序章: 裂け目からの降臨
夜空が裂けた。
1943年7月1日、ヨーロッパ戦線のどこか。
灰色の雲が低く垂れ込め、遠くで砲撃の残響が地を震わせていた。
ドイツ軍の塹壕と連合軍の戦車が睨み合い、泥と血に塗れた戦場は死の匂いに満ちていた。兵士たちの叫び声と銃声が途切れることなく響き合い、まるで世界そのものが終わりを迎えたかのようだった。
その時、雲の隙間から青白い光が迸った。
まるで天が割れたかのような輝きが戦場を照らし、兵士たちの動きが一瞬止まる。
光の中心から、影が落ちてきた。金属の響きを伴い、地面に膝をついたその姿は、この世界の者とは思えなかった。
リオン・ファルクスは目を瞬かせた。
目の前に広がる光景は、彼の故郷アルテリアとはあまりにも異なっていた。緑の森も、清らかな川も、穏やかな村の笑い声もない。代わりに、焼けた土と鉄の残骸、そして血に染まった人々が視界を埋めていた。耳を劈く爆音に、彼は反射的に剣を握りしめた。「ルミナス・ブレイド」の刃が微かに唸り、青い光を放つ。
「ここは…どこだ?」
彼の呟きは風に掻き消された。アルテリアで魔王を倒す使命を負っていたはずが、召喚の魔法は彼をこの見知らぬ戦場に投げ込んだ。混乱の中、ドイツ軍の機関銃が火を噴いた。弾丸がリオンに向かって殺到する。
「危ない!」
本能が彼を動かした。剣を掲げると、透明な結界が広がり、弾丸を弾き返す。金属の破片が地面に散らばり、周囲の兵士たちが目を丸くした。連合軍の戦車が反応し、砲塔を向けると同時に轟音が響く。リオンは風の魔法を呼び、爆風を逸らして身を翻した。
「敵の新兵器だ!」
「撃て、撃ち殺せ!」
両軍の叫びが交錯し、リオンは自分が標的になったと悟った。言葉が通じないこの世界で、彼は逃げるしかなかった。森の暗がりへと駆け込み、背後に響く銃声と爆発音を振り切る。鎧が枝に引っかかりながらも、彼は走った。息が上がり、心臓が激しく鼓動する。
「何だ、これは…戦争なのか?」
アルテリアの戦いは魔物との単純な対決だった。だが、ここでは人が人を殺し、憎しみが憎しみを呼んでいる。理解を超えた光景に、リオンの胸が締め付けられた。
森の奥深く、木々の影が彼を隠した時、小さな悲鳴が耳に届いた。リオンは足を止め、音のする方へ目を凝らす。木の根元に、瘦せた少女が縮こまっていた。ボサボサの茶髪が顔を覆い、汚れた服が彼女の小さな体を包んでいる。大きな瞳がリオンを見つめ、恐怖に震えていた。
「誰だ…?」
リオンは剣を下ろし、ゆっくりと近づいた。少女が後ずさりするのを見て、彼は手を差し伸べた。
「俺は敵じゃない。安心して」
言葉が通じないことは分かっていた。それでも、彼の穏やかな声と優しい眼差しが、少女の心に届いたのかもしれない。彼女の震えが少し収まり、怯えた瞳が彼を見上げた。
その時、森の向こうから足音が近づいてきた。ドイツ兵の偵察隊だ。懐中電灯の光が木々を切り裂き、低いドイツ語の命令が響く。リオンは少女を背に庇い、剣を構えた。だが、少女が素早く彼の手を掴み、茂みへと引き込んだ。
「こっち!」
リオンは驚きつつも従い、茂みの奥に身を潜めた。兵士たちの足音がすぐ近くを通り過ぎ、電灯の光が遠ざかる。静寂が戻った時、少女がようやく息をついた。
「ありがとう」
リオンは微笑み、少女の手をそっと握った。彼女の震える指先が、彼の温もりに触れて少し落ち着いた。
森の闇の中で、二人の目が合った。リオンは知らなかった。この少女——アンナ・シュミット——が、彼の使命を導く光となることを。そしてアンナもまた、この異邦の剣士が、戦争で凍りついた彼女の心を溶かす存在となることを、まだ知る由もなかった。