プロローグ
西暦 2025年 埼玉県⚪︎⚪︎市
雨が痛い。
傘なんて差しても意味がないレベルで、横殴りの雨が顔面に叩きつけてくる。
靴の中はもう湖だ。
歩くたび「ぐちゅっ」と鳴って気持ち悪い。
現場の仮囲いが視界に入った瞬間、胸の奥が一段重くなった。
今日も戦場。武器はヘルメットと腰道具と、胃薬。
「柏木!こっち!ポンプ止まってる!排水追いついてねえぞ!」
開口一番、職人の怒鳴り声。
その奥で、発電機の唸りが不機嫌そうに鳴ってる。
泥水がスロープを伝って流れ込み、養生してたはずの資材が一瞬で茶色く染まっていた。
(……詰んでる。初手から詰んでる)
「了解っす!ポンプ確認します!」
泥を踏み抜きながら走って、ポンプの元へ。
電源ランプは点いてる。なのに吐き出しが弱い。
吸水側のストレーナーに、ビニールと枯れ葉と泥が詰まってる。
「……そりゃ止まるわ」
詰まりを引っぺがして、再起動。
水が勢いよく吐き出され、少しだけ現場が呼吸を取り戻す。
しかし、その“少し”の間にも――
「柏木さん!生コンの時間、ズレるって運転手が!」
「おい柏木!この図面、寸法合ってなくねえか!?」
「柏木!段取りどうなってんだよ!今日中に終わらせるって言ったろ!!」
声、声、声。
雨の音と混ざって、鼓膜の内側を殴ってくる。
スマホが鳴る。
表示された名前を見て、俺の胃がキリキリと痛む。
――上司だ。
「もしもし、柏木です」
『おい柏木。工程表見たけど、遅れてんじゃねえか。今日中に巻け。』
「いや、今この雨で――」
『雨?お前さ、雨降るの知ってたよな?対策してないの?』
“対策”ってなんだよ。
神に晴れろって土下座でもしろってのか。
「……段取りはしてます。今排水立て直して――」
『言い訳いいから。あと、明日の朝礼資料、今日中に送れ。写真付きで。
それと発注書、昨日のやつ、まだ俺に来てない。何してた?』
「……すみません、すぐ対応します」
『“すぐ”っていつ? 今日中な。あと写真は分かりやすく。
お前の撮る写真、いつも何撮ってんのか分かんねえんだよ』
通話が切れる。
ぶつっ、という音がやけに乾いて聞こえた。
通話を切った瞬間、俺は思わず叫んでいた。
「くそ、あのくそ上司め!」
土嚢袋を蹴り上げる。
水を吸った土嚢はやたら重くて、蹴った足の甲が鈍く痛い。
視界が滲む。雨のせいだけじゃない。
「いっそのこと、隕石でも降ってきて人類丸ごと滅びないかな」
そう、くだらない夢想を呟いた――その瞬間。
「おい危ないぞ!」
背後から、誰かの声。
反射で振り向く。
「え...?」
ーと同時に、世界が真っ暗になった。
-----------
朝が、怖い。
朝、家のベッドで目を覚まして、そう思った。
朝なんて来なければいい。
そうすれば、この地獄から解放されるのに。
布団から出れば現実が待っている。
満員電車に押し潰され、
現場では怒鳴られ、泥まみれになり、
事務所に戻れば上司の声が飛ぶ。
「……仕事、行きたくないな」
心の底からの本音だった。
新卒で入社して十二年。
欠勤もせず、逃げもせず、真面目に働いてきた。
それが当たり前だと思っていた。
けれど――
今日は無理だった。
体が、布団から出ることを拒否している。
朝が怖い。
外が怖い。
社会が怖い。
俺は、生まれて初めて仕事から逃げる選択をした。
昨日、現場で上から落ちてきた足場材に巻き込まれて怪我をした。
幸い軽い資材で、高所からの落下でもなかったため、大事には至らなかった。
だが、体のあちこちが痛むほどの打撲を負った。
本来なら大問題になる事故だ。
だが上司は、俺の心配より先に保身を選んだ。
「いいか柏木。明日も必ず出社しろ。
報告したら大ごとになる。分かってるな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが切れた。
それまで必死につないできた細い糸が、ぷつりと音を立てて切れた気がした。
もう、何もやる気が起きなかった。
会社を無断欠勤した。
日中、スマホは鳴り止まなかった。
画面に並ぶ、上司の着信履歴。
だが、出る気にはなれなかった。
ただ、天井を見つめていた。
⸻
どれくらいの時間が経っただろう。
どれくらいの日数が経っただろう。
時計を見る気にもならなくて、昼と夜の境目だけがぼやけていく。
ここ数日、上司からの電話は鳴らなくなっていた。
(……意外だな)
あの上司のことだ。
怒鳴り込んできてもおかしくない。
家まで押しかけて、「出社しろ」「逃げるな」と喚いて、説教を始めても不思議じゃない。
でも、来ない。
来ない理由は分からない。
ただ、“来ない”という事実だけが、妙に現実味を増幅させた。
(……俺、もう要らないのか)
そう思った瞬間、胸の奥がすうっと冷えた。
気づけば、三日、何も食べていない。
水だけは飲んだ。
蛇口の水を、コップに注いで。
味がしない。味がしないことだけが分かる。
「……はらへった……」
さすがに、体が限界だった。
ベッドから起き上がる。
布団がやけに重い。
体も重い。
それでも立たなきゃ、立てなくなる気がした。
ふらつきながら洗面所へ向かい、久しぶりに鏡を見る。
「……ひどい顔だな」
やつれた頬。
充血した目。
伸び切った髭。
頬に残った寝癖が、情けなく跳ねている。
(……俺、こんな顔だったっけ)
ひどい。
でも、不思議とショックはなかった。
