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神々の血を啜る子供たち  作者: 妙原奇天


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第16話 そして、祈りは風になる

 風は、いつの間にか季節の匂いを取り戻していた。

 赤い膜が空を覆っていた頃の風は、焼けた鉄と血と乾いた薬品の匂いを運んで、どこへ行っても同じ匂いがした。いまの風は、谷では水の匂い、丘では草の匂い、廃市の縁では古い紙と埃の匂いを連れて来る。匂いが違うというだけで、生き延びた者たちは、空気に名前をつけられるようになった。

 柵はもう、子供の背丈より高い。

 鉄筋を継ぎ足して、縄で編み、布を何度も洗って結び直した。柵の内側には、あの四つの穴のまわりに、台所の棚や小さな教室や、風を避けるための壁が増え、集落はいつの間にか“町”と呼ばれるようになった。

 町の入口に、紙ではなく薄い金属板の看板が立っている。

 ようこそ ここは戦わない国です。

 看板の下には、薄く彫られた三行。

 後ろへ下がれ。隣の手を握れ。名前を呼べ。

 風で文字が消えないように、毎年、端を磨き直す役の人がいる。磨くたびに金属は少しだけ痩せ、その痩せ方で年を数える。

 数年が経った。

 あの夜、火の穴のそばで小さな輪になって名前を読み上げていた子供たちは、背を伸ばし、声変わりし、手のひらに豆ができ、前より遠くにものを運べるようになった。新しく生まれた子供たちは、戦場を知らない。祈祷所の白い天井を知らない。英雄の棚のガラスの光り方を知らない。

 その代わりに彼らは、歌を知っている。

 祈りと呼ばれていた旋律を、歌詞として覚えている。

 昼の仕事がひと段落し、風が冷たくなる前の短い時間。町の真ん中の広場で、子供たちの声が揃う。

 きみはひとりで軽くならないで

 後ろへ下がって 空席をつくって

 その席に だれかの名前が 降りてくる

 単純な言葉、短い節。旋律は、昔、スピーカーの薄い膜が流していた祈りの調子に似ているが、音符の向きが違う。軽くなるためではなく、重くなることを受け止めるために音が並んでいる。

 合唱団の少女は、いつの間にか合唱団の先生になった。鈴はまだ持たない。手だけで短い合図を送る。子供たちは合図に合わせて息を吸い、吐き、声を重ね、それぞれに違う生活の埃を抱えたまま、歌う。

 カイは、広場の端の古いベンチでそれを眺めていた。

 ベンチは片脚が折れて、石を挟んで水平にしてある。ラジオの箱は、いまは集会所の棚に固定されているが、カイは相変わらず、その横のダイヤルを触りたくなる。指先は記憶で動く。回せば、砂の音。たまに、遠くの誰かの声。たまには、ただの空っぽ。

 「どう?」

 リオが水を渡す。

 「今日の曲、少し速くなったね」

 「風の速さに合わせたんだって」

 リオは笑い、ベンチの端に座った。彼の髪には、いつの間にか白いものが一本混じっていた。年齢ではない。砂嵐のせいでもない。たぶん、誰かの名前を長く呼びつづけたから、名前の粉が残ったのだと、カイは勝手に思っている。

 「覚えてる?」

 リオが問う。

 「何を」

 「ヴィルの声。祈らないための声」

 カイは水を飲み、遠くの丘を見た。丘の向こうには、崩れた教会がある。鐘は、風の具合でときどき鳴る。最近は、鳴る日が減った。鳴らない日にも、みんなの胸の中であの鐘は、鈴の合図のように小さく鳴る。

 「忘れないよ」

 カイは言った。

 「たぶん、あの神父も、俺たちにこうしてほしかったんだ。祈りを、人の言葉で歌うこと。命令から遠ざけること」

 「うん」

 リオはうなずき、ベンチの木目を指でなぞった。

 「祈りが風になる、ってこういうことかな」

 「風は誰にも指示しない」

 「でも、運んでいく」

 町では、祈祷所に似た建物は作らないと決めた。代わりに、風を集める塔を立てた。塔の上には、壊れた鐘の欠片や、弔鐘機の耳だったコイルや、ラジオの古い針金が吊るしてある。風が吹くたび、それらが少しずつ触れ合い、かすかな音がする。音は祈りではなく、知らせだ。今日の風は北から。明日は雨が来そう。誰かが帰ってくる気配。

 塔の下は小さな市場になった。パン、乾いた果物、油、釘、網、布。買えない人がいる日には、並び順を変える。先に後ろへ下がる。そうすると、なぜか自然に、必要なものが回っていく。仕組みは単純だが、単純なものほど、手放さない努力がいる。

