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ぽたり

作者: 黄色鳥

ぽたり、ぽたり。


古びた木の札に、冷たく濡れた水滴が音を立てて落ちていく。


風はなく、雨も降っていないのに。

静寂の中、その音だけが際立って響いていた。


ぽたり、ぽたり。


湿った空気に混じり、札が一枚、また一枚と、音を立てて剥がれ落ちる。


その時、池の中から、何かがゆっくりと動き始めた。


じわじわと、黒く濡れた何かが、這い出してくる。


影が揺れ、細い指のようなものが、苔むした石を掴んだ。


それは、誰かでも、何かでもなく、

長く澱んだ怨みの塊のように、

じわり、じわりと這い出してくる――


ぽたり、ぽたり。


止まらない水音とともに。



---


大学の構内を、夏の光が照らしていた。

ざわめく学生たちの声、スマホを見ながら歩く足音。

蝉の鳴き声すら雑音のように響いて、都会の夏は今日も蒸し暑い。


(はら) 晋助(しんすけ)は、冷房の効いた研究棟を出て、目を細めた。


「いやー暑い。マジで溶ける」

「トイレ冷房効いてるから、避難場所にちょうどいいんだよな」


友人たちのくだらない会話に混じりながら、晋助は軽く笑った。

地元を離れてもう二年。

最初は不安もあったが、今ではすっかりこの大学生活に馴染んでいた。


──そんな、なんでもない午後のことだった。


ぽたり。


耳の奥で、水の滴るような音がした。


晋助は足を止めた。

「……ん?」


誰かがジュースでもこぼしたのかと足元を見るが、何もない。

床は乾いている。天井にも染みはない。


「おい、どうした?」

「いや……なんか水の音、しなかった?」


隣にいた友人はきょとんとした顔をした。

「水? ……してないけど?」

「……そっか、気のせいかも」


気を取り直して歩き出したが、胸の奥に違和感が残る。

あれは確かに、水がぽた、ぽたと落ちる音だった。


その日からだった。

あの水音が、離れなくなったのは。



─────


次の日も、またその次の日も。

講義中、教授の声が響く教室の中、プリントを配っているとき、耳の奥にあの音がよみがえった。


ぽたり、ぽたり。


最初は空調のせいかと思った。

次はトイレの蛇口。

でも、どこへ移動しても、何をしていても、音はついてきた。


──誰にも聞こえていないのに。


中庭でも、コンビニでも、ひとりで部屋にいるときでさえ、

晋助の耳のすぐそばで、水が床に落ちるような音が鳴っていた。


怖い、というより、気持ちが悪い。

耳の奥に張りついて、忘れようとしても決して離れてくれない。


ぽたり。

ぽたり。


空気が湿るような気配と共に、その音は付きまとう。


(……なにか、おかしい)


夕方、寮の風呂場に入ったとき、決定的な“それ”が起こった。



─────


共用の風呂場は、深夜には人が少ない。

静かな湯気の中、晋助は鏡の前で頭を拭いていた。


しん……と静まり返る空間に、水音が混ざった。


ぽたり。

ぽたり。


「……は?」


振り返る。シャワーも蛇口も、しっかり締まっている。

それでも、水が濡れた床に落ちるような音が止まらない。


晋助は鏡の表面を見た。

そこには、湯気で曇ったガラスが映っている。……はずだった。


──そこに、“誰か”がいた。


鏡の奥に映る、人影。

子どものように小柄で、髪が濡れて顔に張りついている。

肌は青白く、顔は曇りに隠れて見えない。


だが、その影と目が合った。

確かに、自分を見ていた。


「……っ」


鏡の中の“少年”が、ゆっくりと手を伸ばしてくる。

その手が鏡をすり抜けて、こちらに触れようとした瞬間――


晋助は反射的に、蛇口をひねって熱湯を浴びせかけた。


ばしゃっ!


