微熱
紙山は、同じ会社で働く動機の林森と、仲良くなりたいと思っていた。
ある日の仕事終わり、紙山は林森を飲みに誘った。
いろいろと2人で話し合う中で、紙山は林森の考え方を知ることとなる⋯⋯。
言っておくけど、これは俺の人生なんだ。俺の人生に勝手に入り込んできて、偉そうに善人ぶらないでくれ。
紙山は、先ほど林森に言われた言葉が、耳から離れなかった。誰かに、こんな風に言われたのは初めてだった。
紙山と林森は、1か月前に出会った。同じ会社に、同じ時期に就職した。年齢も同じだった。同期は、紙山と林森の2人だけだった。
部署は違ったため、毎日話をする仲ではなかった。しかし紙山は、何とかして林森と仲良くなりたかった。
貴重な同期だ。何かあったら、お互いに助け合える。紙山は、林森と距離を縮めたかった。
仕事にも慣れてきたある日、紙山は自身の仕事を済ませ、林森のデスクへ向かった。林森は、パソコンの画面をにらみ付けていた。
「よぅ、林森。今から、少し飲みに行かないか」
紙山は、林森に声をかけた。林森は紙山の方に顔を向けた。そして、別に良いけどと一言だけ返事をした。
「そうか。そこの駅前の近くに、うまい店があるんだ。よし、そうと決まったら、さっそく退勤の準備をしてくるよ」
紙山は、林森と初めて2人で話ができることに喜んだ。
林森は、紙山が言い終わる前に、視線をパソコンに戻していた。
「俺も、準備するよ」
紙山は、わかったと言って、自分のデスクへと戻った。
15分後、2人は職場を出た。目的の店までの道中、お互いの仕事内容を語り合いながら歩いた。
店に着いた。大衆居酒屋で、中はスーツ姿の客で賑わっていた。2人は、中ほどのテーブル席に案内された。程なく店員さんが来たので、ビールを2つ頼んだ。
「林森、そっちの仕事はどうなんだ。なかなか大変そうだけど」
「まぁ、それなりにかな」
「そうか。俺の方は、先輩がすごく仕事のできる人だから、色々と助けてもらってるよ」
「ああ、正山さんのことか」
「そうそう、正山先輩。だから、今は仕事が楽なんだ。ああ、ビールありがとう。すみません、注文良いですか」
紙山は、ビールを持ってきた店員に、適当に注文を済ませた。その後も、仕事のことで色々と林森に聞いた。林森は、紙山が尋ねたことだけに応えていた。
注文がビールからハイボールに変わった頃だった。紙山は唐揚げに手を伸ばしながら、話を進めていた。
「まだ入社して間もないのに、そんな大変な業務を押し付けるなんて、考えられないよな。今日もほら、林森は遅くまで仕事がかかりそうだったし」
紙山の言葉に対し、林森は返事もせず、ただ黙ってハイボールに口を付けている。
紙山は、そんな林森が気になりつつも、話を続けた。
「同期なのに、部署が違うだけで、上司が違うだけで、こんなにも忙しさが変わってくるんだな。林森、困ったことがあったら、何でも相談してくれよ。俺も手伝うからさ」
林森は、相変わらず黙っていた。少しだけ、2人の間に沈黙が流れた。紙山は、その場の雰囲気に落ち着くことができず、自身のジョッキを手に取った。そして、ハイボールを口に流し込んだ。
「あのさ……」
その時、不意に林森が話し出した。
「さっきから、俺の事を気にかけてくれてるのは分かるんだけど。俺は、別に今の仕事に不満は無いんだよ。紙山から見たら、俺が大変そうに見えているかも知れないけど」
急な林森の告白に、紙山は呆気にとられていた。林森が何を言いたいのか、分からなかった。
「お前のその善意は、俺には必要ない。俺には俺のやり方があるんだ。はっきり言って、迷惑なんだよ」
紙山は、黙っていた。林森の言葉の意味を解釈するのに、少しの時間を要さねばならなかった。しかし、林森はその時間を与えず、話を続けた。
「言っておくけど、これは俺の人生なんだ。俺の人生に勝手に入り込んできて、偉そうに善人ぶらないでくれ」
その後の会話の内容は、ほとんど覚えていなかった。たしか、紙山から当たり障りのないことを林森に話して、すぐに店を出たような気がする。
林森と逃げるように別れ、家路につく間の電車の中で、紙山は林森の最後の言葉を反芻していた。
電車の車窓から見える景色を眺めた。夜の街に、多くの人々の姿が見える。
人には、それぞれの考え方がある。そして、多くの人と関わりながら、時にはその考え方を修正し、保守しながら暮らしている。そうやって生きているのである。それを、我々は価値観と呼んでいる。
俺には俺の価値観があり、当然林森には林森の価値観がある。あいつの生き方がある。それは分かっている。
それは分かっている。けれど⋯⋯。
先程から、少し頭が痛む。紙山は、額に手をあてた。どうやら微熱があるようだ。
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