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神々の血を啜る子供たち  作者: 妙原奇天


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第7話 洗脳の祈り

 王都の中心に、白い塔が立っている。

 〈光明院〉。

 昼は信仰の象徴、夜は機械の心臓。どちらも嘘ではなく、どちらも真実ではない。

 塔の内部は寒かった。石壁を磨きすぎて、温度の逃げ場がない。

 円形の大広間に、兵士たちが膝をついて並ぶ。顔は上げない、声は揃える、呼吸は命令に合わせる。

 祭壇の背後で、透明な管が脈打っていた。水銀色の液体が上下に揺れ、薄い光を震わせる。

 天井の輪型スピーカーから、低い旋律が染み出す。

 祈りの調律。

 音は言葉を持たない。けれど、意味だけは確かにある。

 ――疑いを捨てよ。

 ――考えるより、唱えよ。

 ――声を出す前に、心を差し出せ。

 神父ヴィルヘルムは、扉の陰からその儀式を見ていた。

 司祭としてではない。証言司の衣はすでに剥がされ、今は粗末な外套に身を包むだけだ。

 それでも、口の中にはまだ祈りの言葉の形が残っていた。

 噛み砕かないと飲み込めない骨のように、そこに残っていた。

 祭壇の前に立つのは、光明院の導師アダルベルト。

 年齢はわからない。目だけが若い。若さというより、眠っていない光だ。

 彼は両手を広げ、声に息を混ぜる。

 「祈りは扉だ。お前たちの胸にある扉を、わたしが開く。開かれた胸に、主の光を注げば――」

 彼は小さく笑った。

 「――戦いは楽になる」

 兵士たちの背筋が一斉に伸びる。

 スピーカーの旋律が一段低くなり、床の下に埋められた低周波の装置が震え始めた。

 骨の奥が、勝手に拍を刻む。

 呼吸の速さが、祈りの文言に寄り添うように変わっていく。

 導師は次の言葉を置く。

 「主の声が、頭蓋の内側で鳴るのを感じなさい」

 兵士の一人が、喉の奥で嗚咽ともため息ともつかない音を漏らした。

 「感じるなら、それを愛しなさい。愛せれば、疑いは消える」

 愛という言葉が、ここでは刃物に似ていると、ヴィルヘルムは思った。

 彼は、懐の中の紙束を握りしめた。

 内部構造の図面、装置の配置、儀式の手順。

 光明院で「祈り」と呼ばれているものの正体。

 これを外へ出す。王都の壁の外へ。

 手段は多くない。選べる時間も多くない。

 昨夜、礼拝堂で扉を塞いだときから、彼はもう司祭ではなくなった。

 ならば、せめて言葉の代わりに、事実を外に放つしかない。

 「証言司」

 背後で低い声がした。

 振り向くと、黒衣の信徒が二人、廊下の影から歩いてくる。

 彼らの目は乾いていた。

 「儀式へ戻ってください」

 「わたしはもう、司祭ではない」

 「今夜のあなたは“見学者”です。導師はそうおっしゃった。見学者は、声を出さない」

 信徒の口元が、祈りの形のまま固まる。

 言葉ではなく、形だけが信仰を継いでいる。

 ヴィルヘルムは視線を広間へ戻した。

 儀式は進む。

 導師が合図をすると、兵士の列から十人が立ち上がり、祭壇の横へ移動した。

 透明な管の下、銀色の椅子。背もたれは高く、左右から細い輪が伸びている。

 輪は頭を抱え込むためのものだ。

 そこへ座れば、“祈り”は骨に染みる。

 唇の動きは自分のものでも、声は主のもの。

 終わる頃には“楽になる”。

 疑う力を失うという意味で。

 「主よ、わたしの思考を軽くし……」

 合唱が始まる。

 ヴィルヘルムの喉の奥でも、詩句が勝手に組み上がろうとした。

 彼は舌の裏を噛んだ。血の味がする。

 それで、やっと言葉の骨は崩れた。

 床下の装置の震えが強くなった瞬間、塔全体がごくわずかに軋んだ。

 外で、何かが爆ぜた音。

 塔の下層で火薬の匂いが広がり、警鐘の代わりに鉄靴の走る音が走る。

 導師の顔の若い光が、初めて揺れた。

 「非常招集」

 信徒がささやき、広間の扉が同時に開く。

 兵士たちが立ち上がり、儀式の輪が解ける――はずだった。

 しかし、数人は立ち上がれない。

 目は開いているのに、脚の感覚が遅れて戻る。

 祈りの調律は、すでに深く入っている。

 その混乱の隙間に、影が滑り込んだ。

 少女が、廊下の煙と一緒に転がるように飛び込んで、立ち上がった。

