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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

婚約破棄を宣言したら夜会に参加した人間が一人も生き残らなかったお話

 貴族の通う学園で執り行われる夜会。いつもは喧騒に包まれるその場所は、しかし今宵は静かだった。

 誰の声も聞こえない。床に靴音が響くこともなければ、ドレスの衣擦れの音すらしない。動く者はいない。それどころか、息をしている者すらほとんどいなかった。

 

 そこは血の海と化していた。

 首を斬られた者がいる。胴を断たれた者がいる。手足を切り落とされた者がいれば、胸を貫かれた者もいる。貴族の令嬢も子息も、使用人も護衛の騎士も。身分も性別も役職も関係なく、ことごとく絶命している。

 死体の状態は様々だが、使用された凶器だけは明白だった。恐ろしいほどに鋭い刃物だ。服も鎧も、肉も骨も関係なく、その切断面は異様なまでに滑らかだった。

 

 そんな無残な殺戮の中、立っているのは三人だけだった。

 

 一人は子爵子息ハルトラルド。グレーの髪に涼やかなアイスブルーの瞳の美しい青年だ。

 彼はこの惨状に似つかわしくない表情を浮かべていた。仄かに紅潮した頬。うっすらとした微笑み。厳粛な面持ちの下に確かな期待が垣間見える。まるで絵を描くのが好きな子供が、初めて訪れた美術館に来た時に見せるような顔をしていた。

 

 子爵子息ハルトラルドにすがるのは、子爵令嬢アインシニア。鮮やかなハニーブロンドの髪に、緑の瞳。その大粒の瞳は貴族の学園でも評判になるほどの美しさだったが、今はそれを見ることはかなわない。彼女はこの惨状を目にするのが恐ろしいのか、固く目を閉じていた。芯から震え男の腕にすがるその姿は、身に着けた貴族の礼儀作法は見られない。夜の闇におびえる幼子のような有様だった。

 

 そして、最後の一人。寄り添う二人の前に立つのは、伯爵令嬢エスラーティア。

 彼女は、ハルトラルドの婚約者だった令嬢だ。『だった』というのは、つい先ほど婚約破棄の宣言を告げられたからだ。

 光が差したことのない深い谷底を思わせる漆黒の髪。血のように紅い瞳。清楚可憐な顔立ちながら、黒いルージュを引いたその口元は、年に見合わない妖しさがある。

 黒を基調としてレースで飾られたドレスは、本来なら彼女の美しさを見事に引き立てていただろう。だが今は、不吉な想いをかき立てる。なぜならその装いは、いくつもの浅黒い染みができている。そこから立ち上る香りを嗅げば、誰もが戦慄せずにはいられない。

 血の匂いだ。ドレスに着いた浅黒い染みは、返り血だ。貴族の学園の夜会。その参席者をことごとく殺し尽くしたのは彼女なのである。

 

 一人の令嬢が夜会の参席者を皆殺しにした……普通なら、そんなことを聞いたら一笑に付されることだろう。

 だが、今の伯爵令嬢エスラーティアを見て、笑える者などこの王国にはいないだろう。

 彼女の指先からは爪が伸びている。腕と同じほどに伸びた長い爪。鉄を思わせる硬質な輝き。そこから立ち上る禍々しい魔力は、人の身ではあり得ないものだ。


 彼女は訝し気な様子でハルトラルドを見つめている。敵か味方か判断しかねているような目だ。

 そして、エスラーティアの問いによって、遂に静寂は破られた。

 

「『夜会で婚約破棄を宣言されること』……それが愛の女神リアラヴィアが仕掛けた忌々しい封印を解く唯一の手段であることを、お前は知っていたのか?」


 エスラーティアは由緒正しき伯爵家に生まれた令嬢だ。しかし遠い前世は人間の貴族ではない。

 200年以上昔のこと。このブレバルアンド王国を何度も危機に陥れた魔王がいた。伯爵令嬢エスラーティアは、その魔王の転生体なのだ。

 

 魔王からの問いかけに対し、ハルトラルドは静かに頷いた。その姿にはこの無残な光景を生み出した悲しみも後悔も見られなかった。

 それどころか彼は笑っていた。この惨劇には似つかわしくない、すがすがしい笑みを浮かべているのだ。




 200年以上昔のこと。ブレバルアンド王国はその長い歴史の中で、侵略を幾度も受けていた。

 王国を滅ぼさんとした魔族の名は、魔王シルドティール。

 鋼のような冷たく硬質な輝きを返す黒髪。血で染め上げたかのような赤い瞳。情の見えない怜悧な美貌。その身に纏うのは黒い鋼の戦装束。ほっそりとした女の身体でありながら、何者も曲げることのできない鋼のような強さを持った女傑だった。

 彼女の用いる戦略は常に冷酷で無慈悲で、徹底的だった。その戦いぶりには人間を滅ぼそうとする断固とした固い意志があった。

 冷酷無惨な軍略。鋼を想起させる風貌に、鋼のごとき強い意志。それらのことから、「凍てつく鋼」という異名で呼ばれていた。


 魔王シルドティールは滅ぼされても、100年ほどすると転生して復活するという能力を有していた。

 ブレバルアンド王国はその歴史において、魔王シルドティールの侵攻によって幾度となく滅亡の危機に瀕した。しかしそのたびに王国内から勇者が現れた。

 

 どれほど王国を追い詰めようと、勇者が苦境を覆した。勇者はその力と勇気で、打ちひしがれた騎士たちは力強く立ち上がり、絶望に沈んでいた人々は希望の灯をともした。そうして盛り返した王国は、魔王シルドティールの軍略をもってしても容易に滅ぼせない粘り強さを見せる。魔王軍が攻めあぐねる中、勇者はその強大な力を存分に揮う。魔王軍幹部を次々と屠り、勇者は攻め進む。そして魔王との戦いの果て、勇者が勝利するのである。

 

 魔王シルドティールは転生するたびに敗北を繰り返してきた。それでも彼女は諦めなかった。勇者は神が与えた人類の決戦存在であり、その誕生を阻むことは魔王の力をもってしても不可能だ。だが王国の人間たちはそうではない。勇者誕生のタイミングが少しでも遅れれば、勇者ですら救えない状況に陥るだろう。守るべき王国を失えば勇者も十全の力を発揮することはできない。その時を目指して、魔王シルドティールは屈することなく侵略を繰り返した。

