異世界転生
子供の頃、両親は俺によく言っていた。
――勉強をしなさい。
――勉強をしなければ、ちゃんとした職につけない。
――勉強をしなければ、お前は一生負け組だ。
それが、当たり前の言葉だった。
自分の両親は、二人とも学歴がいいわけではない。
母は大学在学中に俺を身ごもり、中退した。
その時の夫――つまり俺の実の父親は、DVもモラハラも平然とやる男で、俺が三歳の頃に離婚したらしい。
その直後、母は再婚した。
今の父は、学歴に強いコンプレックスを持っている人間だった。
学歴こそが人の価値を決める。
学歴がなければ、人生は終わりだ。
そう、本気で信じている人だった。
だから俺は、小さい頃から何かあるたびに言われた。
勉強をしなさい。
勉強をしなさい。
勉強をしなさい。
俺は、両親に言われるがまま勉強をした。
嫌でも机に向かった。
褒められたくて。
殴られたくなくて。
だけど――俺に勉強は向いていなかった。
いや、もっと正確に言えば、
“努力して結果を出す”という行為そのものが、どうやら向いていなかったらしい。
学校のテストで平均点しか取れなかっただけで、
両親にボコボコに殴られたこともある。
お前はダメだ。
出来損ないだ。
ろくな人間にはならない。
産まなければよかった。
まあ、言われる暴言はだいたい一通り経験した。
それでも俺は、逃げなかった。
そこそこの大学に進み、
そこそこの企業に就職した。
実家が好きじゃなかったから、社会人になると同時に家を出た。
それからは、がむしゃらに働いた。
働いて、
働いて、
働いた。
評価されなくても、
理不尽でも、
怒鳴られても。
「これが大人になるってことだ」
そう自分に言い聞かせながら。
だけど――結果は、これだ。
現場で死にかけて、
心が壊れて、
すべてが嫌になって、
死のうとした。
死のうとしただけだった。
それなのに――
俺は、無惨にも命を奪われた。
自分で終わらせることすら、許されなかった。
……なあ。
俺の人生って、一体何だったんだろうか。
必死に生きた。
真面目にやった。
逃げなかった。
それでも、最後に残ったのは――
何もない自分だけだった。
もういい。疲れた。
俺は精一杯、頑張った。
だからもう、休ませてくれ。
「……い……。……ア……ジ……!」
遠くで、誰かの声が聞こえる。
くぐもっていて、輪郭が曖昧だ。
まるで水の底に沈められているみたいに、音が歪んでいる。
視界も同じだった。
白い膜を一枚、いや何枚も挟んだ向こう側で、世界が揺れている。
「さ……せ! ……おい……!」
「……く! こっ……!」
……うるさい。
もういいだろ。
最期くらい、静かにさせてくれ。
俺はもう、十分だ。
だが――
水底から、無理やり引き上げられるような感覚。
肺に空気が流れ込む。
胸が、苦しいほどに上下する。
息の熱。
誰かの吐息が、近い。
布が擦れる音。
土と草の匂い。
焦りと汗が混じった、人の匂い。
「アルジーヌ様!!」
その名前を呼ばれた瞬間、
意識が――強引に現実へ引き戻された。
「……っ!」
目を開ける。
次の瞬間、世界に色が戻った。
滲んでいた視界が一気に鮮明になる。
緑に切り取られた空。
頭上で揺れる木々の影。
最初に飛び込んできたのは――
必死な顔だった。
黒い髪の少女。
短く切り揃えられているが、前髪は伸びすぎていて、目元が隠れている。
肩で息をしながら、こちらを覗き込むその表情には、はっきりとした焦りが浮かんでいた。
「……よかった……!」
安堵の声。
その瞬間、全身に重さが戻ってくる。
背中に地面の感触。
腕のだるさ。
胸の奥に残る、鈍い痛み。
(……生きてる?)
