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黒い王冠  作者: いぬ
7/12

◆07 灰の森に響く声

村を離れて数日、カインは灰色の森と呼ばれる土地をさまよっていた。太陽が見えないほどに濃い霧が立ち込め、どこを歩いても同じ景色が続く。枯れた木々が細い腕を空に向けて伸ばし、風が吹くたびに骨のように軋む音を立てた。


「この先に何がある……?」


カインは呟いた。自分でも分からないまま進み続けていた。村を離れることで、彼の中にあった責任と恐怖は薄れたかのように思えたが、代わりに深い孤独が胸を満たしている。


(彼らにはお前を理解する力がなかった。お前が進むべき道を選んだだけだ)


王冠の囁きがまた耳元で響いた。それは冷たく、どこか満足げな声だった。カインはその声に答えず、手に持つ王冠を見下ろした。その黒い輝きは、霧の中でも不気味に際立っている。


「進むべき道だと?俺にはもう、どこへ向かえばいいのかも分からない……」


王冠を睨むように見つめながら呟く。だが、霧の中に続く道は彼に答えを与えない。ただ、彼が足を止めることを許さないかのように、前へと続いている。


やがて霧がさらに濃くなり、視界がほとんど効かなくなった。カインは足元に気を配りながら慎重に進む。だが、背後から低い声が聞こえた瞬間、全身が硬直した。


「……カイン……」


誰かが自分の名前を呼んでいる――だが、その声は聞き覚えがない。霧の中から漂ってくる声に、カインの胸がざわめいた。


「誰だ?」


カインは霧の中に向かって声を張り上げた。だが、返事はない。ただその代わりに、微かに揺れるような低い笑い声が聞こえてくる。風が立ち木を揺らし、その音に混じって何かが動いている気配が感じられた。


(慎重になれ。それはお前に害を及ぼす存在かもしれない)


王冠の声が囁くが、カインはそれを無視した。槌を手に構え、声のする方向へとゆっくりと歩みを進める。足元の枯れ葉がかさりと音を立て、音のする方向へ一歩一歩近づいていく。


霧が一瞬だけ薄れた瞬間、カインはその先に黒い影を見つけた。それは人の形をしていたが、どこか歪んでいた。影の輪郭はぼんやりとしており、まるで霧の中に溶け込んでいるようだった。


「……お前は誰だ?」


カインが尋ねると、影はゆっくりと動き始めた。低い声で笑いながら、答える代わりに言葉を放った。


「カイン……お前は王冠を手にし、力を得た。しかしその代償が何かを知っているのか?」


その言葉に、カインの心が揺れた。影の声は、彼がずっと胸の奥に押し込めてきた疑念を抉るかのようだった。


「お前は俺を知っているのか?」


声を震わせながら問いかける。だが、影は直接的な答えを避けるように笑みを深めるだけだった。


「その王冠が何であるか……その力がもたらす破滅を、本当に理解しているのか?」


影の声が静かに響く。霧が再び濃くなり、影が揺らぎ始めた。その存在が本当に実体を持つものなのか、あるいはただの幻なのか、カインには区別がつかなかった。


「……知っている必要があるのか?」


カインは問い返した。その言葉には自分でも驚くほどの迷いが含まれていた。影はその迷いを嘲るように、静かに言った。


「お前がこの力を手放さないのなら、いずれそれを知ることになるだろう……だが、それを知る時、お前は……」


その言葉が途切れた瞬間、影は再び霧の中に溶け込んで消えた。カインはその場に立ち尽くし、手の中の王冠を強く握りしめた。


影が消えた後、霧の中には再び静寂が訪れた。だが、その静けさがかえってカインの心を締め付ける。先ほどの影が放った言葉が、頭の中をぐるぐると回り続けていた。


「王冠がもたらす破滅……?」


カインは呟き、手の中の王冠をじっと見つめた。指先を滑る冷たい感触が、まるでその言葉を裏付けるかのように感じられる。自分は本当にこの力を理解しているのだろうか?それとも、王冠に操られているだけなのか?