 ある午後、風の向きが急に変わった。

 彼方の荒野から、細かい砂が舞い上がり、空が一枚、灰色の紙で覆われたみたいに暗くなる。塔の針金が一斉に鳴き、広場の隅にいた誰かが鈴のない鈴を鳴らした。

 砂嵐だ。

 合唱をしていた子供たちが歌を切り、先生が手で合図を送る。

 短い合図。一歩後ろへ。もう一歩。手を握る。頭を覆う。

 あの頃と違うのは、誰も命令しないのに、列が揃うことだ。

 体の記憶が先に動く。

 小さな子の手が離れそうになったのを、別の手が拾い上げる。

 カイとリオも走る。

 風は唸り、砂は痛い。

 塔の欠片がかち合い、薄い鐘が一度だけ鳴った。

 「うしろ!」

 合図と同時に、荷車が風に押されて転がる。カイは肩で受け止め、リオが車輪に足をかけ、子供たちがいっせいに押し戻す。

 砂の壁が広場を横切り、背の高い柵に当たって崩れる。風の縁では紙片が舞う。昔の祈祷文の残りが、今は買い物袋の底に敷かれていて、それが空に上がる。

 やり過ごすあいだ、誰かが歌いだした。

 きみはひとりで軽くならないで

 声が砂に飲まれて、すぐに戻ってくる。

 戻ってきた声が、耳のそばで揺れ、心臓の裏側を叩く。

 砂嵐は長くは続かなかった。灰色の紙が破れて光が差し、塔の針金が順番に黙り、最後に鈴のない鈴が小さく鳴って、終わった。

 砂が落ち着いた広場に、見覚えのある顔が立っていた。

 白い制服の色が抜けて、土の色になった服。背中に古い袋。額の汗。

 かつて、中枢の扉で銃を構えた若者だった。

 彼は武器を持っていなかった。

 持っていたのは、小さな子の手だ。

 「ようこそ」

 リオが言い、彼はゆっくり頭を下げた。

 「……通っていいか」

 「もちろん」

 彼は柵の内側に入る前に、立ち止まった。

 昔、彼は膝をつき、祈る形で座り込んだ。

 いま、彼は膝をつかず、立ったまま深く息を吸ってから、子の手を掲げた。

 「この子に、名前をくれ」

 リオは目を瞬いた。

 「名は、ここに来る前から、もうあります」

 「言えない」

 彼は喉に手を当てた。

 「番号ばかりで、名前が、上手く出ない」

 合唱団の先生がそばに寄り、手を差し出す。

 「じゃあ、いっしょに呼ぼう。最初の音だけ、いっしょに」

 彼は頷き、口を開いた。

 最初の音が出る。

 子の口から、次の音が出る。

 合唱のように、名前が生まれる。

 風が、その名前を一度だけ揺らし、広場の外へ運ぶ。

 「ようこそ」

 カイは言い、男は笑った。

 笑い方が、やっと人のものになっていた。

 夜、町のはずれで、古いラジオに火が入った。

 発電の車輪を踏む足は若い。子供の頃に歌っていた声の主たちが、いまは足で発電し、別の子供たちがダイヤルを回す。

 砂の音。

 遠くの雷。

 途切れ途切れの誰かの挨拶。

 そして、短い、はっきりした文。

 “こちら、丘の南。紙、届いた。合図、覚えた。ありがとう”