 

 戦いが続けば、いずれは魔王が勝利する時が訪れたかもしれない。

 しかし魔王の試みは、200年前の敗北時、愛の女神リアラヴィアによって阻まれた。愛の女神リアラヴィアはあろうことか転生しようとした魔王の魂を捕まえ、その力を封じ、人間の貴族令嬢に転生するようにしてしまったのだ。


 初めて人間に転生し、魔王がその記憶を取り戻したとき。

 目の前にはできたばかりの婚約相手がいた。自分が貴族の令嬢に転生していることを理解した。魔王としての力は完全に封じられ、本来の魔族の身体に戻ることができないことを覚った。恐ろしいほど強力な封印だった。

 おそらくこの封印は婚約と言う契約に絡めているのだ。婚約が確定した時点で封印は最大に強くなり、万全の状態となった時点で魔王としての記憶が戻る。婚約に封印を絡ませるとは愛の女神らしい封印の方法だ。この執拗で徹底的な封印の仕方もまた、愛の女神らしいと言えるものだった。

 

 記憶を取り戻した魔王は、すぐさま屋敷の自室に戻ると、化粧台の鏡に向き合った。

 鏡に映る姿はごく普通の令嬢だった。黒髪に紅い瞳。その特徴だけは魔王だった時と変わらない。

 しかしその身体は人間だ。あまりに脆く脆弱だった。この細腕では剣の一本もまともに振れはしない。貴族だけあって人間にしては高い魔力を持っているが、魔王の魔力には遠く及ばない。

 魔王としての力は完全に封じられている。

 本当に、人間の小娘に転生させられたのだ。

 

 本来、魔王と言う存在は魔族の神に守護されており、他の神が直接干渉することはできない。たとえ絶大な力を持つ最高神であっても、魔王に直接手を下すことは困難だろう。

 だからこそ、魔王を倒すために勇者という代行者が必要なのだ。神から選ばれその祝福を受けた勇者のみが、この地上において唯一魔王を倒し得る。それがこの世界の定まりだ。

 だが、愛の女神リアラヴィアはその絶対の定めを破ったのだ。

 

 愛のため――ただそれだけの理由で、時として神々の垣根すら飛び越えてその神力を行使する。愛の女神リアラヴィアとは、ある意味で最強の神なのだ。


「なぜだ! なぜ我を人間などに転生させた!?」


 魔王とは人間を滅ぼす存在だ。そのために生まれ、そのために生きてきた。

 それを無理やり力を奪い、人間に転生させる。魔王からすれば理不尽極まりないことだった。

 魔王の問いかけに対し、答える声があった。


 ――あなたに愛を教えるためです。


 魔王は周囲に目を走らせるが、自室の中には自分以外誰もいない。そもそも声は他の場所から聞こえてたのではない。自分の内から感じた。胸の奥から甘く響く声。それは愛の女神リアラヴィアの声だった。


 ――人間として転生を繰り返せば、いずれあなたも愛を知ることになるでしょう。


 ぞっとした。人間への転生はどうやら一度では済まないらしい。

 その冷酷さゆえに『凍てつく鋼』の異名を持つ魔王シルドティールは、愛を知らない。彼女にとって配下の魔族も魔物も勇者を攻略するための駒に過ぎない。優秀な駒ならば褒美を与え取り立てることもある。だが戦いの流れによって、必要な状況ならば切り捨てる。軍略において愛などと言う感情は不要なものだった。

 魔族の夫を娶り、子をもうけることもある。だがそれは魔王没後も魔王軍を維持するための手段に過ぎなかった。夫と王子には王族として不自由なく暮らせるよう十分な資金を充て、人員を手配した。だが愛情と呼べるようなものを与えたことはなかった。

 

 愛の女神はそんな魔王の在り方を憂い、愛を知らせるために力を奪い人間に転生させたのだ。なんて身勝手な話であるか。あまりの理不尽に魔王は歯噛みした。


 ――あなたが封印を解く手段は二つ。一つは愛を知ることです。

 

 突然、愛の女神はそんなことを言いだした。

 封印の術はすべてを封じようとするより、あえて抜け道を作ることでその構成を強固にできる。こうして封印を解く条件を自ら明示するのも封印を強化する手段の一つだ。

 愛の女神リアラヴィアによる強力な封印だ。力づくで解除することは、たとえ力を封じられていない全盛期の魔王でも不可能だ。ならばその抜け道を知らなければならない。

 魔王シルドティールは女神の言葉を一言たりとも逃すまいと意識を集中した。


 ――もう一つは、貴族の学園の夜会で、婚約破棄を宣言されることです。


 聞き違えたのかと疑った。何かの冗談かと思った。

 だが愛の女神リアラヴィアの声はあまりに明白で確信に満ちていた。嘘ではない。本気でこんなバカげた条件を付けたのだ。

 その言葉を最後に、胸の中でわだかまる甘くおぞましい感触は消えてなくなった。愛の女神が去ったらしい。

 『愛を知る』というあいまいな条件。『貴族の学園の夜会で婚約破棄を宣言される』などというふざけた条件。解除法をこの二つに限定することで、強力無比な封印が出来上がってしまった。

 まるで冗談のような話だ。悪ふざけにもほどがある。だがしかし、封印は本物だ。

 愛を成し遂げるためだけに、およそ正気とは思えない手段で大きなことを成し遂げる。それが愛の女神リアラヴィアという神なのだ。

 

 

 

 魔王シルドティールはまず「愛を知る」という解除方法を諦めた。魔王だった頃、配下を愛したことなどない。夫や子供にすら愛情を感じることはできなかった。

 まして魔王にとって人間は殲滅すべき対象である。いくら人間に転生したからと言って、人間相手に愛情を持てるはずもなかった。

 ならば狙うは『貴族の学園の夜会で婚約破棄を宣言される』ことだ。しかしこれがなかなか難題だった。

 

 魔王が転生したということは広まっていないようだった。代わりに愛の女神からこんなお告げがあったと伝えられている。

 

 ――黒い髪に紅い瞳の令嬢を蔑ろにすると、王国は大変な不幸に見舞われるでしょう。

 