鏡が水飛沫に濡れ、少年の姿はかき消えた。

胸を押さえ、荒い息をつく。


「……な、何なんだよ……」


ふと足元を見ると、濡れた床に足跡があった。

自分のものではない。

小さな足跡が、晋助のすぐ背後で止まっていた。



─────


その夜、晋助はなかなか寝つけなかった。

薄暗い天井を見つめながら、何度も水音が聞こえたような気がした。

電気を消して、布団に潜る。

体が、じわじわと冷えていく。


それでも目を閉じると、夢のようなものが見えた。


草の匂い。あぜ道の風。

陽の光の中、誰かが晋助の手を引いている。


「……にぃちゃ……」

「ト……にぃちゃ……」


小さな声が呼ぶ。

懐かしい、でも思い出せない声。

顔は霞がかかって見えない。

けれど、その手は温かくて、優しかった。


何度もその声が、名前を呼んでいた。


──晋助。

──にぃちゃ。



目を覚ましたとき、天井がぼやけて見えた。

背中にはまだ、誰かに手を引かれた感触が残っている。


怖い。

けれど、あの夢の中は、なぜか懐かしくて、あたたかかった。


晋助は震える手で、ゆっくりと布団をかぶった。


目を閉じても眠れないまま、

胸の奥で、音がまた鳴った気がした。



ぽたり



─────



「今週末、法事だから帰ってきなさい」


母からの電話は、いつも通り唐突だった。


「……法事?」


「おばあちゃんの一周忌でしょ。あんた、もう何年顔出してないと思ってるの。

たまには仏壇に手でも合わせてらっしゃい」


有無を言わさぬ口調に、晋助は「ああ」とだけ返事をして電話を切った。


それでも、どこか胸の奥がざわついていた。


(……地元か)


あの山の向こうにある小さな町。

子どもの頃、毎日のように走り回ったはずのあの場所が、今はやけに遠く思えた。



─────


実家の玄関は、変わっていなかった。

引き戸の軋む音と、ほんのり湿った木の匂い。

出迎えた母はエプロン姿のまま、タオルで手を拭きながら言った。


「はい、おかえり。……あんた、また痩せたんじゃないの?」


「いや、そうでもないって」


「部屋、そのままにしてあるから。お風呂はあとで沸かすわね。今日は泊まっていきなさい」


廊下を歩いて、久しぶりに自分の部屋の戸を開ける。

本棚や机、カーテンの柄まで、あの頃と同じだった。


なのに、懐かしさと同時に、どこか靄がかかったような感覚があった。


(……ぼやけてる)


何かを忘れている。

いや、思い出すのを避けていた。

そんな気がした。


押し入れを開けると、埃をかぶった段ボール箱が目に入った。

「おもちゃ」と書かれたその箱を、ふと取り出す。



中には、色あせたフィギュア、欠けたブロック、そしてカードホルダーが眠っていた。



「……アクションライダーのカードか」



パラパラとめくると、光沢のある一枚が目に留まる。

『アクションライダー2号』のキラカード。



「ああ……懐かしいな。たしか、1号のキラが欲しかったんだっけ」



その瞬間、声が頭の奥で反響した。


「ト……ルにぃちゃ! 俺、1号のカードがいいっ! 1号のほうがカッコいい!」


「えー、2号もかっこいいじゃん」


「やだーっ、1号がいいの!」


「でもな、晋助。1号と2号は相棒なんだぜ。二人合わせて、すげぇつえぇんだ!

俺と晋助で1号2号! なんか、かっこよくない?」


弾けるような笑い声。手を引かれる感触。

胸の奥がきゅっと締めつけられる。


(……今の声)


