリスメルの記憶は途切れているが、本当に──リサは存在していて、彼女を連れてきてくれたのだ。多分、リサの家に。
「リサに、会えますか? お礼、言わないと……」
「その前に、お召し替えをなさいませんとな。──どうぞ、こちらを」
アーネストの後ろから、ぴこぴこと、小さな女の子の姿の人形? のようなものが進み出て、水の入った大きなボウルを小さな台の上に置く。その隣には別の人形がぴこぴこと進み出て、タオルを手に待機していた。
顔を洗えということだと判断し、メリスメルは小さな台に近づいた。少し温めのそれは、禊ぎの水とは違う。
洗い終えると、人形がぴこぴことタオルを差し出してくれるので、礼を言ってそれを受け取った。顔をうずめ、柔らかさに目をみはる。
さらに用意されていたのは、水色のワンピース。白い丸襟と、茶色いすべすべの前ボタンがついていて、シンプルな形であるけれど、これも可愛らしい。広げて見せられたそれを声なく見つめていたメリスメルに、アーネストは穏やかに声をかけた。
「着替え終わりましたら、食堂へお越しください。嬢様がそちらでお待ちです。──この者に、声をおかけください」
ぴこ、と進み出た人形の肩からは、メルは読めないながらも、「案内係」と書かれたタスキがかけられていた。
では、と立ち去りかけるアーネストに、メリスメルは慌てて頭を下げた。
「あの……ありがとうございますっ」
「──わたくしに礼など不要でございますよ、メリスメル様」
振り返ったアーネストは、穏やかに告げる。
「あなたがたをお招きしたのは嬢様でございます。そして嬢様はあなたがたをご友人として遇するおつもりのようです。今後、こちらに滞在していただきますゆえ、何かとわたくしがお世話をする機会もあるとは存じますが──どうぞ、お気を楽になさってください」
そういうものなのか……と思ったが、彼女は、聞きとがめた言葉を口にした。
「あなた、がた?」
「はい。あなたを含め五名──他の四方は男性ですが。協力者候補としてお越しです」
「……そうなの……」
──ひとりじめできるわけじゃ、ないんだ。
ほんの少し、残念だった。けれど、小さく頭を振ってその思考を追い出した。リサは言っていたではないか、「協力者を探している」と。
気を取り直して、メリスメルはぺこりと頭を下げた。
「あの、これからよろしくお願いします、アーネストさん」
「はい。こちらこそよろしくお願いいたします」
アーネストが出ていったので、メリスメルは服を人形から受け取った。けれどボタンつきの服は久しぶりすぎて、上からかぶったはいいものの、少しもたもたとしてしまう。
物言わぬ人形たちは黙ってその様子を見ていて、少し焦っていると、彼女の足に一体がぴこ、と触れ、ふるふるとかぶりを振る。ゆっくりとボタンを留める仕草をするその人形にあわせ、周りの人形がこくこくと頷いた。
「あわてるな、ってこと?」
こくこく。一斉に頷く人形たちに、メリスメルは思わず頬を緩めた。
「ありがとう」
ぐっ、と人形たちは小さな親指を立ててそれに応える。
ボタンを全部留め終えると、膝丈までの靴下が運ばれてきて、壁際の、布がかかっている台の前にある椅子を示されたので、そちらで履く。そして、何かクリームのようなものを顔などにぺたぺたと塗られ、ブラシで髪をといてもらった。それが終わると、人形はぴこぴこと二体が台に上り、かかっていた布を左右から引っ張った。──鏡だ。
そこに映っていたのは、びっくりしたように目を見開いた、黒いおかっぱの女の子で──自分だということは分かったけれど、記憶の中にあるよりもずっと可愛らしく、お嬢様のように見えた。
立ち上がってくるっと回ると、ワンピースはふわりと円を描いて、揺れる。──すごい。すてき。……嬉しい。
そんなメリスメルを、人形たちはぴこぴこと拍手もどき──音がぽすぽすとしか出ない──をして、次々にぐっと親指を立てている。誉めてくれていることが分かったので、「ありがとう」と言いつつ、メリスメルは真似をしてぐっと親指を立ててみた。すると人形たちはぴこぴこと飛び跳ねだした。ハイタッチなどを繰り出しつつ、どうやら喜んでいるようである。