 このブレバルアンド王国において黒髪は珍しい。魔王として意識が戻る前の令嬢の記憶を紐解けば、幼いころから随分と大事にされていたように思う。

 そんな状況下で婚約者に割り当てられた貴族子息は、いわくつきの相手だった。婚約者の家は上位貴族から圧力を受けた状態にある。この婚約を逃せば家の取り潰しもありうる状況だった。

 魔王の初めての人間の婚約者となった貴族子息は、実に丁寧で優しく魔王に接してきた。家が追い詰められた状況にあるから、というだけでないようだ。もともと婚約相手に一途に添い遂げるのを当たり前に考えるような純朴な男だった。だからこそ黒髪に紅い瞳の不吉な令嬢の婚約相手として選ばれたのだろう。

 婚約相手は浮気など考えたことすらない様子だった。どれだけ冷たい態度を取ろうと、辛抱強く耐え、愛情深く接してきた。

 こんな男が婚約破棄を宣言するなどおよそありえない。そもそも常識的な貴族子息であれば、夜会で婚約破棄を宣言するなどという愚行を冒すはずがない。恋愛小説や舞台劇ではありふれた状況ではあるが、現実ではまず起こり得ないことだった。

 

 ならば魔法で操るという手も考えた。貴族子息の一人を操る程度なら、人間の魔力でも可能なはずだ。魔法による形だけの婚約破棄では女神の封印を解除することはできないかもしれない。それでも封印解除の糸口くらいはみえてくるはずだ。

 しかしこれも難しいことが分かった。

 魔王の近くには常に密偵と思しき人間がいた。伯爵家の使用人。貴族の学園の教師や使用人、あるいは通りかかる人間。さりげない風を装い、しかし確実にこちらの動向を探る者がいる。戦いに身を置き続けた魔王は敵意に敏感であり、それはただの貴族令嬢に転生しても変わりはなかった。

 

 このブレバルアンド王国で魔王が転生したという話は広まってはいない。しかし、王家は真実を知っているのだろう。

 それでもこの身に魔王の魂が宿っていると確信まではできていないようだ。数こそ少ないものの、学園では他にも黒髪の令嬢がいる。そちらにも密偵がついているのを見かけた。もし魔王が誰に転生しているかを確信していたら、地下牢にでも拘束して丹念に調べ上げることだろう。さすがに黒髪の令嬢を片っ端から調べるなどと言う蛮行はできない。あるいは、愛の女神リアラヴィアの「黒い髪に紅い瞳の令嬢を蔑ろにすると、王国は大変な不幸に見舞われる」というお告げを警戒しているのかもしれない。

 

 こんな状況下で魔法を使い婚約者を操れば、魔王と自白するようなものだ。女神の封印が解ける確証もなくそんな愚行を冒すことはできなかった。

 

 魔王軍の残党になんとか連絡を取ることも考えた。魔王城で高位魔族と協力し封印の解明に取り組めば打開策が見つかるかもしれない。

 だがこれも極めて困難だ。手紙は常に検閲を受ける。人目を盗んで、それもブレバルアンド王国から遠く離れた魔族の地に知らせを届けるなどおよそ不可能だ。

 

 魔王シルドティールは外出すらも制限されていた。王都から出ようとすれば正当な理由をもって煩雑な手続きをしなければならない。それで王都の外に出られたとしても、何人もの護衛の騎士がつく。彼らの目を盗み、遠い魔族の地に行って上位魔族と出会うなど絵空事だ。

 少し王都を離れれば、下等な魔物と遭遇するくらいはできる。だがそういった魔物では、人間の中に魔王の魂が宿っているなど感知できない。人間とみなし、本能のままに襲ってくるだけだろう。

 

 魔王の不在を悟り、捜索の手を伸ばしている魔王軍残党もいるかもしれない。だが魔王軍との戦いに特化したブレバルアンド王国に魔族や魔物が侵入することは難しい。

 

 つまり現状、為す術はない。だが魔王シルドティールは諦めなかった。彼女は何度勇者に敗北しようと諦めたことはなかった。だからこそ「凍てつく鋼」という異名を得たのだ。

 

 状況はどうあれ、貴族令嬢として敵国の中に潜り込めたのだ。見方を変えればこれは内情を知るチャンスだ。魔王は国の政治、経済、国民の生活環境など、王国の情勢を知るために様々なことを積極的に学んだ。王国を知るために勉学に励むことは貴族令嬢として正しいことで、周囲からの評判も上がった。

 

 愛の女神リアラヴィアの言葉に従うのは業腹だが、この機会に人間の言う愛について学ぼうとも思った。

 愛は人間を強くする。吟遊詩人の歌にでも出てきそうな文言だが、魔王シルドティールはこれを現実的な脅威として認識していた。

 「愛する王国を救うため」「大好きな幼馴染とその故郷を守るため」「恋した王女と添い遂げるため」――そんな理由で勇者は力を発揮する。愛を得た勇者は時として強大な力を発揮し、緻密に組み立てた完璧な戦略を突き崩す。魔王はそんなことを幾度となく経験してきたのだ。

 

 だがしかし、それでも魔王シルドティールには愛情と言うものが分からなかった。

 婚約者の誘いを受けてデートに行っても何の感慨も湧かなかった。ハグもキスもただの身体的接触以上の意味を見出せなかった。

 結婚すれば子作りをしなければならなかった。人間との子作りなどぞっとしない物があったが、しかし血をつなぐことは貴族の義務である。子作りも同様だ。貴き身分の義務と言うことなら、屈辱も甘んじて受け入れることができた。それに市井で集めた情報によれば、肌を重ねることから始まる愛もあるという。

 しかし何度夜を共に過ごしても、得られたのは肉体的な快楽だけだった。遊びとして楽しむ分には悪くない。だが魔王シルドティールにとって、軍略を練る知的な快楽の方がずっと上質なものだった。男女の夜の遊びなど、とても本気になれるようなものではなかった。


 子供は愛の結晶などと言うが、やはり魔王シルドティールには愛着を持てなかった。魔王だった頃なら、自分の子供にはそれなりに期待をかけ、魔王軍を継がせるべく手ずから教えを授けたこともある。しかし人間の身ではその必要も見いだせなかった。子育ては乳母に任せ、時折言葉を交わす程度だった。

 夫はいつも優しく接してきた。子供は立派に育った。物静かで貞淑な妻。愛情深い夫。立派に育った息子たち。愛情などかけらも理解できないというのに、周囲からは幸せな家族として認識されていた。