呟いた言葉が虚空に消える。


そのとき、箱の底にもうひとつ、薄いアルバムが落ちていた。

古びたビニールの表紙に、かすれた名前がペンで書かれている。


「しんすけ」と、子どもの字で。


そっと開くと、ページの中に懐かしい笑顔があった。


小さな自分と、肩を組んで並ぶ少し年上の少年。

水遊びをしていたのだろう、二人ともびしょ濡れで笑っていた。



晋助はじっとその少年の笑顔を見つめた。



指が自然と伸びて、写真の中の彼にそっと触れる。

冷たいビニール越しなのに、どこかぬくもりを感じた。


「にぃ………ちゃ………」


呟いたとき、胸がぎゅうっと締めつけられた。

込み上げるような懐かしさと、取り戻せないものへの喪失感が、波のように押し寄せてくる。


気づけば、頬をひとすじ、熱いものが流れていた。


視界がじんわりとにじみ、

写真の少年の顔が、涙でぼやけていく。


ぽたり。


アルバムの上に、一滴、涙が落ちた。



─────




次の日、仏間には親戚や近所の人たちが集まっていた。

線香の煙がたなびき、蝉の声と扇風機の音が空間をゆっくり撫でていく。


晋助は無言で座布団に座っていた。


形式的に手を合わせてはみるものの、気持ちはどこか上の空だった。


その時、障子の向こうからひそひそと声が聞こえてきた。


「また〇〇さん亡くなったんですって」


「この間の〇〇さんの奥さんも急だったわね……」


「立て続けよねえ、なんだか……気味が悪いわ」


「亡くなった人たちの近く……なんか水に濡れた跡があったって聞いたのよ」


「畳が、じっとりと……まるで誰かがそこに立ってたみたいに」


「ええ……まるで、お迎えが来たみたいだって」


扇風機の風が、晋助の首筋を撫でた。


ひときわ強い不安が胸をよぎる。


(……水の跡? お迎え?)


ふと、障子の外に視線を向けた。


いつの間にか空が曇り、静かに雨が降り始めていた。


縁側の先、庭の葉の先に溜まった雫がひとつ、ぽたりと落ちる。


地面の石を打ち、水音がひときわ鮮明に響いた。





──ぽたり。


音に合わせて、胸の奥がざわりと揺れる。


(……また、だ)


誰も気づいていない。

けれど、自分だけは知っている。



──この音が、ずっと自分につきまとっていることを。


ぽたり、ぽたり。


葉の先から水が落ちる音に混じって、

耳の奥で、もうひとつの水音が鳴っていた。


その夜、晋助はいつになく早く布団に入った。


昼間の疲れか、それとも、思い出してしまった記憶のせいか。

体は重く、まぶたも自然と落ちていく。


(……寝つけるわけ、ないって思ってたのに)


思考が沈み込むように途切れていき、

薄暗い天井が、じんわりとにじんだ。


そうして、静かに眠りに落ちた。





─────




夢を見ていた。



──水の中だった。


冷たい。暗い。重い。


息が──できない。


(くるしい……っ)


もがきながら、手を振る。

まとわりつく水草のような何かが体に絡みつき、どこにも逃げられない。


「……助けて……っ」


手を見た瞬間、違和感が走った。


(……こんなに、小さかったっけ……?)


水中に揺れる、自分の手。

まるで、まだ幼い子どもの頃のような指先。


胸が苦しい。視界が暗い。

脳が酸素を求めて焼けるような感覚に襲われる。


(……死んじゃう……誰か……)


「……トオルにぃちゃ……!」


声にならない声で叫んだ、そのとき。


「晋助っ!」


誰かが──自分の名前を、呼んだ。


 


ガバッ!


晋助は跳ね起きた。


布団の中、心臓の音が耳の奥でドクンドクンと鳴っている。


息を荒く吐きながら、額を拭った。


夜はすっかり明けていて、障子の隙間から柔らかい光が差し込んでいた。


夢──にしては、生々しすぎる。


指の冷たさ、水の重さ、胸を締めつける恐怖。

そして、最後に聞こえた──声。


「……トオルにぃちゃ……?」


言葉にした瞬間、胸の奥に疼くような感覚が走る。


(あの声……夢なのに……知ってる……)


なにかを思い出しそうで、けれど霧がかったまま。


忘れていた。



けれど、確かに昔、自分には──


 


──その日、晋助は朝食もそこそこに、ふらりと外に出ていた。


母に「ちょっと散歩してくる」とだけ告げ、足は自然と山へ向かっていた。


誘われるようにして歩いている。

自分でも理由がわからない。



ただ、引っ張られるように、山道を進んでいた。


靴音が土を踏むたび、湿った空気が鼻に触れる。

木々の間を抜けていく風は冷たく、どこか懐かしかった。


(……昔、このあたりで……誰かと)