笑みを浮かべてそれを見下ろすメリスメルに、案内係の人形が近づき、首を傾げた。リサが待っていることを思い出し、メリスメルは言う。
「案内、お願いします」
こくんと頷き、案内係は歩きだした。メリスメルはその後についていく。
赤い絨毯の敷かれた廊下を歩いていくと、吹き抜けになっているところがあり、手すりの間から下を見ると、どうやら玄関につながる大きな広間のようだ。そして下に降りる階段の側に、彼女と同じ年頃の子どもが三人。それぞれたすきを下げた人形が横にいるから、彼らが他の「協力者候補」なのだろうけれど。
何故か、朱っぽい、短い金髪の子と、長い銀色の髪の子が、にらみ合いをしている──というより銀髪の子が、相手をにらんでいるようで、金髪の子が困ったような顔になっていた。メリスメルを見ると、はっと表情を変えるが。
彼らは一様に、動きやすそうなシャツとカーキ色の長ズボンといういでたちだったのだけれど、振り向いた長い銀髪の子は、リサとはまた違うけれど、とても綺麗な子だった。ただしものすごく不機嫌そうだが。
「あ……君が、女の子なのか」
金髪の子が、笑みを浮かべる。その言葉に、銀髪の子が腕組みをしてフン、と鼻を鳴らした。
「そうだよ。僕は男だ」
「しかたないだろ!? そうは見えなかったんだからっ」
「そういうのを節穴っていうんだ」
──男の子、なんだ。……きれいな、長い髪なのに。
なんとなく、険悪な理由が分かったメリスメルは、そばでぼうっとしている茶色の髪の少年に、とりあえず、あいさつした。
「あの……はじめまして」
「……はじめまして」
少し間があいたのを不思議に思うが、それをきっかけに向こうの二人は口論をやめ、メリスメルと茶髪の少年に向き直る。
「……はじめまして。僕は」
「ハジメマシテ。お前の名前なんかどうでもいいよリサが待ってる。早く行こう」
ぴしゃりと遮る銀髪の子に、さすがにきっと金髪の子は厳しい視線を向けたが。
「──いかがなさいましたか皆様?」
穏やかな声をかけられて、ぱっと四人はそちらを振り向いた。そこには、アーネストと、彼に手を引かれて歩く、三人の少年たちと同じいでたちの、長い黒髪を緩い三つ編みにした、少年。
──彼がきっと、五人目。
「さ、参りましょうか。──ウェンデルベルト様、こちらが、一緒に勉強する方々です」
「一緒、に?」
「さようでございます」
彼の表情のない金色の目が、メリスメルたちを見回す。なんだかそれにぞくり、と背筋が震えるのを感じて、メリスメルは息をのんだ。
その感覚を受けたのは彼女だけではなかったらしく、声を無くしたかのように他の三人も黙っている──が、ややあって、茶色の髪の少年が、小さく言った。
「……なんか、リサ、みたいだ」
「え?」
一斉にメリスメルと、金髪銀髪両少年が彼を見る。
「どこが」
銀髪少年の妙に不機嫌そうな声に、茶色の髪の少年は困惑したような表情で黙り込んでしまう。
と、そこに穏やかな声でアーネストが問いかけた。
「もしや──シグルド様は、嬢様がお怒りになっているところをご覧になったのでしょうか?」
「……うん。おんなじ、感じがする」
「お前リサ怒らせたのっ?」
銀髪少年がさらに険悪な声を出すが、シグルドと呼ばれた彼はぷるぷるかぶりを振った。
「……ち、がうっ」
「じゃあどこが似てるっていうのさ」
苛立たしげな銀髪少年の声に、しかし答えたのは茶色の髪の彼ではなくて。
「魔力かなー。とりあえず皆、降りておいでよ」
子どもたち四人は、ばっと声のした階下を見下ろした。ウェンデルベルトだけは緩慢に、その声の方を見る。
「リサっ」
真っ先に駆け下りていくのは金髪の少年。茶髪の少年が無言でその後に続き、銀髪の少年は少し悔しそうに表情を歪めてゆっくりと階段を下りていく。右足をかばうように。
メリスメルは、そっと彼の横に並んで、話しかけた。
「あの……走れないの?」
「……うん。練習したら、走れるようになるって言ってたけど」
「怪我、したの?」
「……そんな感じ」
そんな会話を交わす二人の後ろを、アーネストとウェンデルベルトと呼ばれていた少年は、同様にゆっくりと下りていく。
