第10話 赤い空の下で
昼の空が、夕焼けの色になった。
時間のせいじゃない。
大気が燃えている。
最初に気づいたのは、整備場の猫だった。鉄骨の梁の上で毛を逆立て、尻尾を膨らませ、誰にも聞こえない音に向かって低く唸った。次に、計器が悲鳴を上げる。温度針がありえない角度に跳ね、空気密度計の数字が小刻みに崩れ、警報灯が赤に固定される。
「来る」
リスはレンチを投げ捨てた。
耳の奥が震え、歯の根が白い砂を噛んだみたいにきしむ。
〈弔鐘機〉の胴体に縫い付けられた熱センサーが、蜂の巣のように一斉に点滅した。
遠いはずの地平が、ゆっくり明るくなる。陽炎のように揺れているのは、熱気ではなく、空そのものだ。
ノルド連合の最終兵器――〈赤空砲〉。
大気の成分を触媒に、上層で反応を走らせる。空を、燃料にする。
理解するより早く、風が変わった。
肺に入った空気が、昨日までの空気ではない。
金属の匂いがする。
乾いた炎の匂いがする。
「退避――」
叫ぶ前に、整備棟の天井が鳴った。
ガラスが熱で弛み、梁が軋み、ボルトが一斉に白くなる。
床が揺れた。揺れて、沈む。
リスは機械の腹の下から転がり出ると、壁に貼られた避難図を視線で掠め、扉へ走った。
外に出ると、世界は赤かった。
遠くの防壁が、ゆっくりと柔らかくなっている。石が溶けるときにこんな匂いがするとは知らなかった。
空は、薄い布の裏から誰かが灯りを当てているみたいに明るい。
屋根の上の鳩が一羽、飛び上がろうとして、空の熱に翼を引っ込めた。鳴き声は出ない。出したら焼ける、と本能が言っている。
「赤空砲、起爆の第二波まで、あと三分」
構内スピーカーが低く告げる。
数える余裕はない。
リスは走った。
整備場の奥、小さな門の先に病棟がある。前線で拾われた子供たちの臨時棟。射線から外したつもりのはずが、空からの火には意味がない。
足の裏で、砂が鳴る。砂ではない、薄く剝がれた屋根材の粉だ。熱で空に浮く前に、地面で擦れて鳴る。
病棟の扉は、熱で歪んでいた。
肩をぶつける。軋む。開かない。
もう一度。
もう一度。
三度目で、扉は諦めた。
中は、赤い影で満ちていた。
ベッドが十台。窓際の二台は既に空で、床に転がった点滴袋がぐにゃりと変形している。
子供たちは、声を出さない。
声を出すと、呼吸が乱れる。乱れると、熱が入る。
彼らは学んでいる。
リスは一人ひとりの肩を叩いた。
「靴。水。布。ゆっくり、低く」
低く――床から一番遠い空気は、今いちばん熱い。だから、低く。
彼女の耳に、別の音が混じった。
機械の声。
整備棟の奥に並ぶ〈弔鐘機〉の群体が、遠い獣のように低く唸る。
熱で暴れる演算機。異常温度で自動起動する冷却ルーチン。
そして――
“リス”
呼ばれた。
胸骨の裏側を、古い指が優しく叩くみたいに。
彼女は振り返らない。
「……あとで、ね」
自分に言い聞かせるように囁き、子供の靴紐を結ぶ。
廊下の奥で、白衣の少年が手を振った。
リオだ。
煤で黒くなった頬に、汗が滝のように筋を描いている。
「ここ、地下に抜け道」
指差す先に、古い配管のメンテナンス用ハッチ。
「でも、鍵が」
「壊す」
リスはスパナを差し込み、金具に体重をかけた。
金属が短く悲鳴を上げ、落ちる。
薄い冷気が口を開けた穴から溢れ、焦げた空気に線を引いた。
「一列で。手は離さない」
リオが先頭にしゃがみ、子供たちを地下へ導く。
リスは最後尾に回った。
背後で、整備場の側の壁が低く唸り、音の形のまま揺れた。
赤い光が、眼の裏でパルスを打つ。
“リス”
もう一度。
今度はもっと近い。
彼女は振り向いた。
扉の向こう、昇降機のホールの壁で、鉄板がわずかに膨らんでいる。中に、機械の咳のような振動。
彼女は扉を開け、昇降機の機械室へ滑り込んだ。
薄暗い空間に、灰色の筐体がいくつも積まれている。
そのひとつ、弔鐘機の予備脳が匣のふたを跳ね上げ、網目の中で青白い火花を散らしていた。
発熱に反応したバッテリーが暴走しかけている。
