第15話 子供たちの国
戦争のあとの空には、色が増えた。
赤だけだった日々の反動みたいに、灰、白、薄い青、夕方の橙が、忙しなく入れ替わる。けれど、地面は相変わらず一色だった。瓦礫の粉で白く、風が吹けば、昨日の境がすぐに消える。
その白の上に、細い柵が立った。
拾ってきた鉄筋を三本、斜めに結んで立て、布切れで結び目を覆っただけの柵。柵の内側には、浅い穴を四つ掘った。水を溜める穴、火を使う穴、ゴミを埋める穴、そして、静かに話すためだけの穴。
最初の夜、子供は六人だった。二夜目には八人、三夜目には十人、四夜目には十一人になった。来る子もいれば、来ない子もいる。迷った末に、門の手前で引き返す子もいた。
カイは柵の前に、紙切れを吊るした。
“ようこそ ここは戦わない国です”
字は不格好で、風に揺れた。
リオはその下に、さらに二枚を重ねる。
“後ろへ下がれ”
“隣の手を握れ”
ヴィルヘルムが残した三行のうち、二行。残る一行“名前を呼べ”は、紙に書かなくても、きっと口に出したほうが伝わると思ったから、口に出す係をリオが引き受けた。
「ようこそ」
最初に来たのは、合唱団にいた少女だった。鈴は持っていない。
「ここ、ほんとうに戦わない?」
「うん。けんかはするかもしれない。でも、殴らない国」
カイはそう答え、手のひらを上に向けた。
少女は少し考え、手を重ねた。骨が細い。けれど、温度はある。
その夜、彼女は背の低い子に毛布を分け、眠る前に皆の名前を一度ずつ呼んだ。
朝、風の向きが変わる。
白い粉が東から西へ流れ、穴の縁に細い筋が残る。
リオはその筋を指でなぞり、指先の粉をはたいた。
「今日の仕事、決めよう」
子供たちが集まる。年齢はばらばらで、背丈も声も違う。
「まず、水の穴。二人で運ぶ。火の穴は、昨日の灰をよけて、乾いた木をもっと集める。ゴミの穴に食べ残しを埋めるときは、紙に名前を書いてから埋める」
「なんで名前?」
背の高い少年が首をかしげる。
「“ここに誰がいたか”を、残すためだよ。食べ物の名前じゃなくて、人の名前」
少年は少し照れたように笑い、紙切れを受け取った。
字の読めない子には、絵を描いてもらう。人の顔と、髪のはね方。名前の代わりに、顔の形が穴の中で残る。
昼、リスが置いていった箱を開けた。
中には、外された金具、短い導線、丸いコイル、汚れた端子、割れかけの真空管。
ラジオ、にできるはずのものたち。
「通信士だったわけじゃないけど、図面なら読める」
カイは言って、リスの字で書かれたメモを広げた。
“弔鐘機の耳 祈祷波しか聴かない でも回路をひっくり返せば人の声を拾う”
「耳を、人のほうに向けるんだね」
リオが工具を手渡す。
「うん。祈りに楽にされる前に、声で重たくなりたい」
「重たく?」
「軽くされると、忘れるから。重たいほうが、覚えていられる」
ボルトを外す音、金属が擦れる音、コイルを巻き直す音。
子供たちは覗き込み、時々、息を呑む。
「これ、歌は聴ける?」
合唱団の少女が訊く。
「聴けるようにしたい」
「だったら、直す」
彼女は工具を持ったことのない手で、丁寧に汚れを拭いた。
指先に黒い油がつく。鼻で匂いを嗅いで、笑う。
「人の匂いがする」
「機械の匂いじゃなくて?」
「機械を触った人の匂い。安心する」
夕方、ラジオは箱の形になった。
電源はない。
それでも、アンテナを立て、回路に残った蓄電器をつないでみると、針金が一瞬だけ微かに震えた。
砂の多い音が、空気の底でざわめく。
「……聞こえる?」
少年が息を止める。
「まだ。けど、耳はできた」
カイは頷き、箱の横に小さな札を立てた。
“ラジオ 修理中”
誰かが見て、触らないように。触っても、怒られないように。
夜、火の穴のそばで、子供たちは輪になった。
それぞれ、一日で拾ってきた物を見せ合う時間。
釘、破れた靴、欠けた皿、紙切れ、鈴のない鈴。
「それ、何の紙?」
リオが小さな男の子の手から紙を受け取る。
“英雄の棚 新入荷”
綺麗な字、立派な装飾。
「火に入れる?」
男の子が訊く。
「入れない。裏に名前を書こう」
“トオル”
小さな字。
「棚より、君の名を残そう」
眠る前、ルールを読んだ。
リオが紙を持ち、声に出して、ゆっくりと。
「一、後ろへ下がれ。二、隣の手を握れ。三、名前を呼べ。四、殴らない。五、嘘で誰かを守る時は、あとで必ず本当を話す」