 

 そうした転生を三度繰り返した。転生の間隔はまちまちだった。死んだ直後に転生することもあれば、数十年の時を経て転生することもあった。

 一度の人生も無駄にしたことはない。常に王国の動向に目を光らせた。学び、探り、試し、状況の打破を図ってきた。しかしこれと言った成果は見えていなかった。愛の女神に施された忌まわしい封印は、未来永劫この魂を縛るのではないかと思われた。

 

 だが、それでも魔王シルドティールは諦めなかった。時を経れば人は変わる。国も変わる。状況は必ず変わる。いずれ何らかのチャンスが巡ってくるはずだと信じた。

 

 愛の女神に囚われてから二百年ほど過ぎた頃。四度目の転生。魔王シルドティールは伯爵令嬢エスラーティアに転生した。そして子爵子息ハルトラルドが婚約者となった。

 

 

 

 子爵子息ハルトラルドはグレーの髪にアイスブルーの瞳を持った美しい青年だった。

 ハルトラルドの家は上位貴族に掌握され、この婚約に縋らねばならないほどに追い詰められている。浮気をすれば身の破滅だ。彼は笑顔を浮かべ、彼女のことを実に優しく丁重に扱った。

 そこまでは三度の転生で婚約者となった者たちと変わらない。

 ひとつ気になったのは、その笑顔にどこか陰が見え隠れすることだった。その理由を尋ねてもはぐらかされた。

 これまでの転生で婚約者となった男たちは、みな純朴で裏表がない性格だった。隠し事をするとは珍しい。

 これは転機かもしれない。使用人に命じ、ハルトラルドの身辺について調べさせた。行動が制限されがちな黒髪と紅い瞳の令嬢ではあったが、婚約相手の身辺調査は貴族令嬢として当然の権利なので、情報は速やかに集まった。

 

 そして、理由はすぐに判明した。ハルトラルドは前の婚約者と死別していたのだ。

 

 ハルトラルドは子爵令嬢ヴィーフォレアと幼いころから婚約していた。その仲の睦まじさは貴族社会でも評判だったらしい。

 だが、ヴィーフォレアの子爵家は政争で負け、没落した。ヴィーフォレアは平民となった。

 そしてある日、子爵家に恨みを持った暴漢に襲われ命を落とした、一家全員皆殺しにされるという、実に惨たらしい事件だったらしい。

 

 ヴィーフォレアの子爵家の没落は、関係が深かったハルトラルドの家にも少なからぬ損害を与えた。そのことで立場を落とした子爵家は、ハルトラルドを黒髪で紅の瞳を持つ伯爵令嬢エスラーティアの家に婿入りさせることとなったのだ。

 

 調査結果を目にし、エスラーティアは少なからず落胆した。他に想い人がいるというのなら利用価値があった。うまくそそのかせば今度こそ婚約破棄を宣言させ、女神の封印から逃れられたかもしれない。しかし死別したとなればどうしようもない。

 エスラーティアにとって、死んだ者をそこまで気にすることがあまり理解できなかった。どれほど強大な魔物も、忠実な魔族も、勇者の剣の前には倒される。大事なのはその死から勇者の情報を得て戦略を練ることだ。彼女にとって死とは戦略上の損害に過ぎない。


「好きだった相手を未だに忘れられないとは。愛とは厄介なものですね……」

 

 自室の中、調査結果をテーブルに広げ、エスラーティアはそんなことをつぶやいた。

 未だ好きだった令嬢を忘れることができない。それが彼の笑顔に影を落としている。そのことことを考えると、なぜかひどく不快な気持ちになった。



 それから先のことはこれまでの転生で経てきた人生とさほど変わらなかった。

 ハルトラルドはエスラーティアを丁重に扱ってくれる。エスラーティアはそんな彼に応えるでもなく、しかし拒否することもなく、ただ流されるままに過ごした。

 周囲からの評判は、物静かな伯爵令嬢に対し、愛情を注ぐ子爵子息の慎ましい恋として受け取られた。愛というものが未だによくわからないエスラーティアからすれば、恋もあったものではないが、そういう評価を受けるのには過去の転生で慣れていた。

 

 今回も空振りだ。女神の封印を解くことはできない。しかしほころびは見えた。これまでは後ろ暗いところが見えない貴族子息が婚約者となってきた。今回は前の婚約者を忘れられない貴族子息があてがわれた。

 そればかりではない。これまで魔王との戦争を前提に体制を組んできたブレバルアンド王国は、200年の平穏によって少しずつ歪みつつある。このまま行けば、次の次くらいの転生では、うまくそそのかせば婚約破棄を宣言するような逸材と巡り合えるかもしれない。

 その日に備え、エスラーティアは王国内の情報収集に努めた。

 

 

 

 ある夜のこと。学園で二年生になり、二学期も半ば以上過ぎたころに催された、学園の夜会。

 夜会の直前にエスラーティアはハルトラルドからの手紙を受け取った。

 手紙には「用事があるので夜会の会場に先に入っていて欲しい」といったことが書かれていた。

 エスラーティアはため息を吐いた。きっと何らかのサプライズを仕掛けるつもりだ。二度目の転生で似たようなことがあった。その時は花束を渡された。なんでこんなことをするのかわからず大いに困惑した。婚約者の顔を潰すわけにもいかず、その時は愛想笑いでごまかした。周囲からはそんな不器用な姿が微笑ましいと評判になった。

 

 言われた通り夜会に出席した。まだ本格的な貴族社会に出ていない令嬢と子息が集う夜会。普段の制服とは趣の異なるドレスや式服。リラックスしているように見せて、まだまだ緊張の抜けきらない年若い男女の歓談。

 エスラーティアは何の感慨も抱けなかった。四度目の転生となるとただ退屈なばかりだった。壁際に立ち、会場を眺めて時間を潰す。

 やがて、会場の入り口からざわめきが響いた。ざわめきは、まるで波が広がるようにこちらに迫って来る。

 そして、騒動の中心がやってきた。

 

 エスラーティアは我が目を疑った。

 婚約者ハルトラルドが、令嬢と腕を絡ませてやってきたのだ。

 その面持ちには緊張が浮かんでいる。連れてきた令嬢は知っている顔だ。確か、子爵令嬢アインシニア。ハニーブロンドの髪に大粒の緑の瞳。その可憐さから話題に上がることも少なくない。男子生徒との交友関係の広さから、女生徒からの評判はよろしくない令嬢だ。