 笑い声が広場の端で跳ねる。

 返事が来た。

 返ってくるのに時間がかかることには、もう慣れている。慣れても、嬉しい。

 カイはマイクの前に座り、短く答えた。

 「こちら、子供たちの国。風に歌を乗せて送ります。返事は、いつでもいいです」

 マイクを置くと、合唱団の子たちが輪になり、歌い出した。

 その歌詞には、祈祷所で言われていた言葉も混ざっている。

 だが、意味は違う。

 言葉は生きている人の速度に合わせて、少しずつ、別の形に馴染んでいく。

 翌朝、リスが残していった部品を飾った塔の上で、薄い鐘が揺れた。

 空の向こうに、廃墟の教会の尖塔が見える。地面に倒れたはずの尖塔が、熱で浮いた空気の層に反射して、空に浮かんでいるように見えるのだ。

 蜃気楼。

 それでも、人は空を見上げる。

 「浮いてる」

 子供が言い、カイが笑う。

 「浮いて見える。見え方だって、大事だ」

 「鐘、鳴るかな」

 誰かが呟いたとき、本当に、一度だけ鳴った。

 遠くで、かすかに。

 音は小さくて、でも、届いた。

 広場の真ん中で、誰もひざまずかなかった。

 誰も手を組まなかった。

 代わりに、隣の手を握った。

 握る前に、一歩だけ後ろへ下がった。

 名前を呼んだ。

 ミリア。ヨナ。ネモ。知らない子。知らない母。犬。リス。ヴィルヘルム。

 新しい名も呼んだ。

 市場で生まれた子の名。風の塔を直した若者の名。番号から戻ってきた名。今日、ここで生まれた名。

 呼ばれた名は、空に浮かんだ教会の影を通り抜けて、風にまざり、どこかの町へ運ばれていく。

 午後、丘の上に出ると、草が光を反射してきらきらしていた。

カイは石の上に座り、靴を脱いで、足の裏を草に預けた。

 リオは隣に腰を下ろし、古い名前帳を広げた。ヴィルヘルムが落とした本に、ずっと書き足し続けてきた名前たち。

 「ほら、ここ」

 リオが指すところには、薄く滲んだ古い文字の隣に、最近の子供の拙い字で、同じ名がもう一度書かれている。

 「親と同じ名前をつけたいって言うから、字も同じにしてみたんだって」

 「同じでも、違う」

 「違うね」

 風がページをめくる。

 紙は少し黄ばんできたが、まだ、いける。

 「この本、いつまで続ける?」

 「続けられるかぎり」

 「続けられなくなったら?」

 「塔の中に置く。風に読ませる」

 リオは笑い、目を細めて空を見た。

 「ねえ、たぶん、あの神父も、俺たちにこうしてほしかったんだ」

 同じ言葉。

 カイは頷き、石の上でバランスを取る。

 「祈りは、風になっていく。

 風は、場所を選ばない。

 だから、どこにいても、同じ合図で動ける」

 夕方、町の入口の看板の前に、見知らぬ二人が立っていた。

 若い女と、背の高い少年。

 女は看板を読み、少年は看板の裏を触った。

 裏には、小さく、道順が刻まれている。

 困ったら、広場へ。

 広場が閉まっていたら、塔の下へ。

 塔の下が混んでいたら、水の穴の縁へ。

 順番。

 「ようこそ」

 リオが言う。

 「ここは戦わない国です」

 女は少し泣きそうな顔で笑い、少年は真剣な顔で看板の裏をもう一度撫でた。

 「歌、ある?」

 少年が訊き、合唱団の先生がうなずく。

 「あるよ。いっしょに歌える?」

 彼は肩をすくめ、照れくさそうに目を逸らした。

 「最初の音だけなら」

 「最初の音がいちばん大事」

 輪がひとつ、増えた。

 夜になって、火の穴のそばで、また呼びかけた。

 こちら、子供たちの国。誰か、聞こえますか。

 返事は、ない。

 でも、今日の風は南からで、塔の欠片がいつもよりよく鳴った。

 その音に合わせて、誰かが小さく笑った。

 笑い声は、祈りよりも長く残る。

 祈りは、命令に使われるとき、すぐに消える。

 風になった祈りは、命令に使えない。

 ただ、頬を撫で、目に入って、涙と混ざっていく。

 火が小さくなったころ、遠くで、また鐘がひとつだけ鳴った。

 空に浮かぶ廃墟の教会から、風が拾ってきた音。

 それは、誰のための祈りでもない。

 ただ、生き延びた者たちの記憶だった。

 音は短く、薄かったが、輪の中の誰もが、自分の体のどこかでその鐘を聴いた。耳で聴けない者は、皮膚で。皮膚で聴けない者は、隣の手の温度で。

 合図を出すまでもなく、輪のいくつかが、同時に一歩、後ろへ下がった。空席ができる。そこに、今夜だけの名が降りてくる。

 見えない椅子に誰かが座り、何も言わずに火を見つめ、やがて風に混ざって立ち上がる。

 「また、明日」

 カイが言う。

 「うん、また明日」

 リオが返す。

 明日は、ラジオの箱の針金を張り替える日だ。

 明後日は、塔の結び目を点検する日だ。

 来週は、名前帳のページを増やす日だ。

 遠い誰かからの返事は、ないかもしれない。

 あるかもしれない。

 どちらでも、声は出す。

 その声に合わせて、風が、町をひとつ撫でていく。

 歌が終わり、夜が深くなる。

 子供たちは順番に寝床に入る前に、短い言葉を一つずつ空に投げた。

 ありがとう。

 ただいま。

 ここにいる。

 祈りではない。

 でも、風がそれを拾えば、きっと誰かの胸のどこかが温かくなる。

 温かさの理由を言葉にできなくても、温度だけは確かに残る。

 それで、十分だった。

 翌朝、風見の針がゆっくり回り、東を指した。

 日が昇る。

 鐘は鳴らない。

 代わりに、揃った足音が、町のあちこちで小さく鳴りだす。

 人の速度で。

 祈りの代わりに、合図で。

 命令の代わりに、歩幅で。

 そして、歌がまた始まる。

 きみはひとりで軽くならないで。

 風は、今日もそれを遠くに運ぶ。

 祈りはもう、風になっている。

 誰のためでもなく、ここにいる全員のために。

 そして、まだ名前を持たない誰かのために。

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