何でもない日
短編です
定年して一年、ようやく何もしない生活にも慣れてきた。
朝は相変わらず出勤していたころと同じような時間に起きてしまうが、まぁ、遅起きするよりはよいだろう。
今日は妻から、お使いを頼まれた。俺と違って社交的な妻は、今日はフラダンス教室に行くんだとか言っていた。今度その教室の友人たちと旅行に行くんだとかで、気に入りのケーキ屋の焼き菓子を買ってくるように頼まれた。“今日はお暇でしょう?”なんて言われたけど、正確には“今日も”だ。悪かったな。
電車に乗って、降りる駅を確認すると、会社のある駅と同じ駅がその店の最寄りであることがわかった。行き慣れた道だ、何の変哲もない。そう思っていたが、窓の外を見ていると、遠くに小さな森が見えてきた。ふと、定年する前に入った新人が言っていたことを思い出した。
「知ってます?あそこの森、有名なパワースポットらしいですよ」
パワースポットなんて、くだらない。神だか仏だか幽霊だか、そんな非科学的な存在を大人になってまで信じているやつの気が知れない、と一蹴した記憶がある。
その場所が、会社の最寄の一駅前にある。なんとなく、気になった。どうせ時間の制限のある予定じゃない、少し寄り道をするくらい、なんてことはないだろう。せっかくだから俺も、定年後の生活を楽しんでみようじゃないか。
珍しくそんなことを思って、俺は一駅前で降りた。もともと営業職だ、歩きには自信があったし、一駅分歩いて一年でなまった体を動かすのも悪くない。なんだかんだ心の中で自分に言い訳をして、改札を出た。
ちょっとだけ、期待していたのは事実だ。社会人をしていた時は時間と仕事に追われていて、こんな風に途中の駅で降りるなんて、したことが無い。そもそも興味もなかったが、たまにはこういうのも、悪くない。
駅を出て、森の場所を時々確認しつつ歩く。
駅の周辺はチェーンの居酒屋などでにぎやかだったが、少し離れてしまうと、住宅街になってしまった。なんてことない、人気の少ない平日の昼間の住宅街。なんだ、せっかく意を決して一駅前で降りたのに、いまいち楽しくない。
そう思いつつも、せっかくここまで来たのだしと、歩みを進める。
電車の中から見るより、森はあまりに遠くて、存外息が切れた。営業職の時は足で稼げと先輩に言われ、俺も新人たちにそう教えていた。そうやって何時間も何万歩も歩いていたのに、たった一年歩かない生活をしただけで、こんなにも体力が落ちるのかと、ちょっと自分の老いに愕然としてしまう。人生は世知辛いものだ。
そんなことを思っていると、いつの間にか森が近づてきた。
少しだけ心が弾んでいた、パワースポットと言うくらいだから、きっと鳥居があって、神社のような建物もあるんだろう。まだ何も見つけていないのに、なにか秘密基地を見つけたような、子供の頃の気持ちが湧き上がるような気がした。
森に近づいていくと、立て看板に大きく「関係者以外立ち入り禁止」と書かれており、ただの私有地であることがわかった。森の周辺には策が張られ、ただただ気が生い茂っているだけだった。
汗をかいて、息を切らせてきたのに、がっかりだ。
しょんぼりと肩を落としつつ、目的駅に向かった。
途中で、個人経営の居酒屋を見つけた。昼間から開いているようで、のれんがはためいていた。昼食がてら、ココで食べていこう。
店に入ると、寡黙で頑固そうな年老いた店主が俺を見て、小さな声で「いらっしゃい」と言った。なんだか雰囲気のある店だなぁ。きっと名店に違いない。今度こそ秘密基地を見つけたぞ!
とりあえずつまみと日本酒を注文し、出てきた酒を一口飲んだ。うん、うん・・・うん。つまみも食べる。うん・・・うん。普通だ。何というか、普通だ。可もなく不可もなく。まずいわけではない。でも、言っては悪いが、期待したほどではなかった。
でも店に悪いから、つまみを数種類、軽くつまんでそれだけで店を出てきた。
なんだか期待した以上の結果を得られなくて、残念な気持ちにさいなまれていた。
人生とは、なんて儚くて世知辛いんだろう。
たいして酔えなかったが、目的駅について、俺は帰路についた。
——あ、お使い・・・——
「あら、ふふふ、珍しい」