 

 エスラーティアは息を呑んだ。この状況は知っている。舞台演劇で何度となく見た、待ち焦がれていた光景だ。

 そしてハルトラルドはエスラーティアの前に立ち止まった。そして堂々と宣言した。

 

「私はこの子爵令嬢アインシニアとの間に真実の愛を見つけた! 伯爵令嬢エスラーティア! 君との婚約は、破棄させてもらう!」


 実に堂々とした婚約破棄の宣言だった。胸に染みいる言葉だった。

 胸の奥から何かが失われるような感触があった。どこか寂しく、空虚な想い。自らの中に生じた予想外の感覚に、エスラーティアは戸惑った。

 だがそれも一瞬のことだった。すぐさま高揚感に塗りつぶされた。

 身体が軽くなる。魔力が巡る。力がみなぎる。一瞬で確信した。愛の女神リアラヴィアの封印が解けたのだ。

 伯爵令嬢エスラーティアはいなくなった。今ここにいるのは、魔王シルドティールだ。

 ハルトラルドがいきなりこんなことをするとはまったく予想していなかった。しかしその時が来た時にどうするかは、ずっと前から決めていた。

 

 封印が解けたと言っても、魔王の力を全力で揮えば人間の身体はとても耐えられない。

 まずは身体強化魔法で限界まで耐久力を高めた。

 そして魔王の力の内でもっとも負担が少ないものを発現させた。

 『薄闇の爪』。魔力が尽きない限り鋭さを保つ爪だ。魔王が扱う攻撃としては最も威力が低く、勇者の装備にはまるで通用しない。それでも並の鎧なら容易く切り裂く威力を持つ。長さも自在に調整可能で使い勝手もいい。

 

 そして魔王シルドティールは走り出した。まず殺すべきは密偵だった。

 その位置は日ごろから常に把握していた。風のような速さで、相手が反撃する暇すら与えずに命を奪った。教師に扮した密偵も、使用人としてもぐりこんだ密偵も、何もできずに致命的な急所を貫かれ、静かに崩れ落ちた。

 魔王は止まらない。そのまま夜会の会場を出ると周囲を警護する騎士たちを次から次へと屠っていった。騎士の配置も把握済みであり、その処理は無駄なく迅速なものだった。抵抗しようとした騎士は首を刎ねた。盾で防ごうとした騎士は足を切り裂き、転倒させて急所を突いた。貴族の学園を警備しているだけあって、よく訓練された騎士たちだった。だが魔王がいない今、大きな戦いを経験していないただの人間など、魔王シルドティールの敵ではなかった。

 

 騎士を全滅させた後、会場全体に人払いの結界を張り、各出入り口を障壁の魔法で封じた。そして、夜会の会場に戻る。会場内は混乱のるつぼと化していた。殺された密偵たちの死体に気づいたらしい。誰が犯人か、どうして殺されたのか。誰も彼もが困惑していた。議論を交わす者がいる。怯える者がいる。気を失う者もいた。

 魔王はその喧騒のただなかに飛び込み、殺戮を繰り広げた。

 貴族は魔法を学ぶものだ。当然、反撃を試みる者もいた。だが無意味だった。並の攻撃魔法は『薄闇の爪』の一振りで霧散した。強力な攻撃魔法は躱すか、あるいは発動前に命を奪った。身を守ろうとする者もいたが、『薄闇の爪』は薄紙のように防御魔法を切り裂いた。魔王の魔力が込められた爪に対し、並の魔法で対抗することなど不可能だった。

 

 いくら優れた戦士だろうと、たった一人で逃亡者を一人も出さずに夜会の参加者全てを殺し尽くすことなどまず無理だ。

 出入り口をふさぐ障壁の魔法は、遠方からの魔力探知を避けるため低レベルなものにしてある。数十人が殺到し、力づくで出ようとすれば突破できるだろう。

 だが、それで十分だった。


 あえて残酷な殺し方をすることで、恐怖を煽った。グループの中心人物を倒し、それに頼る者を迷わせた。逃走経路に切り飛ばした腕や足をばらまき、逃走を躊躇させた。

 たった一人で殺戮によって群衆を操る。貴族令嬢としての人生を四度経ても、魔王シルドティールの戦術は健在だった。

 

 誰も彼もが混乱する中、魔王だけが迷いなく動き、無駄なく確実に命を奪っていった。あまりに一方的な虐殺だった。

 夜会の会場から逃走するだけなら全滅させる必要はない。だがこれは必要なことだった。意味ある殺戮だった。

 

 まず、魔王シルドティールは時間を稼ぐ必要があった。

 封印が解けたとはいえ、その依り代となる人間の肉体は脆く、魔王の全力にはとても耐えられない。十全の力を発揮できない状態で王国軍に補足されれば、捕らえられてしまうことだろう。そうすれば再び封印されることになるかもしれない。

 それを避けるためには事態の発覚をできるだけ遅らせる必要がある。目撃者を全て消し、人払いの結界を張れば、数時間は稼げるはずだ。

 

 次に、魔王は贄を必要としていた。

 馬を使おうと船を使おうと、王国の警戒網を抜け魔族の領地にたどり着くことは、魔王シルドティールにとっても困難だ。確実に魔族の領地にたどり着くためには空間転移の魔法しかない。だがそれは、複数の優秀な魔導士が時間をかけてようやく行使できる大魔法だ。

 魔王本来の魔力ならさほど労せず使える魔法だが、貴族令嬢の身体でとても耐えられない。

 そこで貴族令嬢や子息を贄とした魔族の儀式魔法だ。人間としては魔力に優れた貴族を贄とすれば、今の状態でも転移が可能だ。

 

 だから、夜会の参席者を皆殺しにしなければならなかった。男女の区別なく、貴賤に関係なく、殺し尽くさなければならなかった。

 

 そして夜会は静かになった。

 誰の声も聞こえない。床に靴音が響くこともなければ、ドレスの衣擦れの音すらしない。動く者はいない。それどころか、息をしている者すらほとんどいなかった。

 

 累々と転がる死体。広がる血に浸され、磨き上げられていた床は今はほとんど見えない。

 全ての準備は整った。あとは転移魔法を発動させるだけだ。

 だが、この場を去る前に、確かめねばならないことがあった。

 