「これは、階段というものでございます」
「階段……」
「そして、あなたのそちらの手──空いている方にあるものが、手すりというものです」
「手すり」
一語一語、アーネストの言葉を繰り返す少年の声を背中に聞きながら、メリスメルは不思議に思った。この中では一番小さいみたいだけど、まるで本当に小さい子どものようだ。
階下からは、金髪の少年の声が響く。
「リサ、なんであんな意地悪い奴選んだの!? 銀色のっ」
名指しされた銀色の眉は当然ながらぎゅっとしかめられた。けれど。
「レイン、あの子女の子扱いしなかった?」
「……した、けど」
「その後謝った?」
「……まだ」
「じゃあ、どうしたらいいと思う?」
「っでも、そんな、たいしたことじゃっ……」
「レイニール」
静かともいっていい口調なのに、その響きは聞いていたメリスメルの息をものませる程の強さで。
「大事なものは人それぞれ。嫌なことも、ね。……あなたが大したことじゃないと思っても、他の人はそう思わないこともある──というのは、分かる?」
「……うん」
「じゃあ、どうする?」
しばしの沈黙。階段を下り終えたメリスメルと銀髪の少年に目を向けてきたレインというらしい少年は、つかつかつかっと歩いてきて、二人の前でがばっと頭を下げた。
「ごめん。僕が悪かった」
「……いいよ。僕も、言い過ぎた。ごめん」
言いながらも、銀髪少年の視線はまだかなり険しい。
何故ならリサには、シグルドがべったりと抱きついているのである。──正直、メリスメルも面白くない。なので、銀髪少年を支えていた手を離し、小走りに近づいて、リサに抱きつくことにした。
「おはよう、リサ」
「おはよう、メリスメル。──とても可愛い、よく似合ってる。よく眠れた?」
するりとシグルドの手をほどいて、メリスメルの体を抱き返してくれるリサ。それが嬉しくて、メリスメルは微笑んだ。
「うん。ありがとう、リサ」
するとリサがとろけるような微笑みを浮かべる。どきどきと胸が高鳴るようなそれに、メリスメルはしばし陶然と見入った。煌めく紫水晶の瞳から、目が、離せない。
数秒の沈黙を破ったのは、アーネストの穏やかな声だった。
「──嬢様?」
「ああ……ごめんなさい。おなか空いているでしょう? こっちが食堂なの。ついてきて──ああ、案内係ごくろうさま。次のお仕事よろしくね」
リサの言葉に、メリスメル達についてきていた四体の人形は、しゅぴっと片手を上げると、ぴこぴこと走って一斉にどこぞへと去っていく。
見送るでもなく、リサはすっと動いて、メリスメルの後ろで固まっていた──リサが動いた方向を見たからメリスメルも気づいた──銀髪の少年の手を取り、彼の顔をのぞき込む。
「おはよう──大丈夫、アージェント? 足、痛い?」
「……まだ、大丈夫」
ほんのり顔を赤らめて答える銀髪の少年──アージェントは、見ていたら落ち着かなくて、どうも見ていたらいけないような気がしてきて、けれど目を離すわけにはいかない気がして、メリスメルは困惑した。
そんな彼女の前で、リサは「……無理、しないで」と言いながら、彼の腕を取ってゆっくりと歩き出す。そして、アーネストの側に行くと、彼に手を引かれているウェンデルベルトに微笑みかけた。
「おはよう、ウェンデルベルト。──おはようっていうのは、朝のあいさつ」
「おはよう、リサ。……朝?」
「うん。目覚めるとき、お日様が昇るとき、昼の始まるとき、夜の終わるとき。……後でお日様を見に行こうね」
「うん」
ゆっくりと、歌うようなリサの言葉にこくりと頷く黒髪の少年──ウェンデルベルト。
──やっぱり、言葉を知らないのだ、彼は。
メリスメルの胸に下りてきたその事実に、沸き上がるのはしかし、哀れみではなく、疑問だった。
──どうやって、彼は、大きくなったんだろう。
周りをそっとうかがってみると、レインもシグルドも、不思議そうな顔でウェンデルベルトを見ていた。
「じゃあ、行きましょうか」
そんな空気をさらりと流し、リサはアージェントを促して歩きだす。
メリスメル達は、それに続いた。