口を開こうとして、喉がひりつく。
「……ここは……どこだ……」
声が出た。
――自分のものじゃない声で。
少女は、驚いたように一瞬目を見開き、
すぐに深く頭を下げた。
「森の外れです。アルジーヌ様」
……アルジーヌ。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が、微かに軋んだ。
知らないはずの名前。
呼ばれる覚えのない名前。
なのに――
なぜか、否定できなかった。
俺は、ゆっくりと瞬きをする。
頭の中で、何かが噛み合わず、ずれていく感覚。
ここは、どこだ。
俺は、どうなった。
俺は、六名橋の上で刺されて――死んだはずだ。
なのに。
俺は今、呼吸をしている。
思考もできている。
確かに“ここ”にいる。
ただ一つ、おかしいことがある。
目の前の少女が、俺のことをアルジーヌと呼んでいる。
「……」
全身が痛む。
それでも、俺はなんとか上体を起こした。
その瞬間、違和感が走る。
腕が――長い。
指が――細い。
皮膚が――妙に白い。
「……なに、これ」
呟いた声は、また知らない音だった。
俺は、自分の手を見つめる。
白い。
細く、しなやかで、明らかに俺の知っている“柏木悠真の手”じゃない。
胸の奥が、ざわりと騒ぐ。
「……誰だ、これ……。俺、死んだはずじゃ……」
声が掠れる。喉が痛い。
それでも言葉が止まらない。
「刺されて……血が出て……」
口にするほど、現実味が薄れていく。
「お嬢様は、毎晩眠れないほど……」
言いかけて、少女ははっと我に返ったように言葉を閉した。
森の静けさが、不自然に重い。
「とにかく、ご無事で何よりです。……でも」
声のトーンが、すっと落ちる。
呼吸が浅くなり、短剣を握る指に力が入った。
「一体……アルジーヌ様は、何と戦っていたのですか……?」
「何って……」
俺は言いかけて、言葉を失った。
改めて周囲を見渡す。
そこは――凄惨だった。
木々は途中から折れ、幹には深い裂け目が走っている。
地面は何度も抉られ、土が掘り返されていた。
踏み荒らされた草の上には、乾きかけた血の跡まで残っている。
まるで――戦争でも起きた後だ。
(……俺が、これを?戦っていた...?)
心臓が、嫌な跳ね方をする。
視線を落として、自分の服を見る。
血だらけだった。
胸元。袖口。腹のあたり。
赤黒く固まりかけた血が、布に染み込んでいる。
「……おい、待て」
喉が冷える。
(俺は……刺された。死んだはずだ。
なのに、ここにいる)
それだけでもおかしいのに、
目の前には“俺がやったみたいな戦場”が広がっている。
少女は唇を噛み、震える声で続けた。
「捜索隊が見つけられなかった理由が……分かる気がします。
この場所……普通じゃありません」
俺は息を呑んだ。
普通じゃない。
そう言われて、やっと気づく。
木が折れている。地面が抉れている。血がある。
でも――
死体がない。
敵の死体も、味方の死体も。
あるいは獣の死体もない。
あるのは痕跡だけで、“何が起きたか”の答えがどこにもない。
「……俺は、何と戦ってたんだ?」
俺の口から漏れたのは、独り言みたいな声だった。
少女は、一瞬だけ俺の顔を見つめた。
疑っているわけじゃない。
ただ、本気で理解できない顔だ。
「……覚えておられないのですか」
「覚えて……ない」
言った瞬間、自分の言葉が怖くなる。
こんな場所で、血だらけで、記憶がない。
それは“助かった人間”の状態じゃない。
それは――
“何かが入れ替わった”みたいな状態だ。
少女が、ごくりと唾を飲むのが見えた。
「アルジーヌ様……」
敬称は変わらない。
けれど、その呼び方の温度が少しだけ変わった。
警戒が混じっている。
「……まず、屋敷へ戻りましょう」
少女はそう言って、俺の腕に手を伸ばしかけ――途中で止めた。
触れていいのか迷ったみたいに。
その迷いが、俺の胸をさらにざわつかせた。
(この体は一体……誰だ)
そのとき。
頭の奥の、さらに奥。
言葉にならない“気配”が、一瞬だけざらりと動いた。
――ここで何があったか、お前は知っているだろ。
誰かの声のようなものが、脳の裏側で囁いた気がした。
俺は反射的に耳を押さえる。
「……っ」
少女がびくっと肩を震わせる。
「アルジーヌ様?」
俺は答えられない。
答えられないまま、
血の染みた自分の服と、折れた木々を見つめ続けた。