記憶の底に、微かに灯る光景。

苔むした石段、草の生い茂る小道、そして──


「おーい!」


ふいに背後から声がした。


振り返ると、小柄な老人が立っていた。

手に山菜の入った袋を提げて、険しい顔をしている。


「坊ちゃん、この先行っちゃなんねぇ。あんた……町の子じゃろ?」


「え、あ……はい。地元の……原です」


「ほう、原ん家の……。ならなおさら行くべきじゃねぇな。あそこにはな、池の近くに祠があっての。あそこを管理していた風間さんっていう人がおったんじゃ」


「風間さん?」


「うむ。2、3年前かのぉ、流行り病で亡くなってな。ほら、あそこの一人息子。先に旅立っちまってから、気力なくしてのぉ……」


老人は寂しげにうつむいた。


「継ぐ子もおらんから、祠はそのままになっとるみたいなんじゃよ」


老人は低く囁くように言った。


「近づかんほうがええ」


その言葉を残し、老人は静かに山道を下っていった。


晋助の背後には、森の深い静けさだけが残った。



老人が去ったあと、晋助はしばらくその場に立ち尽くしていた。


ふいに誰かに呼ばれた気がし、祠があるという池のほうへ、ゆっくりと足を向ける。


森の奥へ進むにつれて、空気はどこか重く湿っていた。


細い木の枝が揺れ、かすかな水音が遠くから聞こえてくる。


やがて、苔むした石段が見え始めた。

その先に、小さな祠と池が佇んでいる。


祠の閂は半分腐りかけていて、そこから冷たい水滴がぽたり、ぽたりと落ちている。




晋助は思わず息を呑んだ。



その音が、あの耳の奥に残る水音と重なって聞こえたからだ。


「……ここか」


池の前に立つと、不意に冷たい風が吹き抜けた。

その瞬間、胸の奥で何かがざわつき、誰かの手が自分の肩に触れたような感覚がした。


振り返るが、そこには誰もいない。


晋助は小さな声で呟いた。



「トオル……?」


その瞬間、忘れていた記憶の扉が開くように、映像が脳裏を駆け巡った。


 


──あの日のこと。


澄んだ池のほとり。

少年トオルが必死に飛び込んだ水面。


晋助は黒くてねっとりとした何かに腕を掴まれ、ずるずると水中に引きずり込まれていた。


「やめろ!離せ!」必死に抵抗するが、闇は絡みつき、逃げ場を塞いだ。


そのとき、トオルが泳ぎ寄り、晋助の手を掴み引っ張り上げた。


息を切らしながら、ふたりは岸に這い上がった。


だが───闇はトオルを引きずり込もうとし、少年は必死に抵抗する。


「逃げろ、晋助!」


トオルの声が水面に響く。


「ゲホゲホ……でも、にいちゃ……」


晋助は咳き込みながらも振り返った。


「俺はいい!なんとか……する……からっ!早く……いけ!」


その叫びは最後の力を振り絞ったものだった。


「うわああああああ!」


晋助は恐怖に駆られ、何もできず逃げ出した。


 


――大人を呼んだが、もう遅かった。



祠の周りで揺れる赤いランプの灯り。

その夜の記憶は、子供の頃の晋助にはぼんやりとしか見えなかった。


あの時、風間のおじさんの泣き声が森に響き渡り、

赤く揺れる灯りが不気味に空間を染めていた。


 


「トオルにぃちゃ……」


かすかに呼んだ自分の声が、今は胸に重くのしかかる。

 


あの日、トオルが助けてくれたこと。そしてトオルを置いて逃げてしまったこと。


そしてトオルが死んだこと……。



子供だった自分には、理解できなかった。


 


今になってようやく、はっきりと見える。


 


トオルは、黒い何かから自分をかばい、

自ら深い闇の中へと引き込まれていったのだ。


 


泣き叫ぶ風間のおじさんの声は、息子を失った悲しみと、誰にも言えない秘密を抱えた苦しみの音だった。

 