そして、その音の中に混ざる、知っている呼吸。
“リス、聞こえるか”
兄の声。
この機械の心臓に組み込まれたのは、彼の脳の写しだ。本当の彼ではない。
わかっているのに、脳が勝手に涙腺を叩く。
「聞こえる。今は、子供たちを出す」
“行け。俺の声は、記録でしかない。今は、生きてる声を連れていけ”
「でも、あなたの中で、起動の連鎖が走ってる。熱で自動で、弔鐘機全群が起きる。あなたたちが暴れる前に、止めないと」
“リス”
兄の声は、笑った。
“やっと俺の仕事を奪ってくれた。止めろ。俺は、弔いのために残った。でも今のこれは、弔いじゃない。焼くための火だ”
彼女は頷いた。
「自爆装置、解除する」
培養脳を保護するための最終遮断――それが俗に呼ばれる「自爆」。
暴走の兆候を検知すると、機械は自らを燃やして止める。
だが、今の熱は、止める火をさらに燃やす。
自爆は、周囲を巻き込むだけの爆心になる。
「起き続けて。眠らないで」
“眠らない”
「あなたに、眠りを教えたかった」
“それは、生きている子に教えろ”
短い会話が、胸の軟骨に刺さって抜けない。
リスは筐体の裏側に手を伸ばした。
赤い封蝋で覆われた小さなスイッチ。
「……解除コード、忘れてないでよ」
誰にともなく呟き、二度、三度、カチ、と押す。
封蝋が落ち、警告灯が黄色に変わる。
“いい子”
兄の声が、遠のく。
「待って。まだ、終わってない」
廊下に戻ると、赤はさらに濃かった。
遠くの空が、見てはいけない花のように開き、外縁から黒い灰が生まれている。
それが風に乗り、街に降る。
声のない雪。
熱い雪。
肌に触れたら、火傷になる。
「早く!」
リオの声が地下から戻ってくる。
リスは子供たちの背を押し、最後の子をハッチへ滑り込ませた。
その瞬間、整備場側から轟音。
〈弔鐘機〉の格納庫の屋根が、熱に負けて崩れた。
大地が咳き込むように揺れ、壁の縁から古い聖画がはがれ落ちる。
リスは振り返らない。
ハッチに腰をかけ、身を滑らせる。
鉄の梯子は赤く、手袋越しに熱が歯を立てる。
地下通路は狭く、湿っていた。
天井から水が時々落ちて、肩の布を冷やす。
子供たちの肩越しに、リオの背中が見える。
彼は振り向かない。振り向いたら、その先にいる全員の顔をひとりずつ見てしまうから。
見てしまうと、止まる。
だから、前だけ。
「この先、地上。外は、赤いかも」
声が乾いている。
リスは応える。
「赤いよ。ずっと。今は、低いところの空気がまし」
「低いところまで、たどり着こう」
「川沿いなら、風が違う。熱の波が割れる」
最後の梯子を登り、薄い扉を蹴ると、古い倉庫の裏庭に出た。
空は、やはり赤い。
でも、ここは空気が動いている。
遠くで、川が喘ぐように重い音をたてている。
水も、暑い。
それでも、水は水だ。
「走る。手を、離さない」
リオが先頭で道路へ飛び出し、子供たちが列を作る。
リスは最後尾で、弔鐘機の予備脳が収まった工具袋を肩に回した。
中で、熱がまだ微かに鳴っている。
“リス”
呼ぶ声は、今は短い。
彼女は袋に掌を当てる。
「ここにいる」
答えは、ない。
代わりに、袋の中の金属が、熱で小さく鳴った。
川沿いの道に出ると、空が揺らぎ、橋の影が二重に伸びた。
橋の上で、人が倒れている。
兵か民か、もう見分ける意味はない。
リオは足を止めかけ、リスが肩で押す。
「今は、通るだけ」
「……うん」
子供の一人が、倒れている人にハンカチを置いた。
ひどく汚れたハンカチだ。でも、その白は、赤の中で目に刺さった。
河口の方角に、黒い雲が芽吹く。
雲ではない。
赤空砲の起点。
機械の雲。
起爆反応の渦が、空の高みに黒い影を作り、その影が地上を這う。
影が通ると、空気がまた変わる。
焼けた鉄の味。
遠い雷のような音。
彼女は舌の裏を噛んだ。血の味は、まだ自分のものだ。
川沿いの広場に、穴が開いていた。
爆弾ではない。
熱で地面がめくれ、湿った粘土が露出している。