「五はむずかしい」
合唱団の少女が小さく笑う。
「むずかしいから、国のルール」
カイが言って、毛布を被った。
風が弱くなり、夜の音が深くなる。
それぞれに違う寝息。スノコの軋み。遠くの犬。
空に星が出て、手の届かないところで瞬いた。
翌日から、カイとリオはかわるがわる、広場に出た。
“後ろへ下がれ”の紙片を配り、鈴の鳴らし方を教え、英雄の棚の前で立ち止まった。
立ち止まるだけなのに、怒る人がいた。
「邪魔だ」
「売れなくなるだろう」
「英雄は必要だ」
リオは怒らない。
怒る代わりに、下がる。
「僕たちは後ろに下がります。だから、あなたも一歩だけ、下がってください」
半分は笑って、半分は舌打ちをして、半分は見て見ぬふりをした。
それでも、紙片は減った。鈴の鳴らし方を覚えた子が、帰り道で友だちに教えるのが見えた。
子供たちの国は、ゆっくり広がった。
柵の外に水の穴をもう一つ、火の穴をもう一つ増やし、ラジオの箱には電源として古い自転車の車輪をつないだ。
「足で回す発電」
カイが言い、合唱団の少女が笑う。
「歌いながら回す」
彼女の歌は大きくない。
でも、近くの人に届く大きさで、息の長いメロディだった。
車輪が回り、薄い光が針金に溜まり、箱の中で音が少しだけ濃くなる。
ある夜、空気が湿った。
遠くのほうで、雨が落ちる音。
風が運ぶ匂いが土に変わる。
「屋根、増やそう」
リオが言い、布と板で簡単な屋根を足した。
雨は夜半に来て、穴の縁を濡らし、柵の結び目を重たくした。
火は小さくなったが、消えなかった。
その火のそばで、カイはラジオの前に座った。
ダイヤルを少しずつ回し、聞こえない声を探す。
砂の音が途切れ、低い唸りが入る。
誰かの息のような音がして、消えた。
「誰か、聞こえますか」
カイは言った。
ラジオを通してではない。
ラジオの手前で、空に向かって。
合唱団の少女が横で頷く。
「聞こえます。ここにいます、って返ってくるまで、ずっと言う?」
「うん。ずっと」
返事はもちろん、ない。
雨の音がそれに代わって、穴の縁で小さな円を作る。
円の中に、星の反射。
見える星は、少ない。
でも、少ないから、一つずつ数えられる。
翌朝、ラジオが初めて、はっきりと声を拾った。
“……こちら、北の港……荷揚げ……祈祷は中止……救援……のちほど”
途切れ途切れ。
それでも、言葉だ。
子供たちは顔を見合わせ、笑った。
「届いた」
「届いたね」
けれど、すぐに静かになった。
その声は、彼らへの返事ではなかったから。
誰かに向けられた誰かの声が、ここに引っかかっただけ。
それでも十分だった。
世界には、まだ声がある。
声は、届くこともある。
届かないことも、ある。
日が経つにつれて、困ることも増えた。
食料はいつも足りない。
水の穴が濁る日もある。
火の穴に入れてはいけないものを、うっかり入れてしまう子がいる。
ゴミの穴に埋めた紙が風で出てきて、名前が路地に散らばる。
「ルール、増やす?」
合唱団の少女が訊く。
「増やしすぎると、祈祷所みたいになる」
リオが苦笑し、カイが紙を一枚だけ掲げた。
“困ったら、誰かを呼べ”
「ルールというより、お願い」
「国のお願いは、いいね」
お願いは、命令に変わらない。
お願いは、聞かれないことがある。
それでも、言う。
ある日、柵の外に男たちが三人立った。
肩に銃。背中に袋。
目は疲れ、口元は固い。
「そこ、何だ」
「国です」
リオが言い、男たちの表情が少し崩れた。
「笑わせるな」
「笑っていいですよ」
男は笑わなかった。銃を下ろしもしない。
「食べ物はあるか」
「少しなら」
「交換だ。金は……」
「金は、いらない。名前と、後ろへ下がる、をください」
カイが紙片を差し出す。
男は紙を受け取り、読めず、眉をひそめ、低く呟く。
「俺の名は……」
言いかけて、止まった。
名前が喉につかえる。
長い間、番号で呼ばれてきた人の喉。
合唱団の少女が一歩、前に出た。
「ゆっくりでいいよ。言いづらかったら、手からでも」
彼女は自分の手を上に向けた。
男は迷い、銃を肩から降ろし、手を重ねた。
重い手。
でも、温度がある。
「……コウ」
「コウさん、ようこそ。ここは戦わない国です」
銃は、柵の外に立てかけた。
中に入ると、男たちは火の穴のそばで座り、パンの端を分け合った。