(奴の言葉に耳を貸すな。お前は正しい道を歩んでいる)


王冠の囁きが耳元で再び響く。それはいつもよりも冷たく、まるでカインの不安をかき消すことを意図しているかのようだった。しかし、その言葉がどれほど自分を慰めるものでも、心の中の疑念は消えなかった。


カインは槌を杖のようにして歩き出した。霧はますます濃くなり、周囲の景色は白い壁に囲まれたように見えた。木々の影も消え、ただ霧の中をさまよう感覚だけが続く。


「どこへ向かえばいい……?」


自問自答するように呟く。その声は霧に吸い込まれ、どこにも届かない。だが、その時、また別の声が耳元で響いた。


「……カイン……助けて……」


その声は、村の子供のものだった。それは、自分が守ろうとしていた村人の声に違いなかった。カインの胸が一気に締め付けられる。


「何……?」


彼は周囲を見回したが、霧の中に人影は見えない。だが、声だけが確かに響いてくる。それは助けを求める悲痛な響きを伴い、カインの足を前に進めさせた。


「待っていろ!今行く!」


霧の中に向かって叫びながら、彼は槌を握り直し、声のする方向へと駆け出した。しかし、進めば進むほど、声は遠ざかっていくようだった。


「くそっ!どこにいるんだ!」


その声に必死に応えようとするたび、足元の地面が不安定になり、木の根が絡みつくように道を遮る。霧の中には何も見えない。それでも彼は、声の主を探し続けた。


やがて、声がぴたりと止んだ。カインは足を止め、息を切らしながら霧の中を見回した。しかし、そこにはただの白い空間が広がるだけだった。


(見ろ。奴らはお前を惑わせようとしている。お前の力が必要な時には、誰も現れない)


王冠の囁きが再び響き、カインの胸に虚無感が広がる。助けを求めている者がいる――その確信すら、今や幻のように思えてきた。


「これは……俺の心が作り出した幻なのか?」


そう呟く声が霧の中に吸い込まれていった。


カインはその場に立ち尽くし、目を閉じた。助けを求める声も、先ほどの影も、すべてが幻のように思える。この霧の中に自分以外の誰も存在しないのだと気づくと、胸の奥が空洞になるような感覚に襲われた。


「俺は……本当に一人なのか?」


その言葉が、自分自身を突き刺す刃のように響く。目を開けたカインは、王冠をじっと見つめた。指先を滑る冷たい感触が、まるでその問いに答えるかのように彼の意識を支配しようとする。


(お前が選ばれた時点で、孤独は避けられない。王の力を持つ者に友は必要ない)


王冠の声が冷たく断定的に響く。その言葉は、もはや慰めでも導きでもない。ただ、彼の内なる疑念を封じ込める鎖のようだった。


「そんなものが……選ばれたということか?」


カインの声は震えていた。孤独が自分の宿命であると認めざるを得ない状況に、心が悲鳴を上げていた。彼がこれまで求めていたもの――村を守るための力、そしてそのために必要な王冠。それが、彼自身の存在を否定する道具に変わってしまったのではないかと気づき始めていた。


カインは槌を地面に突き立て、深く息を吐いた。霧の中でただ一人、震えるように立ち尽くす。彼の心には、影の言葉が再び蘇った。


「この力を本当に理解しているのか?」


その問いに対する答えが、まだ見つからない。だが、それを知ることが、今の自分に必要な唯一の道だと確信していた。カインはゆっくりと立ち上がり、槌を握り直す。


「理解する。俺がこれを選んだのなら、全てを知るまで進むしかない」


その言葉に反応するように、霧が少しずつ薄れ始めた。視界の向こうにかすかな光が見える。それは遠く、希望と呼ぶにはあまりにも弱々しい輝きだった。しかし、カインはその光に向かって足を進めることを決めた。


「たとえ、この先に何が待っていようとも……」


彼はそう呟き、王冠を握りしめながら霧の中を歩き始めた。背後には再び濃くなり始める霧が広がり、彼の足跡を消し去っていく。

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