そこに、子供たちを一時的に避難させる。
「水を口に含んで。飲まないで、湿らせるだけ」
リスは錆びたバケツに水を汲み、ひとりに一口ずつ渡した。
小さな喉が動く。
咳が出る子の背を、丸い手のひらでそっとさする。
「神父さまは?」
リオが息の合間に訊いた。
「ヴィルヘルムは、外にいる。教会の地下から資料を出したあと、今は別の避難所に向かった」
「カイは」
「北門。広報に囲まれてる。たぶん、すぐにここへ来たいって言う。来たら、叱る」
リスは苦笑し、すぐに顔を引き締めた。
「叱りながら、抱きしめる」
「うん。それがいい」
赤い風が二人の間を抜け、言葉の輪郭を薄くした。
そのとき、肩の袋が熱に跳ねた。
彼女は地面に膝をつき、袋を開ける。
予備脳のランプが、また赤へ寄る。
解除した自爆の代わりに、内蔵の冷却系が悲鳴を上げている。
“リス”
兄の声が、今度ははっきりした。
“もう、いい”
「まだだよ。ここに子供たちがいる。あなたは、静かに、そのまま」
“そのまま”
「弔う機械として、今は、燃えないで」
“わかった”
同意の言葉が、機械の中の金属を少しだけ冷やす。
ありえない。
でも、起きた。
彼女の手のひらの温度が、ほんのわずかに落ちた。
赤空砲の第二波が、遅れて街を撫でた。
空の赤が一段深くなり、遠くの塔が線香のように細く折れる。
熱の波が川面を押し下げ、水柱が白く弾ける。
子供たちが一斉に身を縮め、リオが両手を広げた。
彼の背は薄い。
それでも、風の直撃から小さな顔をいくつも隠した。
「歌わない」
誰かが小さく言った。
合唱団の子だ。
「今は、息を合わせるだけ」
リスは頷き、指で三つ、四つ、リズムを刻んだ。
歌ではない。呼吸の合図だ。
吸って、止めて、吐く。
それだけの連帯が、この赤の下で唯一の共同体になった。
しばらくして、空の赤が、わずかに薄くなった。
終わったわけではない。
反応の山が過ぎただけだ。
乾いた風が吹き、灰が低く流れる。
耳の奥の轟きが遠ざかり、代わりに人の声が戻ってくる。
泣き声。呼ぶ声。罵る声。祈る声。
祈りは、やはりここにもある。
けれど、それは命令の形をしていない。
生きたい、という声に似ている。
「今のうちに、移動」
リスは子供たちを立たせ、川沿いを下流へ向けて歩かせた。
橋の袂に、見慣れた影が立っている。
カイだ。
広報の白い腕章は外し、頬に煤。
目の奥に、昨日までになかった硬い光。
「来ちゃ、だめって言ったのに」
リスが眉を寄せると、カイは半分笑って、半分泣いた顔をした。
「叱られに来た。抱きしめられにも」
リスは言い返せず、胸の奥で何かがほどけた。
「後ろへ下がって」
カイは素直に一歩、後ろへ下がる。
彼の背に、リオが子供を二人くくりつけるように抱え、列の最後尾についた。
橋の向こうで、ヴィルヘルムが手を振った。
彼の外套は埃だらけで、髪に灰が積もっている。
「地下へ。ここから南の水門の下へ入れる」
「赤空砲は、まだ?」
「まだ。終わっていない」
短い言葉に、疲労が混じる。
終わらない――それは予感ではなく、事実だ。
火は引いても、空は当分、赤い。
水門の下へ降りる鉄階段は、錆びていた。
足音が響き、声が重なり、手すりに握った手の汗が鉄の匂いに変わった。
狭い通路の壁に、誰かが昔書いた祈りの文句が薄く残っている。
「主よ――」
リスは読まない。
読むのは、ここにいる誰かの名前だけ。
小声で、順番に。
「ルカ、ミナ、オルガ、サシャ……」
呼ばれた子の肩が、呼吸のたびにわずかに上下する。
生きている、という実感は、名前の呼び声から戻る。
通路が広がり、冷たい空気が頬を撫でた。
地下の溜め池だ。
赤は、ここまで届かない。
子供たちの目が、赤のない暗さに慣れるまで、少し時間が必要だった。
リスは壁にもたれ、肩の袋を膝に置く。
「ねえ」
リオが囁く。
「兄さん、何て言ってた?」
リスは袋の金具に指をかけ、軽く弾いた。
「もういい、って」
「どう思う?」
「ずるい」
彼女は笑った。
