第6話 鏡の中の敵
朝の霧は、音を鈍くする。
砲声が遠い山肌へ吸い込まれ、地面の震えだけが靴の裏に残った。
カイは呼吸を整え、膝の泥を払うふりをして、震える指をポケットに隠した。祈らないと決めてから、指はよく震えるようになった。決まりで縛っていたものが外れると、体は不器用になるらしい。
丘の向こうに、敵影。
狙撃手の光がひとつ、ふたつ。
合図が出る前に、誰かが走った。若い兵だ。背の短いマントが泥を撥ね、次の瞬間、白い閃光がその背を切った。
カイの喉の奥で何かが擦れる。走りたいのに、脚は凍った石になったように重い。
「前へ」
隊長の声。
その一言だけで前へ出る足。祈りほど強い命令は、もう自分には効かない。けれど、声にはまだ従ってしまう。従って、生き延びる。それしか知らない。
視界の端を、黒い影が走る。
カイは反射で身を伏せ、影の影を追った。
崩れた塀の切れ目に、同じくらいの背丈、同じくらいの手の大きさ。
銃口がぶつかり合い、金属の音が短く跳ねた。
――目が、合った。
自分がいた。
こちらを見ている。こちらと同じ目で。
黒髪が泥で重く、額の傷がうすく光っている。頬の骨の出方、口の結び方、焦りを隠す時のわずかな顎の角度。鏡の中にしかないはずのものが、泥の向こうに立っていた。
相手の銃口がわずかに下がる。
カイも、下げた。
時間が、こぼれた水のように地面へ吸い込まれていく。
「……名前は」
先に、相手が口を開いた。声も年齢も、ほとんど変わらない。
「カイ」
「やっぱり」
小さく、彼は笑った。笑い方まで似ている。
「俺は“カイじゃない”。けど、そう呼ばれたことがある」
奇妙な言い回しに、カイは眉を寄せる。
相手は周囲を一瞥し、崩れかけの教会へ顎をしゃくった。
「こっちは誰も詰めてない。話すなら、あそこで」
危険だ。罠だ。
頭の中の教本が叫ぶ。
けれど、鏡の中の自分と撃ち合うよりは、ずっとまともに思えた。
カイは頷いた。二人は銃を下ろし、塀を滑り越えて、廃墟の影に消えた。
教会は焼けて、屋根の半分が空に開いていた。
祭壇の上の聖像は顔を落とし、白い腕だけが宙を指している。
床には色ガラスの破片。光が差すたび、赤と青が冷たく瞬いた。
「ここは、祈りが残ってない」
相手が、石に腰をおろしながら言った。
「だから、好きだ」
カイは返事をしなかった。
銃を足の間に立てて、距離を測る。相手は同じように銃を立て、同じ距離をとった。
たぶん、どちらも、撃つ気はない。
「俺の番号は、R‐七三。呼び名はネモ」
ネモ――誰でもない。
「君は“カイ”で、自分の『名前』がある」
「ある。けど、それは神がくれた名前じゃない」
口に出すと、胸のどこかが少し軽くなる。
ネモは肩をすくめた。
「名前に神様が必要かは、わからない。ただ、こういうのは必要なんだろうな」
彼はポケットから、小さな金属片を取り出した。薄い板。角に数字。
「出荷番号。生まれた場所、育てられた棚、配属。君の国にも、あるだろう」
カイの指が、ポケットの内側の刻印を探り当てる。薄い縁。昔からある癖のように触ってきたもの。
「……ある」
「同じ工房だよ」
ネモは目を細めた。
「俺たち、同じ母体の研究から作られた。分離した二つの計画の、左右。教皇国家と自由連合が、それぞれに手を加えて、同じ設計図を育ててる。敵として、味方として。同時に」
言葉が喉に引っかかる。信じたくない、というより、信じられてしまう。
たしかに、鏡だ。
声の高さ、指の長さ、癖。
神の祝福と呼ばれた“加護”が、ただの“設計”で説明できてしまうことに、吐き気がした。
「俺たちは、何のために作られたんだろうな」
