◆03 反旗を翻す者たち
広場での一件から数日が過ぎた。カインが広場を歩くと、村人たちが無言のまま道を開ける。かつて同じ釜の飯を食べた隣人たちの目は、今や疑念と恐怖で曇っていた。
「……俺は、ただ守ろうとしただけだ」
彼は何度も心の中で呟いた。しかしその言葉が虚しい響きを持つのは、自分でもわかっていた。村人たちの冷たい視線は、彼の体の芯に重くのしかかる。
空は依然として灰色に覆われ、太陽の気配はなく、風だけが低く鳴る。静寂が漂う村の中には、どこか異様な緊張感が充満していた。
その一方で、カインには不安な気配を感じる場面が増えていた。背中越しに向けられる視線、耳元でかすかに聞こえる囁き――村人たちが自分をどう思っているのか、想像するのは難しくなかった。
ある日の午後、カインは家の外で作業をしていた。周囲には誰もいないはずだったが、風に乗って、断片的な声が聞こえてきた。
「……あの男を放っておくわけには……」
カインは鋭く顔を上げた。その声は近くの納屋の中から漏れてきていた。足音を忍ばせ、彼は音のする方へ近づいた。扉に耳を当てると、中では数人の村人たちが話している。
「王冠の力に囚われたカインは危険だ。あの略奪者たちを殺した時の目……あれは、正気のものじゃなかった」
「そうだ。次は私たちに向かうかもしれん」
カインの胸に鋭い痛みが走った。王冠を手にしてから、村人たちとの間に生じた溝は、取り返しのつかないものになりつつあると感じた。
(彼らの恐怖はお前の力の証明だ)
王冠の冷たい囁きが頭の中に響く。それはまるで、カインの疑念を裏付けるかのようだった。
納屋の中では、村人たちの話し声がさらに熱を帯びていた。
「もう耐えられない。カインが力を使えば、次に何をしでかすかわからん。あいつは――いや、もう人間じゃない」
その声には恐怖と焦りが混じり、扉越しに聞いているカインの心を深くえぐった。
「だが、どうする?あの王冠を取るなんて命知らずだ。あれはただの装飾品じゃない……まるで何かが宿っているようだった」
「取らなくてもいい。どのみち奴を排除するしかない。それが村を守る唯一の方法だ」
扉に耳を押し付けながら、カインは息を呑んだ。拳が自然と固く握られる。自分は村を守るために戦ったのに――それなのに、村人たちは自分を排除しようとしている。それがどれほど理不尽か、彼らには分からないのか?
(見ろ。奴らは恩を忘れ、恐怖に駆られて裏切りを企てている)
王冠の声は、まるで苦い薬を無理やり飲ませるように、カインの胸にしみ込んでいった。
彼はそっと扉を押して中を覗いた。納屋の薄暗がりの中で、4人の村人が集まっていた。彼らの目には、冷静さを欠いた焦燥感が漂っている。
「奴が戻る前に、計画を決めておこう。カインを眠らせて、どこか遠くへ追放するんだ。そうすれば王冠も……」
そこまで聞いた瞬間、カインは思わず体を動かした。扉が音を立てて開く。突然の物音に、村人たちが驚きの表情で振り返った。
「俺を追放だって?」
彼の低い声に、4人は一斉に後ずさった。カインはゆっくりと納屋の中に足を踏み入れ、彼らを冷たい目で見下ろした。その表情には怒りと失望が混ざり合っていた。
「俺がどれだけお前たちのために戦ったか、忘れたのか?」
カインの声には静かな怒気が滲んでいた。しかし、その威圧感が村人たちの恐怖をさらに煽ったのか、彼らは震えながら目を伏せた。
「違うんだ、カイン……」と、1人がか細い声で言い訳を始めたが、その目には明らかな恐れが見て取れた。
(言い訳を聞く必要はない。裏切り者には罰を与えよ)
王冠の声がまた響く。カインはその声を振り払おうとしたが、拳は強く握られたままだった。
「俺にとってお前たちは――裏切り者だ」
低く静かな声でそう告げた瞬間、村人たちは目を見開き、一斉に逃げ出そうとした。
カインは無意識に納屋の扉を閉じた。鍵はなかったが、その音は重く、村人たちを閉じ込める意思を象徴しているかのようだった。逃げ場を失った4人は互いに目配せをしながら、恐怖に怯えるように壁際に後ずさった。
「逃げられると思うな」