「いつもそう。大事なときに、先に諦める」
「でも、今は」
「今は、私が諦めない」
カイがそっと近づき、弔鐘機の匣に手を置いた。
「ネモも、多分、今どこかで同じことを言う。もういい、って。だから、僕も諦めない」
ヴィルヘルムが鉄柱にもたれ、目を閉じる。
「赤空砲は、戦争を“前に進める”ための火だ。勝敗の印だ。でも、火は印を読み間違えない。ただ、燃やす」
「勝っても、終わらない」
リオが言う。
彼の声は、誰かの葬式を手伝った夜の声に似ていた。
「終わらせるのは、たぶん、名前を呼ぶ手の数だよ」
「手が足りない」
カイが苦い顔をする。
ヴィルヘルムは目を開け、立ち上がった。
「だから、増やす。今日から。赤い空の下でも」
少しして、地上の音が変わった。
遠い轟きが細くなり、人の声が太くなる。
リスたちは順々に地上へ戻った。
空は、まだ赤い。
でも、赤の中に、薄い灰色の筋が増えている。
煙の色だ。
建物の線だ。
空の向こうに、雲の輪郭が一瞬だけ見えた気がした。
見間違いでも、いい。
見えるものは、次に手が届く。
街の中央通りに、黒い車が横転していた。
広報局のロゴが、煤に隠れて読めない。
荷台から、巻き取り式の白い銀幕が半分転げ落ちている。
カイは立ち止まり、幕の端に手を伸ばした。
引くと、するすると空っぽの物語が地面に伸びる。
赤い空の下で、白い布は汚れを吸い、震えながら広がった。
彼は布を一度、握りしめ、放した。
「これは、捨てる」
ヴィルヘルムが頷く。
「捨てた上で、別の幕を張れ」
「灰で?」
リオが笑った。
「灰の幕は、白いよ」
子供たちの列が、別の子供たちの列と交差する。
合唱団の少女が、鈴を握っていた。
彼女はリスを見つけ、顎を少し上げた。
歌わない。
今は、歌うべき時ではない。
代わりに、鈴を一度だけ鳴らした。
金属の音は弱く、赤い空に吸い込まれていった。
でも、音は音だ。
小さくても、響く。
夕方になっても、空は赤い。
夜になっても、赤い。
赤は、色というより、空の性格になってしまった。
街の灯りは一つずつ戻り、煮炊きの煙が細く立ち、井戸の列が長く伸びる。
誰かが祈り、誰かが罵り、誰かが笑った。
戦場は、日常に姿を変えるのが早い。
日常は、戦場の仮の顔だ。
リスは、河岸の小さな段に座った。
肩の袋は、まだ温かい。
「ねえ」
袋に触れながら、彼女は空に向かって言った。
「あなたが言った『もういい』は、私にはいつまで経っても届かないよ」
応えは、やはりない。
でも、風が少しだけ冷たくなった。
彼女は目を閉じ、長く息を吐いた。
鼻の中の焦げた匂いが、ほんの少し薄まった気がした。
カイは橋の欄干にもたれ、赤い空を見上げた。
リオは鈴を指で転がし、鳴らさないままポケットに戻した。
ヴィルヘルムは、崩れた教会の方向を振り返り、歩き出す前に一度だけ立ち止まって、誰にも聞こえない言葉を口の中で折った。
赤い空は、消えない。
消えないことに、名前をつけるのは簡単だ。
勝利と呼ぶ者もいれば、罰と呼ぶ者もいる。
リスはどちらにも頷かない。
彼女はただ、肩の袋を抱き直し、立ち上がった。
「行こう」
「どこへ」
「水が腐らない場所。影が長くなる前に、寝床を探す」
「明日は?」
「明日も、避難。明日も、修理。明日も、名前を呼ぶ」
遠くで、鐘が鳴った。
崩れた教会の、音のない鐘が、風で鳴った。
誰にも聞こえない音。
だけど、聞こえると思った人には、確かに届く。
誰かが囁いた。
勝ったのか、と。
誰かが答えた。
勝った、と。
別の誰かは、肩を竦めて言った。
勝っても、終わらない、と。
リスは歩き出し、赤い空の下で、最初の星を探した。
見つからなかった。
見つからなくても、探すことはできる。
それが今日の、彼女の勝ちだった。
そして、続ける理由だった。
――戦争は、勝っても終わらない。
それでも、生きる人の列は、赤の下で静かに延びていく。
名前を数え、手をつなぎ、時々、鈴を鳴らしながら。