閉じ込めていた記憶のモザイクが、ひとつ、またひとつと剥がれ落ちていく。



「ごめん……トオル……」


晋助がそう呟いた瞬間、静まり返った池の水面が急にざわめき始めた。


ぽたり、ぽたりと落ちていた水滴が、一気に大きな波紋を描く。


そして、水の底から、黒くうねる何かが蠢きながら這い出してきた。


それは、細く長い鞭のような形状を持ち、ねじれながら空気を切り裂く。



「うわっ!」


晋助は反射的に身をかわし、振り返ると森の中へと駆け出した。


後ろから、黒い何かのうねる音と風を切る唸りが迫る。


もう一撃、鞭のような腕が飛んできて、晋助の足に絡みついた。


「くっ……!」


激しい痛みに顔をしかめながら、無理やり振りほどく。


足には裂けたような傷。血が滲む。


それでも、晋助は転げるようにして森を走った。


 


木の根に足を取られそうになりながら、息も絶え絶えに逃げる。


(……ダメだ……このままじゃ……!)


そのとき、また聞こえた。


 

──晋助……。


 


息を殺して耳をすますと、微かに、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。


その声に導かれるようにして、古びた木造の建物が見えた。


──朽ちた母屋。


柱は傾き、屋根は落ち、草が生い茂っている。


「……隠れるしか……!」


晋助は痛む足を引きずりながら、建物の中へと滑り込んだ。


 


─────



外では、黒い影が人のような形を取りながら、ゆっくりと徘徊していた。


足音も立てず、空気すらも吸い込むような気配。



晋助は息を殺し、母屋の梁の陰に体を伏せた。


脈打つ心臓の音が、鼓膜の内側で暴れている。


 


──そのとき。


薄暗い室内の隅に、ふわりと光るものが見えた。


 


(……光?)


それは小さな子どもの姿だった。


光の少年が、晋助を見つめて、指さしていた。


指差す先には──木箱。


 


「……トオル……?」


声をかけた瞬間、少年の光はすっと消えた。


しかし、そこには木箱があった。


晋助は震える手で、そっとその箱を開ける。

 


中には──真新しい「お札」。


何重にも包まれて、丁寧に収められている。

 


(……これは……もしかして、祠の……)


ふと、冷気が背中をなぞった。


気づけば、黒い影が再びこちらへ近づいていた。


 


(時間がない……!)


晋助はお札を握りしめ、立ち上がった。




─────



祠の前へと、晋助は再び立っていた。


手には、あの母屋で手に入れた真新しいお札。


(……導かれるように、ここまで来た……)


誰の意思でもない。けれど、引き寄せられるように足は勝手に動いた。

今ならわかる。

ここで、何かを見なければならない。


 


祠の戸には、崩れかけたかんぬきが打たれていた。


かすかに震える手を伸ばし、閂を──ゆっくりと、外す。


ギィ……と、木が軋む鈍い音。

祠の扉が、ゆっくりと開いた。


 


中は、薄暗く、湿気に満ちていた。


ぽたり──

天井のどこからか雫が落ちる。


晋助は静かに、一歩、また一歩と足を踏み入れる。


 


中には、札でびっしりと封じられた岩があった。


無数の札が、まるで縄のように岩に巻きつけられている。

その岩は、ただ置かれているのではなかった。


地面の“穴”のようなものを、まるで蓋のように覆っていたのだ。



(……これ……封印……?)


──息を呑む。


冷気が地の底から這い上がってくるようだった。


お札のひとつが、風もないのにぺたりとめくれた。


ぞわりと、背筋をなぞるような悪寒。


 


この岩は、何かを閉じ込めている。


まるで──


「……井戸?」


思わず呟いたその言葉が、湿気を帯びた祠の空間に吸い込まれていった。


 


だがその時だった。


札に巻かれた岩の隙間から、何かが──


ごぼ、ごぼ……と音を立てて、這い出そうとしていた。


 


晋助は思わず後ずさる。


(まずい……!)


祠の空気が一気に凍りつく。



そのとき、耳元に風のような声が届いた。


──晋助……


 

トオルの声だった。


握りしめたお札が、じんわりと温かくなっていた。

 


(……これを、あの岩に……!)