カインの声は低く抑えられていたが、その静けさがかえって緊張感を増幅させた。頭の中では王冠の声がますます強くなっていた。
(力を示せ。彼らはお前を拒絶した。その罰を与えよ)
その言葉に逆らうことはできなかった。胸の奥底に渦巻く怒りと失望――それは、自分を守るための武器のようにも思えた。
「お前たちは俺を恐れるばかりで、何も分かっていない」
カインはゆっくりと一歩ずつ彼らに近づいた。4人の村人は震え上がり、まともに彼を見ることができなかった。
「俺が何を犠牲にしたかも、お前たちは考えもしない……。俺が守ったこの村で、お前たちは恩を仇で返すつもりか?」
言葉を発するたびに、怒りが鋭く燃え上がる。目の前の4人は、自分にとっての「裏切り」の象徴だった。
1人の男が震える声で反論しようとした。
「俺たちは……ただ……カイン、お前が――」
その言葉は最後まで続かなかった。カインの足元に転がっていた農具――鉄の鍬が彼の手に収まる。重みが手に馴染むその感触に、胸の中の熱がさらに膨れ上がる。
(振るえ。彼らを裁け。それが王の務めだ)
王冠の声が一層大きく響く。
「俺がお前たちを守ったように……お前たちも、俺に従うべきだったんだ!」
怒りとともに鍬を振り上げる。空を切る音と共に、それは村人の足元に叩きつけられた。鉄の鍬が床に深く突き刺さり、音が納屋中に響き渡る。
「カイン!頼む、落ち着いてくれ!」
震える声で懇願する村人たち。だが、カインの目には恐怖に歪む彼らの顔が映っているだけだった。
(彼らにはお前の価値がわからない。それならば……お前が教えるしかない)
冷たい声が胸を突き刺し、カインの手が再び鍬を握りしめる。
鍬を握るカインの手は震えていた。怒りに突き動かされながらも、その奥底では別の感情がせめぎ合っていた。王冠の囁きは、彼の意志を飲み込むように響き続ける。
(裁け。裏切り者を罰するのは王としての正義だ)
「正義だと?」
カインは低く呟き、自分自身に問いかけるように声を漏らした。目の前の村人たち――怯える彼らの姿は、確かに裏切りの象徴だった。だが同時に、それはただの恐怖に駆られた人々の姿でもあった。
「どうして……どうしてこんなことになったんだ……」
声が震えた。その瞬間、鍬を振り下ろす衝動はわずかに後退した。彼は荒い息をつきながら、震える手で鍬を放り投げた。それが床に落ち、鈍い音を立てる。
村人たちは、カインが武器を捨てたのを見て、一斉に後ろへ逃げた。彼らの目には安堵と恐怖の入り混じった感情が浮かんでいたが、何も言葉を発する者はいなかった。
「出て行け……今すぐにだ」
カインは静かにそう告げた。振り上げた声ではない。しかし、その言葉には怒りが染みついていた。村人たちは互いに顔を見合わせ、怯えながらも一斉に納屋を飛び出していった。
彼らの足音が遠ざかると、納屋の中は再び静寂に包まれた。カインは深く息を吐き、膝から力が抜けるようにその場に座り込んだ。
(弱いな、お前は)
王冠の声が冷たく囁く。それは挑発であり、嘲りでもあった。だが、今のカインにその言葉に答える気力はなかった。
「俺は……守ったんだ。それなのに……」
彼は頭を抱え、床に視線を落とした。王冠が示す「正義」と、自分の中に残る人間としての良心。その二つがぶつかり合い、彼の心は疲れ切っていた。
外では風が低く鳴き、木の葉が擦れ合う音が聞こえる。広場の方からはかすかな話し声が聞こえてきた。カインはその方向を見つめたが、もはや村人たちが自分を受け入れることはないと確信していた。
王冠はテーブルの上で微かに輝いていた。それはまるで、彼を嘲笑うかのように冷たく美しい光を放っている。
「俺には、もうこれしかないのか……」
カインは立ち上がり、王冠に手を伸ばした。指先がその冷たい金属に触れると、再び体に力が満ちる感覚が戻ってきた。それが快感と共に訪れるたび、彼の胸には得体の知れない虚しさが広がった。
納屋を出ると、空には相変わらず厚い灰色の雲が漂い、日は差し込まない。ただ冷たい風だけが吹き抜ける中、カインは王冠を握りしめ、静かに歩き出した。
彼はまだ、どこへ向かうべきかを知らなかった。