 肩までの髪が煤で灰色に染まり、頬に切り傷。

 リスだった。

 彼女の眼は、夜の水面のように揺れていた。

 焦点を結ぶたびに、別のどこかへずれる。

 「動かないで」

 リスは腰の袋から円筒を取り出し、床へ投げた。

 耳をつんざく高音とともに、白い煙が広間へ広がる。

 祈りの旋律を乱す周波の混合。

 ヴィルヘルムの耳にも痛い。でも、これでいい。

 祈りが形を崩す。

 導師の声が歪む。

 兵士の合唱が割れる。

 「こっちへ」

 リスはヴィルヘルムの手を掴んだ。

 その手は熱かった。油と血の混じる温度。

 ふたりは側廊へ走る。

 足音。追っ手。

 塔は曲がらない階段をぐるぐると上へ回し、息はすぐに足りなくなる。

 途中の細い扉を、リスが肩で押した。

 内側は機械の部屋だった。

 床の下から音の震えを作っていた装置。

 黒い箱、銀の管、ケーブルが束ねられ、心臓のように脈打っている。

 「これ、止められる?」

 ヴィルヘルムが問うと、リスは首を振った。

 「止めたら、塔が私たちごと鳴る。もっと悪い音で」

 彼女の唇が乾いて、血が滲む。

 「でも、弱められる。少しだけ」

 彼女は箱の一つの蓋を開け、金属の接点に薄い板を差し込んだ。

 音が、少しだけ遠のく。

 息が戻る。

 祈りがすぐそばにいない。

 「どうやってここまで」

 「地下の納骨堂から。川沿いの門を抜けたら、兵の目が薄い時間だったから」

 彼女は短く答え、すぐに口を閉じた。

 言葉は、今の彼女には体力を奪うらしい。

 その沈黙に、別の音が混じった。

 耳の奥で、微かな囁き。

 ヴィルヘルムは眉を寄せ、リスの横顔を見つめた。

 彼女は壁に手をつき、こめかみを押さえる。

 「……やめて」

 小さな声。

 「誰の声がする」

 「わからない。誰でもない誰か。優しい声。嫌な声。『戻ってきて』って、言う」

 扉の外で、信徒たちの足音が重なった。

 「見つけたぞ」

 「封鎖しろ」

 扉は厚くない。時間は、もうない。

 ヴィルヘルムは装置の間を見渡し、壁に埋め込まれた細い階段を見つけた。

 「上へ。塔の内側に渡り廊下がある。外へ抜ける道は、上にしかない」

 リスは頷き、階段へ足をかけた。

 彼女の足取りは、途中でふらつく。

 吸い込んだ祈りの残響が、体の奥でまだ鳴っている。

 渡り廊下は狭く、片側は石壁、片側は空だった。

 夜風が強く、塔の側面を滑り落ちるように吹く。

 下を見れば、石畳と灯り。

 人が豆粒みたいに行き交い、鐘楼の屋根が遠い。

 彼女は手すりに掴まり、体を壁に押し付けて進んだ。

 「ここの上に、司令室がある。そこに外線が一本だけ繋がっている。図面と記録を、そこから外へ」

 ヴィルヘルムが胸の紙束を叩く。

 「これを出せれば、祈りの正体はもう隠せない」

 「出せば、世界は変わる?」

 「すぐには変わらない。けれど、祈りの形を疑う人が増える。疑う人は、刃を持たない」

 リスは短く笑った。

 「疑う人は、長生きできない」

 「それでも、誰かが長く残る」

 司令室の扉は鍵がかかっていた。

 リスはピンを抜き、穴に差し入れ、耳を近づけた。

 「少し時間を――」

 そのとき、彼女の指が止まった。

 瞳の焦点が溶け、呼吸が浅くなる。

 「リス?」

 返事はない。

 彼女の唇が、何かをなぞるように動く。

 祈りの文句に似ているが、違う。

 命令ではなく、呼び戻す音程。

 ――戻ってきて。

 ――眠って、眠って、目を閉じて。

 逆の祈り。

 逆洗脳。

 ヴィルヘルムは彼女の肩を掴み、軽く揺らした。

「ここにいる。今はここだ」

 彼女は目を瞬かせ、喉の奥で乾いた音を立てた。

 「……ごめん」

 「謝るな。これはお前の罪じゃない。あの塔の罪だ」

 扉の鍵が、かすかに鳴いた。

 リスは集中を取り戻し、ピンを回す。

 扉が開く。

 司令室の内側には、通信機が一台。古い。だから、強い。

 電源を入れる。回線音が細く鳴る。

 「宛先は」

 「王都の外。自由連合の野戦医療隊の簡易局。どこでもいい。『祈り』を信じない誰かの耳へ」

 ヴィルヘルムは紙束を広げ、図面の端に短い言葉を重ねた。

 装置の名称。効果。副作用。

 そして、ひとつだけ、祈りに似せた文句を書いた。

 “祈りが楽にしてくれると言われたら、その場から一歩、後ろへ下がれ”