 

晋助は再び、札を握りしめながら、一歩祠の奥へと踏み出した――


 岩の下から、影がじわじわと溢れ出していた。


ごぼ、ごぼ、ごぼ──

どろどろと濁った水のような音を立て、黒い何かが祠の床を這い、晋助の足元に広がっていく。


(まずい……このままじゃ……!)


手に握りしめた真新しいお札。

それを、岩の上に──!


「うおおおおっ……!」


貼りつけた瞬間、札がバチン、と弾けるような音を立てて震えた。

まるで、それに触れた影が暴れているかのようだった。


だが、真新しかった札の表面がじわじわと黒ずみ始める。


(くそっ……! 一枚じゃ……!)


影は岩の隙間からさらに這い出してくる。


歪んだ人の顔のようなものが浮かび、声にならない呻き声が祠に満ちていく。


思わず耳を塞ぎたくなる。


だが、晋助は踏みとどまった。


(逃げるな……俺は、もう……)


トオルなら、こんなときでも絶対に諦めなかった。

晋助の脳裏に、あの日の叫びが蘇る。


──逃げろ、晋助!


(……俺だって……!)


歯を食いしばり、震える手で次のお札を取り出す。


貼っても、またすぐ黒く染まっていく。


目の奥が焼けるように熱い。


気づけば、額から血が流れていた。


どこかで怪我をしたのだろう。痛みすら、もうわからない。


血が目に入り、視界が赤くにじむ。


それでも、晋助は手を止めなかった。


一枚、また一枚──

必死に札を貼っていくたびに、影はわずかに弱まっていく。


(……あと少し……もう少し……!)


そう思ったその瞬間。


背後から、ぬるりとした気配が忍び寄ってきた。


ぞわり、と肌が粟立つ。


誰かが、背後に──“いる”。


振り返ることもできず、ただ視界の端でそれを捉える。


影が……人のような形を成している。


闇そのものが、立ち上がったような姿で、晋助の背後、祠の入り口に立っていた。


足音はない。

それでも、“それ”はゆっくりと、じわじわと、祠の中へ入ってくる。


──晋助……

──にいちゃ……


誰かが呼んだ。


それは、かつて自分を呼んだあの優しい声と、どこか似ていた。


だが──違う。


それは、トオルではない。


同じ声を真似る、“何か”だ。


晋助の背中に、冷たい汗が流れた。


影が札の光を嫌うように、苦しげに悲鳴を上げた。


「ぁ……あああ……!しん……すけ……トオ……る……!しんすけぇ!……死んで?死んで……?」


ぐにゃりと黒い身体が形を変える。


顔のようなものが浮かび、次の瞬間、鞭のような影が唸りをあげて襲いかかってきた。


ビシッ!!


「っぐ……!」


背中に激痛が走り、膝が崩れそうになる。だが──


「やめろっ……!」


晋助は叫んだ。


「お前は……トオルなんかじゃない!」


黒い影がぴたりと動きを止めた。


「にぃちゃは……そんなこと言わない!」


涙と汗と血が混ざる顔で、晋助は睨みつける。


「トオルにぃちゃは……!アクションライダーのように……正義の味方だっ!!」


その言葉に呼応するように、最後の札がひときわ強く光を放った。


影はのたうち、ひび割れるように空間が揺れ始める──



「……これで終わる。これで……!」


晋助は震える指で、最後の一枚を握りしめた。


この一枚で――封じられる。


確信があった。

けれどその瞬間、黒い何かが呻き、形を変えた。


ムチのようだった影がねじれ、尖り、一本の“槍”になった。


それは空気を裂き、音を立てて勢いよく突き出される。


(やばい――!)


貼らなければ。貼らなきゃ。


早く……!


だが、手が震える。

指が血に濡れて滑る。

目の前も、もうにじんでいて、札の位置さえわからない。


(しまった……!)