ネモが天井の穴を見上げる。曇り空の灰色が、瓦礫の鋸歯から覗く。
カイは答えなかった。代わりに、床に落ちた青いガラス片を拾った。
そこに昔、聖女の衣の青があり、いつかそれを見上げた誰かの首が上がったまま止まった気がする。
「神のためじゃない」
自分の声が、自分に刺さる。
「国のためでもない。俺たちは、“戦うため”に作られたんだ。戦いの中で生まれて、戦いの中で死ぬ。話を美しくするために、神や正義って言葉があとから塗られる」
「同意」
ネモは短く笑い、少しだけ目を伏せた。
「でも、俺は、君の言葉のほうが好きだ。“祈らない”って顔してる」
「……祈るのをやめた」
「やめられるのか」
「やめた。代わりに、目を開けた」
ネモはうなずく。似た仕草。
「俺も、開けたい」
外で、何かが爆ぜる。
風が入り、灰が舞う。
カイは無意識に胸の前へ手を持っていき、慌てて下ろした。
祈りの形に、まだ体が動く。
「君の国では、聖歌を教わる?」
「毎朝」
「うちも」
ネモは、低く短く、三つの音を口ずさんだ。
カイの耳にも馴染みのある旋律。単純で、忘れにくい。
「俺はこれを、違う歌だと思って覚えてきた。なのに、同じだって知ったとき、すごく腹が立った」
「俺は、冷たくなった」
ネモの視線が、祭壇の断片へ落ちる。
「君、誰かを失った?」
カイは答えない。
代わりに、外から聞こえる銃声の間隔を数えた。近い。遠い。
戦線は揺れている。
長居できないことは、二人ともわかっていた。
ネモは背嚢から乾いたパンを一つ取り出し、半分に割って差し出した。
「毒はないよ。こんなときに毒を盛るほど器用じゃない」
カイは受け取り、小さくかじる。口の中で粉が詰まり、唾を集めるために舌が忙しく動く。
「君、何歳」
「十五」
「同じ」
パンの半分が、祭壇の段に置かれた。
ちいさな献げ物みたいに見えて、胸が痛む。
この場所の石は、どれだけの祈りと血を吸ってきたのだろう。
「君は、誰かを守りたい?」
ネモは唐突に訊いた。
「わからない。でも、守りたい人の名前を覚えることならできる」
リオ。リリア。ヴィルヘルム。
口に出すことは、まだできない。
名前は、胸の中でだけ鳴らした。
ネモは頷く。
「俺も、そうする。名前を集める。設計じゃない、設計に乗らない、名前を」
彼の目が、ほんのわずかに明るくなった。
「それ、いいな」
「いいだろ」
外の足音が、教会の脇を駆け抜ける。
敵も味方も、ここをまだ使い方としては思い出していないらしい。
灰の向こうで、鐘が鳴った。
祈りの鐘でも、警鐘でもない。どこかの家の、小さな時計の鐘だ。
カイはその音を数え、立ち上がった。
「夜までここにいる?」
「夜までは無理だ」
ネモも立つ。銃を肩に引き寄せる仕草が、自然に揃ってしまう。
「日が落ちる前に戻らないと、俺は消される。君も、同じだろう」
「たぶん」
出口まで並んで歩き、二人は扉の影で向かい合った。
「もし次に会ったら」
「撃つ?」
ネモが笑った。カイも、笑った。
「撃てないと思う」
「俺も、撃てない」
風が、二人の間を抜けていく。
「じゃあ、撃たないうちにまた会おう」
「それは難しい」
「難しいほうが、いい」
別れ際、ネモが何かをカイの手に押し込んだ。
小さな金属片。角に数字。
「いらないのか」
「第二控えのやつ。ひとつくらい減っても、棚は崩れない」
ネモは肩を竦め、踵を返した。
「名前の代わりに持ってて。君の名前は、もう君のものだから」
カイは頷いた。
「君の名前は」
「ネモ。今は、それでいい」
二人は別の方向へ散った。
外に出れば、声と熱と命令が戻ってくる。
誰かが叫び、誰かが撃ち、誰かが倒れる。