黙って食べ、黙って紙を折り、黙って柵の結び目を直した。
帰り際、コウは柵の外で振り返り、短く言った。
「ありがとう」
「こちらこそ」
返事は短い。
短いから、落ちない。
夜、ラジオの前で、再び呼びかけた。
「こちら、子供たちの国。誰か、聞こえますか」
合唱団の少女が続ける。
「こちら、戦わない国です。歌を贈ります」
歌は小さく、やわらかく、火の色に合っていた。
ラジオは何も返さない。
砂の音と、遠い電気の息だけが、箱の中で寝返りを打つ。
「返ってこない」
少年が肩を落とす。
リオは首を振った。
「返ってこないから、やめる、は違う」
「返ってこなくても、続ける?」
「うん。声は、呼ぶためにある。答えをもらうためだけじゃない」
「独り言と、どう違うの」
「独り言は、自分のため。
呼びかけは、いつか誰かが拾うかもしれない、っていう賭け。
それが、生きるってことだと思う」
少年はしばらく黙って、それから頷いた。
「じゃあ、賭ける」
その夜の呼びかけは、少しだけ長くなった。
それでも、返事はなかった。
ある夕暮れ、空の端に、薄い飛行船の影が見えた。
風に流されるように低く、音はほとんどしない。
子供たちは柵のそばに走り、手を振った。
飛行船は高度を変えず、影だけを地上に落として過ぎていった。
地面の白に、楕円の影。
それは、すぐに風で崩れた。
「見たね」
「見ただけ」
「見ただけが、最初の証」
リオが柵に紙を増やす。
“見た 聞いた 返した”
最初は見ただけ。
次は、聞くだけ。
最後に、返す。
順番を紙にして、柵に結ぶ。
冬が近づくと、穴の水が冷たくなった。
朝、表面に薄い膜ができる。
火の穴のそばに集まる時間が増える。
カイは手の皮が裂けかけたところに油を塗り、リオは紙片を多く作り、合唱団の少女は歌の間に暖めるための小話を挟んだ。
「寒くなると、人は近づく。近づいたら、名前が要る」
リオはそう言い、眠る前に名を読んだ。
ミリア、ヨナ、ネモ、知らない子、知らない母、犬、リス、ヴィルヘルム――
顔も、姿も、ここにいない名前。
それでも、読み上げる。
読まれることで、その名は今夜だけこの輪の中に居場所を持つ。
雪が降った夜、ラジオはまた誰かの短い言葉を拾った。
“……山の向こう……鈴……配布……紙……後ろへ……ありがとう……”
子供たちは火の上で太った雪を溶かし、耳を澄ませた。
「届いてる」
「鈴、配ってるって」
「紙も」
誰の声か、わからない。
どこの山か、わからない。
それでも、十分だった。
誰かがどこかで、同じ合図を使っている。
国の外に、同じ国の断片がある。
春が近づく頃、柵の結び目の布は色褪せ、ラジオの箱は擦り傷でいっぱいになった。
発電用の車輪は何度も直され、回す足は太くなった。
食べ物は相変わらず足りない。
それでも、国は消えなかった。
消えない理由を、カイはまだ言葉にできない。
リオは言葉にしないことに、安心を覚え始めていた。
言葉にできないものを、そのまま置いておける場所があるのは、たぶん、国の強さだ。
その夜も、呼びかけた。
「こちら、子供たちの国。誰か、聞こえますか」
返事は、ない。
火の音、遠い犬、寝息、紙の擦れる音。
それでも、声は出る。
出すと、胸が温かくなる。
体のどこかが、返事を待つための形に変わる。
その形のまま眠りに落ち、朝になると、また呼べる。
合唱団の少女が、歌の前に短く言った。
「返事が来ないことは、寂しい。
でも、返事が来るかもしれないと思ってる時間は、少しだけ、嬉しい」
「うん」
カイは頷き、ラジオの箱に手を置く。
箱は温かい。
人の手が触れる場所は、自然に温度が残る。
「だから、続ける」
リオが低く結ぶ。
「声を上げること。それが、生きるってこと」
火が小さくなり、星が増える。
誰のものでもない空に、白い粉の筋が薄くかかり、風がそれをちぎっては運ぶ。
柵の結び目はほどけず、穴は四つとも役目を覚えている。
ラジオの針金は、夜の湿気で少し重たくなり、それでも耳を空に向けている。
返答は、ない。
けれど、輪の中では、名前が呼ばれ、手が重なり、誰かが後ろへ下がり、場所が空き、そこに新しい誰かが座る。
声は、空へ。
温度は、隣へ。
子供たちの国は、その二つでできていた。
そして、今夜もまた、彼らは静かに呼び続けた。
届くまで。
届かなくても。
生きているかぎり。