 婚約破棄の宣言がなされ、愛の女神リアラヴィアの忌々しい封印から解放された。

 だが、どうしてそうなったのか。その理由がわからない。婚約者ハルトラルドが浮気をしていたとは思えない。黒髪と紅い瞳の令嬢は常に監視下にあり、その婚約者も例外ではない。仮に浮気していたとしても、こんな事態に至る前に何らかの処罰を受けていたはずだ。

 そもそも婚約破棄する理由がわからない。確かに魔王シルドティールは未だ愛を知らない。一方的に愛を注ぐのは、あるいは辛いことかもしれない。しかしハルトラルドは不満を見せたことすらない。

 

 あまりに不可解だった。その理由を聞き出すために婚約者ハルトラルドと浮気相手アインシニアを生かしておいたのだ。

 ハルトラルドはこの殺戮を目の当たりにしながら動じた様子がない。微笑み期待に瞳を輝かせるその姿は、むしろこの状況を楽しんでいるようにすら見える。

 素直に答えなければそれでもいい。人間に口を割らせる手段はいくつも知っているし、その程度の時間はあるはずだ。

 そう心に決めると、魔王シルドティールは問いかけた。

 

「『夜会で婚約破棄を宣言されること』……それが愛の女神リアラヴィアが仕掛けた忌々しい封印を解く唯一の手段であることを、お前は知っていたのか?」


 魔王からの問いかけに対し、ハルトラルドは静かに頷いた。その姿にはこの無残な光景を生み出した悲しみも後悔も見られなかった。

 それどころか彼は笑っていた。この惨劇には似つかわしくない、すがすがしい笑みを浮かべているのだ。


 それを見て魔王シルドティールは悟った。彼は殺戮が起きることを予めわかっていたのだ。常人にはあり得ない発想だ。しかし魔王を驚かせるには至らない。王国との戦いにおいて、恐怖で正気を失った人間など見慣れていたのだ。

 

「なぜ我を解き放った?」

「復讐のためです」

「復讐か。この夜会の会場に仇がいたのか?」


 魔王シルドティールは会場を見回した。散らばった死体の数々は、もはや誰が誰かもわからない。あるいは仇は一人ではなく複数いたのかもしれない。ならば魔王を復活させて会場ごと皆殺しにさせると言うのは、倫理的な問題に目をつむれば、あるいは効率的と言えるかもしれない。

 それほどの狂気を秘めていたというのなら、ハルトラルドという貴族子息の評価を改めなければならない。魔王シルドティールはそう思った。


「仇はいました。けれど復讐が終わったわけではありません」

「ほう? まだ殺したい相手がいるというのか?」

「ええ。私が復讐したいのは、このブレバルアンド王国そのものなのです。私の前の婚約者、子爵令嬢ヴィーフォレアは、この国に殺されました。この国の滅亡こそが私の望みなのです」


 ハルトラルドは実にきっぱりとそう言い切った。これには魔王シルドティールも驚かざるを得なかった。王国との戦いの中、命欲しさに家族を売る人間はいた。自分の利益のために味方を売る将軍もいた。それでも、復讐のために王国を滅ぼしたいという人間を見るのは、さすがに初めてだったのだ。


「お前の前の婚約者、子爵令嬢ヴィーフォレアは家が没落し、暴漢に襲われて死んだと聞いている。それがなぜ国を滅ぼすということになる? 彼女を襲った暴漢を、国ごと殺すとでもいうつもりか?」

「あのならず者ならとっくに殺しました。でもそれはただの末端に過ぎなかったんです」


 

 今まで落ち着いてた態度を崩さなかったハルトラルドが初めて感情を見せた。その顔は苦しみに歪んでいた。


「没落した貴族に恨みを持つ者は多い。それでも一家を惨殺なんて異常なことです。絶対に裏で手引きした者がいる。そう思って、ありとあらゆる手段を使い、誰の手引きによるものか調べ上げました」

「それで王国を滅ぼすことにしたのか。たかが子爵家一つを、わざわざ王家が皆殺しにしたとでもいうのか?」


 ハルトラルドは首を横に振った。

 

「いいえ、違います。誰が主犯なのか、『特定できなかった』のです」


 妙な言い回しだった。首をかしげる魔王シルドティールに対し、ハルトラルドは言葉を続けた。


「賊を手引きした者はわかりました。そのために金を出した者も見つけました。指示した人間もわかりました。でも、それらはただの走狗に過ぎませんでした。本当は黒幕が誰なのか。殺意を向けたのは誰なのか。探れば探るほどわからなくなりました。調べて、調べて、調べて……そして、そんな人間はいないことが分かりました」

「いない? 殺そうとする者が誰もいないというのに、子爵令嬢ヴィーフォレアは家族ごと惨殺されたというのか?」

「ヴィーフォレアの子爵家は、敵対派閥にとって少しだけ邪魔だった。その意を汲んだ人間が少しずつ動いて、少しずつ金を出して……そして凶行に及んだ! 誰かの殺意でも悪意でもなく、ただ少し邪魔だったというだけで、彼女は家族ごと殺された! この王国の腐敗によってすりつぶされたんです! こんな王国は無くなってしまった方がいい!」



 それは王国の情勢を探り続けてきた魔王シルドティールも知っていたことだった。

 ブレバルアンド王国はおよそ100年の周期で訪れる魔王軍との戦いを前提に国家体制が構築していた。魔王軍との戦いのために軍備を整えることを最大の目的としていた。

 しかし魔王は封印され、200年もの平和な時が訪れてしまった。しかしだからと言って王国の在り方をそう簡単に変えることなどできない。魔王は一時的に封印されただけで、完全に消え去ったわけではない。

 

 平和が続いたことにより文官を多く要する家が台頭するようになってきた。魔王軍との戦いで功績をあげてきた武門の家は既得損益を手放すことはできない。そうした二つの勢力を利用して利益を得ようと商人たちは権謀術数を駆使して暗躍している。

 平和が続き教育が拡充したことにより、王政に批判的な平民の知識層も徐々に影響を増すようになってきた。

 軍備の縮小により、職を失った兵士がならず者となり、辺境の地では治安の低下が進行しているという。それなのに、いくつかの地域で反乱の兆しがあり、王国軍は下手に動けず、事態を収めることができないでいる。

 