カイは深く息を吸った。
舌の奥に、乾いたパンの粉がまだ残っている。
それを胃の中へ押し下げるようにして、足を動かした。
夜の前線は、昼よりも残酷だ。
光と影がはっきりして、誰かの顔がよく見える。
火薬の匂いは濃く、傷口の血は黒く、祈りはより上手に唱えられる。
カイはあえて耳を塞がなかった。
聞きたくない声ほど、後になって役に立つ。
聞いて、覚えて、名前に変える。
夜半、空に筋が走った。
天使兵器の残骸か、新しい火か。
地面が震え、頭上の木片が雪のように落ちる。
カイは泥に伏せ、ひとつだけ空を仰いだ。
そこに、昼間の教会の穴が重なった。
灰色の天井。
あの場所に、今もネモが隠れていないことを願った。
彼は言った。戻らなければ消される、と。
なら、戻ったのだろう。
戻ってほしい、と思った。
明け方。
砲声が遠くなり、鳥の声が戻る。鳥はまだここで鳴ける。
カイは集合の合図を背に、誰にも言わず、教会へ向かった。
瓦礫を踏み、扉の影をくぐる。
青と赤のガラス片は、夜の間にさらに粉になっていた。
祭壇の段に、乾いたパンの半分が残っていた。
その隣に、小さな傷だらけの板。
ネモのものよりさらに古い、別の番号札。
表には数字。裏に、針の先で掻いたような文字があった。
「もし、君が先に来たら、これを持っていってくれ」
拙い字。
でも、その短い一行に、まるで呼吸の重さが全部埋められているように見えた。
カイは札を拾い、掌で包んだ。
冷たい金属が皮膚の温度をじわじわ奪う。
胸の内側が、静かに痛む。
翌朝――いや、朝はもう来ている。
この場所に、ネモはいなかった。
どちらか一方が消える予感は、こういう形で当たるのだろう。
空の色が薄く変わる。
カイは札をポケットへ入れ、パンの欠片を口に運んだ。
歯の裏に当たる粉のざらつきが、昨日の会話をほどくように舌に広がる。
「俺たちは、何のために作られたんだろうな」
ネモの声が、瓦礫に残る。
「それでも、名前は集められる」
自分が答える。
誰に聞こえるでもないやり取りを、胸の奥で反芻した。
教会を出る直前、カイは振り返った。
頭のない聖像の白い腕が、空を指している。
その先には、神ではなく、ただの空があった。
空の下を、鳥が横切った。
翼の音が小さく鳴り、瓦礫の影がわずかに震えた。
その震えの中に、確かに生き物の温度があった。
陣地へ戻る道で、伝令が走ってきた。
「カイ、集合。北の丘が崩れた。再配置だ」
「すぐ行く」
隊列に加わると、リリアがカイの横に並んだ。
彼女は小声で訊く。
「顔色、悪いよ」
「眠れてないだけ」
「嘘」
リリアは、それ以上何も言わなかった。
手袋の上から、拳を一度だけ軽く叩いた。
その仕草は、屋根裏で雪を見た夜と同じだった。
歩きながら、カイはポケットの中の二枚の札を指でなぞった。
数字は、名前じゃない。
けれど、今は、ここに確かに誰かがいたことの形だ。
設計の棚から外れて、足で歩き、手でパンを割り、同じ歌を違う歌として覚えてきた誰かの形だ。
設計では、こういう形は予定されていない。
だからこそ、持っていく。
胸のそばに。
祈りをやめた場所にできた空洞を、埋めるために。
朝の霧は、だんだん薄くなる。
砲声はまた近づき、命令が重なり、誰かが倒れ、誰かが歩く。
祝福の言葉は、相変わらず空を漂っている。
けれど、カイは耳の奥で別の鐘を鳴らした。
それは、誰にも聞こえない。
ただ、自分の中でだけ響く、小さな鐘だ。
名前を呼ぶための鐘。
ネモ、と一度だけ鳴らした。
そして、カイは前へ進んだ。
鏡の中から抜け出すように。
まだ終わらない戦いの中で、終わらせるための歩幅を確かめるように。