 送信ボタンを押す。

 小さな機械の中で回路が音を立て、言葉が外へ滑っていく。

 外線は遅い。誰かが途中で拾うかもしれない。

 それでも、出た。

 出てしまえば、戻らない。

 「逃げよう」

 ヴィルヘルムが振り返ると、リスは窓の外を見ていた。

 その眼差しは、遠くの闇に糸を垂らしているみたいだった。

 「誰の声だ」

 「多分、私の声」

 「違う」

 ヴィルヘルムは首を振った。

 「お前の声は、もっとざらざらしてる。油と土の匂いがする」

 リスはその言葉に、小さく笑った。

 「そうだといい」

 笑いはすぐに消え、彼女は額を押さえた。

 「でも、たまに、私の声が私じゃなくなる。『あなたは役目を果たした。次は眠っていい』って」

 「誰がそれを言う」

 「わからない。ただ、優しい。優しいから、逆らいにくい」

 「無力化しろ!」

 背後の廊下から怒号。

 司令室の扉が開き、信徒たちがなだれ込む。

 ヴィルヘルムは立ちはだかる。

 腕力では負ける。

 それでも、一撃で十分だ。

 兵の槍を受け流し、ガラスの紙重りでこめかみを打つ。

 壁にもたれかかった兵の目が白く裏返り、倒れた体が他の兵の脚を縺れさせる。

 その隙に、リスが窓枠へ身を乗り出した。

 「行ける?」

 「高さはあるけど、塔の外壁に足場がある。鎖で降りられる」

 「お前の手は震えてる」

 「震えた手でしか、私は生きてない」

 彼女は外へ体を出し、鎖に足をかけた。

 夜風が強く頬を打つ。

 下から見上げる兵の影、上からの怒号。

 ヴィルヘルムが後に続き、窓から身を出す。

 鎖が二人分の重さで鳴き、石壁が冷たい。

 足の裏に伝わる塔の鼓動は、まだ弱まっていない。

 祈りは死なない。

 だから、逃げる。

 生き残るために。告げるために。

 半分ほど降りたところで、リスの手が止まった。

 「……やだ」

 細い声。

 視線は空のどこかを追い、体が固くなる。

 「戻って」

 彼女の唇が、誰かの言葉を借りる。

 「戻って、眠って、忘れて。楽になる」

 逆洗脳の波が、夜風の中でも彼女の耳を打つ。

 ヴィルヘルムは鎖を片手で掴み、もう片方の手でリスの手首を叩いた。

 「痛っ」

 「痛みは、呼吸を連れ戻す」

 彼は静かに言った。

 「リス。お前は誰のために生きている」

 彼女は息を吸い、吐いた。

 「わからない」

 「なら、いまは一つだけ決めろ。『ここを出る』。それだけで十分だ」

 リスは目を閉じ、ゆっくり開いた。

 「……出る」

 その言葉は細かったが、確かに彼女自身の声だった。

 地面が近づく。

 最後の数メートルを飛び降り、膝で衝撃を逃がす。