心臓に向かってくる黒い槍。


目の前に迫る死の気配。


――あぁ、間に合わない。


(ごめん、トオルにぃちゃ……)


ぽたり


雫が一滴、札から落ちた。


地面に触れたそれが、淡く光り、人の形を成す。


ふわりと現れたその影は、晋助の前に立ちはだかり、黒い槍を受け止めた。


「……!」


影は、ゆっくりとこちらを振り返った。


その顔は、あの頃と変わらない。

びしょ濡れで、けれど笑っていた。


トオルだった。


そして、聞こえた――


「後は頼んだっ!相棒(2号)!!」


胸が熱くなる。

涙で視界がぼやけた。


そうだ、あの日、言ってくれた。

ふたりは相棒。アクションライダー1号と2号。


晋助は、拳を握った。


「任せろっ!相棒(1号)!」


最後の札を、力強く、黒い岩の中心に叩きつけた。


──パンッ!


乾いた音が空間に響いた瞬間、祠の奥が閃光のように輝き、黒い影は断末魔のような叫びを上げて霧散していった。


 


静寂が戻る。


黒い影が霧のように消え、祠の中に、静寂が戻った。


風が止み、葉が揺れない。


ただ一つ──


ぽたり。


水の雫が、静かに札の上に落ちた。


 


─────



晋助は、膝から崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。


呼吸が荒い。胸が焼けるように痛む。


だが、それでも――



「……終わった、のか……?」



風が止み、森が深く呼吸しているような──そんな静けさ。


晋助は、膝をついたまま、祠の岩を見つめていた。


札がしっかりと貼られ、封が完了した印。


それでも、胸の中には、まだ熱いものが残っていた。


 


「……ありがとな、トオルにぃちゃ……」



もう、姿はどこにも見えない。


けれど、確かにここにいた。


あの声。あの笑顔。あの一言。


 

──相棒。


呟いた声は震えていた。


視界が滲んでいるのは、疲労のせいじゃない。


 


ぽたり。


 


頬からこぼれた一滴の涙が、札の上に落ちた。


その雫は、まるで“答えるように”光をきらめかせて消えた。

 


晋助は、ゆっくりと立ち上がる。


痛む足、震える手。


でも、胸の奥には、確かな想いが宿っていた。


 


「もう、忘れたりしない……。あの時、俺は逃げた。でも今は、もう違う」


祠に背を向け、森の出口へと歩き出す。


 


空は、いつの間にか晴れかけていた。


木々の隙間から差し込む光が、やわらかく晋助の背を照らす。


 


静かに風が吹いた。


耳元で、誰かの声がふわりと囁く。


 


──「いってらっしゃい、2号」


 

晋助は、小さく、泣き笑いのように笑った。


そして歩き出す。


新しい、自分自身の足で。

 


そしてもう一度──

 


ぽたり。

 


今度は、頬から伝った“涙の雫”が、土の上に静かに落ちた。


それは、過去と向き合った少年が、大人になろうとする証のように。


祠の中で、札がそっと、静かに風に揺れていた。




──────


 

都会の秋は、思ったよりあっさりと訪れた。


蝉の声も、焦げつくような陽射しも、もうここにはない。


ビルの谷間を抜ける風は乾いていて、アスファルトの匂いがかすかに鼻をかすめた。


 

晋助は、研究棟の前のベンチに腰を下ろした。


包帯は取れたが、左足の傷跡はまだ痛む。無理をしないように、医者からも言われていた。


けれど、その痛みが今は──何よりも確かだった。


 


ポケットから取り出したのは、小さなアクションライダーのカード。


色褪せた「2号」のキラカードは、今でもほんの少しだけ光を返してくれる。


晋助は静かに、それを見つめる。


 


(……あの夏に、起きたことは……忘れない)


 

黒い影、札、そして──


最後に自分を守ってくれた“1号”の声。


あの祠で過ごしたあの数日間は、きっとこれからの人生でも折に触れて思い出すのだろう。



「……ありがとな、トオルにぃちゃ」


誰にも聞こえないように、ひとり言を呟く。


その声は、秋風に溶けて消えていった。



新しい季節が始まろうとしている。



晋助は立ち上がると、カードを胸ポケットにしまい、歩き出した。


傷跡を抱えてでも、前に進むと決めたのだ。



遠くでチャイムが鳴っている。


どこまでも高い空の下、晋助の影が、ゆっくりと伸びていく。



──ぽたり


心の奥で、なにかが音を立てて静かに流れた。


それはもう、恐怖でも呪いでもない。


ただ、優しく、涼やかな記憶の水音だった。



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