 清らかな清水も、流れを止めれば腐ってしまうように。魔王軍との戦いを前提としていたブレバルアンド王国は歪み、よどみ、そして腐敗が蔓延した。

 ハルトラルドの元婚約者、子爵令嬢ヴィーフォレアは、そうした腐敗の犠牲者だったのだ。


「だが、どうして封印を解く方法が婚約破棄の宣言だとわかったのだ?」

「そこは推測です。黒髪で紅い瞳の令嬢が魔王の転生体であるという噂はそれなりに広まっていました。貴女との婚約の話が来た時、禁則事項の契約書に『婚約破棄は公の場で宣言してはならない』といった妙な文言がいくつかありました。それをもとに愛の女神リアラヴィア様の逸話と照らし合わせれば、何が禁止されているのか見えてきたんです」

「確信は無かったのか。もし我が魔王の転生体でなかったら……あるいは封印解除が婚約破棄の宣言ではなかったら、どうするつもりだったのだ?」

「その可能性は考えていませんでした」


 ハルトラルドの瞳が輝いた。それは愛に狂った人間の輝きだった。


「だって私はヴィーフォレアのことを愛してたんです。ずっとずっと、愛の女神リアラヴィア様に願っていたんです。そんな時にあなたとの縁談が決まりました。きっとこれは愛の女神の導きに違いないと思いました。そして見事、魔王は復活した! こんなにも素晴らしい殺戮を繰り広げてくれた! 私は正しかったんです!」


 それは狂気の判断だった。

 だが、だからこそ魔王の復活にたどり着いた。

 魔王シルドティールも王国の腐敗によって女神の封印を解除できるチャンスもめぐってくると予想していた。それは的中していたのだ。だがそれが、愛と言う名の狂気によってなされるとは思わなかった。

 

「ふ、ふざけないでください!」


 魔王がハルトラルドの答えについて思案を巡らせていると、突然金切声に邪魔された。

 今までハルトラルドの陰に隠れ震えていた子爵令嬢アインシニアだ。今は彼から離れ、おぞましいものを見るような目つきで彼を見ている。

 

「し、信じられない! そんな理由で魔王の封印を解いたと言うのですか!? こんなにたくさんの人が死んだんですよ! 魔王が復活したら、もっと死ぬ! いっぱい死ぬ! この人殺し! 人殺しーっ!」


 そこまで言うと、アインシニアはしゃがみこみ、顔を覆ってしくしくと泣き出した。床に拡がる血にドレスが濡れるのを気にした様子もない。そんな余裕はないのだろう。彼女は既に限界のようだった。

 

「ところで、この女との間に見つけた『真実の愛』とやらは何だったんだ?」

「ただの出まかせです。この令嬢は敵対派閥の人間です。情報を探りに私に近づいてきたので、ちょうどいいから利用したんです」


 そう言ってハルトラルドは肩をすくめた。復讐を遂げた彼にとってはもうどうでもいいことなのだろう。

 魔王シルドティールは思わず脱力してしまいそうになった。こんな簡単なことで封印を解けるとは思わなかった。

 これなら過去の転生時、夜会で婚約者に魔法をかけて婚約破棄の宣言を言わせるだけでも封印は解けただろうか。いやさすがにそれではダメだったのだろう。上っ面の言葉だけで、あの愛にうるさい女神が納得するはずもない。

 婚約者ハルトラルドは最初から伯爵令嬢エスラーティアのことを愛していなかった。死んだ婚約者ヴィーフォレアのことを心底愛していた。

 そして他の令嬢を引きつれて、婚約破棄の宣言をした。そうした要素だけ考えてみれば、婚約破棄の王道ともいえるシチュエーションだ。おそらくそういうところが愛の女神リアラヴィアのお気に召したのだろう。

 

「いずれにせよ、この女を生かしておく理由はないな」


 こちらの会話をよそに、子爵令嬢アインシニアはしくしくと泣き続けていた。

 それは魔王シルドティールにとって見慣れた人間の姿ではあったが、この静かな会場では少々耳障りだった。だから彼女には泣き止んでもらうことにした。

 『薄闇の爪』を伸ばして軽く薙いだ。それだけで子爵令嬢アインシニアの首は落ち、彼女は永遠に静かになった。

 彼女は殺されるほどの罪を犯していない。覚悟もないまま虫を払うように殺された。理不尽な話だ。だが魔王シルドティールにとっては慣れたことに過ぎなかった。彼女は人を滅ぼすために生まれた魔王なのだ。

 

「さて……お前はどうしてくれよう」


 これで会場で生き残った人間は、子爵子息ハルトラルドただ一人となった。


「面白い話を聞かせてもらった。封印を解いてくれたことも、感謝すべきことだろう。だが、自分の目的のためにこの魔王シルドティールを利用した人間を捨ておくことはできない。そんなお前にあえて問うてやろう」


 魔王シルドティールは、長く伸ばした『薄闇の爪』を突きつけると、ハルトラルドに問いかけた。

 

「お前はこれからどうするつもりなのだ?」


 ハルトラルドは愁いを帯びた笑みを浮かべた。そして跪くと、差し出すように頭を下げた。

 

「私の目的は既に達成されました。どうかお気の済むようになさってください」


 抵抗の意志は見られない。生きる気力すら見えない。全てやり遂げたという満足感だけがあった。


「……そうか。お前はやはり、最初から死ぬつもりだったのだな」

「愛する人を失った時、私は死んだも同然でした。復讐だけがよすがでした。でもそれも、あなたが解放されたおかげで終わりました。会場の貴族たちを殺すあなたを見て、王国の滅亡を確信できました」

「それで終わりか。つまらない人生だったな」

「そうですね。ですが……満ち足りた死を迎えることができました」


 魔王とは人類を滅ぼすために存在している。これまで殺戮対象である人間の内面について考えたことはなかった。身分の高低も、財産の多寡も、能力の高低も。何一つ考慮せず殺してきた。軍を動かし、力を揮い、人間をことごとく殺してきた。

 そこに何の感慨もなかった。

 だが、今は少し違った。何か面白くなかった。このままこの男を殺すのは、つまらないことのような気がした。

 だから魔王は、別の選択をすることにした。

 