 兵の怒号が上から降ってくるが、すぐには追ってこられない。

 ふたりは路地へ走る。

 塔の影は長く、夜がまだ味方をしている。

 角を曲がるたび、心臓の位置が変わる。

 どこかで猫が鳴く。

 人間より誠実な鳴き方だった。

 川沿いに出たところで、リスが足を止めた。

 橋の上に立つ人影。

 少年だった。

 煤だらけの服、胸に下げた小さなペンダント。

 リオ。

 彼はふたりを見て、目を丸くした。

 「神父さま……?」

 「生きていたのか」

 「うん。今は、ここにいる」

 リオはペンダントを握りしめ、視線を塔へ向けた。

 「鐘の音、聞こえたよ。だけど、あれは祈りじゃない」

 「祈りの形をした命令だ」

 ヴィルヘルムがうなずく。

 リオはリスの顔を見て、小さく眉を寄せた。

 「お姉ちゃん、顔が白い」

 「大丈夫。……大丈夫って、言ってるだけ」

 「言葉でも、少しは動くよ」

 リオは照れ臭そうに笑って、ペンダントを外した。

 「これ、持ってて。僕はもう、これがなくても歩ける」

 リスは戸惑い、受け取った。

 金属は冷たく、鎖は軽かった。

 胸に当てると、どこかの鐘が遠くで短く鳴った気がした。

 「ありがとう」

 彼女は自分の声で言えた。

 「行こう」

 ヴィルヘルムが二人の肩を押す。

 川沿いの闇は、王都の灯りから少し外れている。

 遠くで、光明院の塔が白く立っている。

 その中で、祈りはまた始まるだろう。

 祈るほど、楽になる。

 楽になるほど、何かが削れる。

 それでも、今夜は外へ出た言葉がある。

 疑いの種のような、薄い紙切れが風に乗っている。

 リスは歩きながら、胸の鎖を指で挟んだ。

 逆洗脳の囁きは、まだ耳の奥に残っている。

 戻って。眠って。忘れて。

 彼女はそのたびに小さく首を振る。

 戻らない。

 眠らない。

 忘れない。

 今は、それだけでいい。

 誰のために生きるのかは、まだ決められない。

 でも、誰のためにも死なないことなら、今ここで決められる。

 夜風が少しあたたかくなった。

 遠くの水平線が、わずかに薄くなる。

 王都の朝は、また鐘で始まる。

 その前に、三人は橋を渡り、壁の影へ消えた。

 水面が揺れ、塔が揺れ、祈りが揺れる。

 揺れても、足は地面に残る。

 その感覚だけを頼りに、彼らは歩いた。

 背後で、誰にも聞こえない小さな音がした。

 見えない鐘の音だった。

 祝福ではない。命令でもない。

 ―生きて。

 ただ、それだけを告げる、かすかな音。

 それを、三人とも確かに聞いた気がした。

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