そうなるのが“自然”だと、どこかで納得しているみたいだった。
三日ぶりに家を出る。
玄関の鍵を回す音が、妙に大きく響いた。
車に乗り込む。
コンビニを目指して、ゆっくりと走り出した。
――その途中だった。
道の端に立つ、古い看板が目に入る。
【六名橋 →】
地元で有名な、自殺スポット。
(……ああ)
名前を見ただけで、場所が浮かぶ。
たまにニュースになる橋。
よくない噂が、何年も消えない場所。
本来なら、避けるはずの文字だった。
なのに。
俺は、コンビニへ向かうはずだったのに――
気づいたら、ウインカーを出していた。
(……なんで)
自分でも分からない。
腹は減っている。
食べ物を買いに行く。
それだけのはずだった。
なのにハンドルは、勝手に橋の方向へ切れていく。
俺は、六名橋へ向かっていた。
⸻
人通りの少ない山道を走ると、六名橋に着く。
車を止め、外へ出る。
エンジンを切った瞬間、世界がやけに静かになった。
柵の反対側。
あと一歩踏み込めば、川まで真っ逆さま――そんな場所に立つ。
夜の川は真っ暗だ。
下を向けば、暗闇に吸い込まれそうだった。
風が、頬を撫でる。
夜の風が、気持ちいい。
そんなことを思うのは何年ぶりだろう。
ここ数年、俺はずっと息を詰めて生きていた。
仕事、責任、怒鳴り声。
自分の呼吸の音すら、まともに聞いていなかった気がする。
冷たいはずなのに、なぜか優しい。
誰にも触れられなかった日々に、風だけが触れてくるみたいだった。
朝が怖くて起きられなかった。
明日が来なければ楽になれる。
何度も、何度も考えた。
現実は、とても冷たい。
泣きわめいたところで、誰も助けてくれない。
助けてほしいと言うための元気すら、もう残っていなかった。
俺には何もない。
頑張って働いた。
真面目にやった。
逃げなかった。
それなのに――
だから、少し疲れた。
いや。
「少し」じゃない。
もう、十分だ。
この一歩で終わる。
……そう思ったのに。
「……なにやってるんだ、俺」
声が、夜風にほどけて消えた。
死ぬのが怖くなったわけじゃない。
ただ――バカらしくなった。
仕事に潰されて、誰にも頼れなくて、
最後に選ぶのが“ここから落ちる”って。
(……俺の人生、安すぎるだろ)
俺は柵から手を離し、ふっと息を吐いた。
そして何となく、星を見上げた。
雲の切れ間に、小さな光がいくつも瞬いている。
こんな夜でも、星は勝手に輝いている。
「どこか……誰も俺の知らない世界へ行けたなら……」
呟いて、自分で笑いそうになる。
漫画みたいだ。
現実逃避にもほどがある。
今の行動はほんの少しの気まぐれ。
それでも、ほんの少しだけ胸が軽くなった気がした。
――帰ろう。
そう決めて、車へ向かって歩き出した。
そのときだった。
橋の向こう側から、ふらふらと誰かが歩いてくる。
フードを深く被った男。
足取りが妙に頼りない。
酔っているようにも見えるし、何かから逃げているようにも見える。
時刻は深夜二時。
人通りの少ない橋の上。
こんな時間に、こんな場所を歩く理由なんて普通はない。
(……なんだ、あいつ)
嫌な予感が背中を撫でた。
けれど、俺はもう関わりたくなかった。
今日だけは、面倒ごとから逃げたかった。
視線を逸らし、できるだけ距離を取ってすれ違う。
すれ違う瞬間。
フードの奥から、男の顔がちらりと覗いた。
――笑っていた。
口元だけが、妙に歪んでいる。
次の刹那。
腹の奥に、熱が走った。
「……え」
遅れて、痛みが来た。
痛みというより、まず“圧”だった。
固いものが体の中に押し込まれてくる感覚。
息が、止まる。
膝が抜ける。
「ぐっ……!」
立っていられなくなり、その場に崩れ落ちた。
手をついた地面が、冷たすぎて現実味がない。
目の前に、赤いものが落ちる。
ぽた、ぽた、と。
雨じゃない。
夜の橋に、ありえない色の雫。
「……これ……」
言葉が喉で引っかかる。
「……俺の、血……?」
腹部を見る。
フード男の手にあったのは、鋭利な刃物。
ナイフのような――いや、ナイフそのものだ。
刃が抜けた瞬間に、痛みが一気に広がった。
熱い。
冷たい。
わからない。
とにかく、身体が「ここが壊れた」と叫んでいる。
フード男は、数歩離れたところで立ち止まった。
肩が小刻みに揺れている。
そして、壊れたみたいに笑い出した。
「あは……あはは……」
笑いが、だんだん大きくなる。
「ハハハハハハははははははは!」
その声だけが、やけに鮮明に耳に刺さった。
男はくるりと背を向けると、笑いながら走り去っていく。
フードが風に翻り、背中が闇に溶けていった。
「……待っ……」
止める声は出ない。
追いかける足も動かない。
視界が、ゆっくり滲む。
息が浅い。
胸がうまく上下しない。
(やばい)
脳がようやく理解する。
これは、冗談じゃない。
本当に――死ぬ。
さっきまで望んでいた死が、
今、俺の全身を現実として襲っている。
怖い。
怖い。
こんな形じゃない。
こんな終わり方じゃない。
意識が遠のく。
星の光が、にじんで消えていく。
「……死にたくない……」
皮肉にも――
さっきまで死のうとしていた俺の最期の言葉は、
生への懇願だった
元旦に財布落として、中に入っていた17万全て盗まれました。
むしゃくしゃするので小説を書きます。
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