 『薄闇の爪』を引っ込め、ハルトラルドの襟元をつかんだ。魔法で強化した身体機能を使って強引に立ち上がらせた。

 戸惑うハルトラルドに何かを言う暇も与えず、魔王シルドティールは噛みつくように口を寄せると、強引に舌を滑り込ませた。


 それは口づけと呼べるものではなかった。愛を確かめる純粋さは無かった。快楽を求める醜さもなかった。相手の秘所に一方的に踏み入り、嬲り、貶める。それは蹂躙と呼ぶべきものだった。

 口内の蹂躙はたっぷり5分は続いた。

 始まりが唐突だったように、終わりも唐突だった。

 魔王シルドティールは口を離すと、ハルトラルドを軽く突き飛ばした。たたらを踏む彼に向け、邪悪な笑みを浮かべた。男と口を合わせていたというのに、その顔には照れはなく、顔色一つ変えていない。

 ハルトラルドは顔を真っ赤にしていた。口づけと呼べるものではなかった。相手は恐るべき魔王だ。

 それでもその身体は、年若い令嬢であることに違いはない。女性と肌を重ねたことすらない青年にとって、あまりに刺激的で濃厚な経験だったのだ。

 

「い、一体何を……!?」

「お前を我が従僕とした。体液を通して魔王の魔力を授かったお前はもはや人間ではない。魔王の従僕となったからには、許可なく自殺できると思うな。我が従僕として、我が滅びるまで仕えてもらう」


 ハルトラルドの紅潮していた顔がさあっと青ざめた。


「そんな……! そんな、そんな、そんな! あんまりだ! ヴィーフォレアのいない世界でこれ以上生きていたくない……死にたいんだ! どうか死なせてください魔王様!」

「たかが従僕が魔王に意見するつもりか?」


 ぎろりとにらまれ、たちまちハルトラルドは跪いた。彼の意志ではなかった。魔王の魔力によって作られた強力な主従関係が、彼に服従を強いたのだ。

 魔王の言葉通り、自殺すらできないことを実感した。愛する人を失った悲しみを抱えたまま生き続けなければならない。ハルトラルドは苦しみのあまりボロボロと涙をこぼした。

 そんな彼に、魔王シルドティールは言葉を投げた。


「この王国は必ず滅ぼす。腐敗したこの王国では勇者が生まれたところで守りきれまい。封印を解いた褒美として、お前には王国が滅びる様を最後まで見せてやろう」


 ハルトラルドはぱっと顔を上げると瞳を輝かせて魔王を見つめた。希望だ。希望が彼の瞳を輝かせている。

 王国を恨んでいた。その滅亡の契機を作るだけで満足していた。だが心の底では、王国が滅びる様を見たくてたまらなかったのだ。

 彼の精神はとっくに壊れていた。心の在り方は、既に人間離れしていた。そしてその身体は早くも魔王の魔力が浸透し、人間ではなくなりつつあった。身も心も、魔族の側に落ちた。

 今宵の夜会で人間は誰一人生き残らなかった。

 魔王シルドティールと従僕ハルトラルドは、転移魔法で魔族の領地へと去った。

 そしてそこには、無数の無惨な死体しか残らなかった。

 

 


 愛の女神リアラヴィアの目的はなんだったのか。

 魔王を封じることが目的だったのなら、女神は失敗したことになる。魔王が愛を知るか、婚約破棄を宣言されることでしか解けない強固な封印。しかしそれは結局のところ、一人の貴族子息の暴走によって解かれてしまった。

 だが愛の女神はこの結果に満足していた。彼女の目的は最初に魔王に告げた通りのことだからだ。


 ――あなたに愛を教えるためです。


 魔王シルドティールに愛を教える。ただそれだけを目的とした封印だった。

 人間の貴族令嬢に転生した魔王シルトディール。彼女は一方的に愛情を注がれるばかりで、愛を返すことをしなかった。

 しかし婚約破棄を宣言されたことで、愛を失うという苦しみを味わった。

 

 魔王自身は自覚していない。だがその後の行動で明らかだった。

 配下すらも戦略のため使い捨て、その冷酷さから「凍てつく鋼」の異名を持つ魔王シルドティール。そんな魔王が、たかが人間を手ずから従僕にしたのだ。彼女が初めて見せた執着だった。

 どれほど(いびつ)で呪わしくとも、それは確かに愛の始まりだったのだ。

 

 確かに魔王シルドティールは愛を知ることができた。愛の女神リアラヴィアは目的を達成できたのだろう。だがその代償はあまりに大きかった。

 夜会の参加者はことごとく殺された。腐敗したブレバルアンド王国は勇者の誕生が間に合わず、滅ぼされることになるだろう。最大の敵対勢力を滅ぼした魔王軍は、より大きな惨禍を世界にもたらすことに違いない。

 

 だがそれは、愛の女神にとっては大したことではなかった。愛を知らない魔王が愛を知る。その素晴らしさを前にして、世界の危機など些事に過ぎない。

 愛のためなら人は死すら厭わない。ならば、愛は命より尊いものである。

 それを体現するのが、愛の女神リアラヴィアという恐るべき神なのだった。

 

 

終わり

「婚約破棄を宣言したら夜会の参加者が全滅した!」というネタで何か話を作れないかと思いました。

流石にお話が思いつかなかったので保留にしました。

後日、ヒロインが魔王の転生体ならできるかも、と思いつきました。

それでそれが成り立つようにキャラや設定を詰めていったらこういう話になりました。

当初考えていたより残酷無惨なお話になってしまいました。

相変わらずお話づくりはままなりません。


2025/2/27

 誤字指摘ありがとうございました! 修正しました! そのほか読み返して気になったところをあちこち直しました。

2025/2/28

 誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!

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― 新着の感想 ―
愛のためなら(他人の)命など惜しくはない!ですね まさに神、愛は全てを凌駕するというブレなさが爽やかな作品 その後の国の滅亡と勇者蹂躙、無自覚魔王のラブラブ生活を追加してくれたらもっといいです
朝から凄いものを読ませていただきました。 人間の想いの強さ?と女神のしたたかさ、 魔王さえも翻弄されましたね。 短編らしくない見事な作品を読ませていただいき有難うございました。
どこの多神教の世界でも愛の神様は恐ろしく強く他の神様も制御できないものとして描かれるのて、こういうのアリだと思います〜! 人の信仰で在るわけでもなさそうだし、だったら愛の神様の豪胆で旁若無人なさまは神…
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